Pain Is Not a Measure of Damage — The Brain's Verdict on Danger — Epoche C2
場面設定: 夕暮れの疼痛外来、その日の最後の診察。診察室の壁の画面には、患者の腰椎の磁気共鳴画像が映し出されている——どこにも、はっきりした異常はない。慢性の腰痛を十年来かかえる元判事のホロウェイ氏(七十代、仕立てのよいが少しくたびれた上着、銀の握りの杖、痛みと、長年の不信とで、口元が固く結ばれている)。机を挟んで向かいに座るのは、疼痛医学を専門とする臨床医にして研究者のカーソン博士(四十代、白衣の下にセーター、画像ではなく患者の顔のほうをまっすぐに見ている)。外来の廊下は、もう静まりかえり、片づけのワゴンの音だけが、遠くを通り過ぎていく。 先生、私は専門医から専門医へと、たらい回しにされてきた身でしてね。今度の検査も——(と、壁の画像を杖で示す)ご覧のとおり、『異常なし』だ。その先に続く言外の意味は、もう聞き飽きました。『どこも悪くない、ならば気のせいだろう』と。今日は礼儀として伺ったまでで、また体よくあしらわれるものと踏んでいます。私は四十年、法廷で人の言い逃れを嗅ぎ分けて飯を食ってきた。だから単刀直入に伺いたい——あなたは今から、私の痛みは本物ではない、と仰るおつもりか。 もっともなお尋ねです。お望みどおり、率直にお答えしましょう。いいえ。私はあなたの痛みが本物ではない、などと申し上げるつもりはありません。もっと奇妙で、そして——私が思うに——もっと役に立つことを申し上げます。あなたの痛みは、まったくもって本物です。そして、あの『異常なし』の画像は、それと矛盾などしていない——なぜなら痛みとは、そもそも、組織損傷の計器の目盛りなどではなかったからです。その考え方は、三百年前のもので、しかも間違っているのですよ。 三百年前——つまりデカルトですな。少年と炎、皮膚から脳へと引かれる一本の糸、火傷の度合いに応じて鳴る痛みの鐘。まさにそう感じられるのですよ、先生。損傷が大きいほど、鐘は大きく鳴る。これは常識というものでしょう。 常識です。そして常識は、出来の悪い解剖学者なのですよ。その模型を打ち砕いた症例を、いくつか差し上げましょう。ある建設作業員が、一九九五年、十五センチの釘の上に飛び降りた。釘は長靴を貫いて突き出していた。彼は絶叫し、のたうち、強いオピオイドを要した——ところが、そっと長靴を脱がせてみると、釘は足の指のあいだを、きれいにすり抜けていた。傷は、ただの一つもなかった。痛みは圧倒的で、まったくもって本物だった。さて、デカルトの糸の、どこで、あの鐘は鳴ったのでしょう。 ……驚いた拍子の、いたずらでしょう。串刺しになったと思い込んだ。足が無事だと見て取った途端、痛みは止まった。 まさしくそのとおり——そして、それこそが革命の全てを、一文に収めたものなのです。痛みは、組織の状態ではなく、危険についての脳の『結論』を、追いかけていた。さあ、今度は逆向きの症例を。アンツィオで重傷を負った兵士たち。手足を砕かれた男たちが、痛みはわずかだと言い、モルヒネを拒んだ——彼らにとって、その傷は、前線からの脱出、故郷への切符を意味したからです。同じ肉体、正反対の意味、正反対の痛み。身体は、痛みの計器ではない。痛みとは、あなたがどれほどの危険にさらされているか、についての、脳の『見解』なのですよ。 (法廷弁護士の間合いで)……見解、ですか。その言葉は気に入らんな——気まぐれのように聞こえる。痛みが、あってもなくてもいいもののように。断言しますがね、私がこの椅子から立ち上がるとき、それのどこにも、『見解』めいたところなど、ありはしませんよ。 その言葉を選んだのは、まさに、あなたを落ち着かなくさせるからです。気まぐれという意味の『見解』ではありません。証拠から形づくられる『判断』という意味の見解——しかも、あなたを生かしておくことだけを仕事とする器官が、下す判断です。メルザックとウォールは一九六五年、脊髄に『門』があることを示しました。脳が開け閉めできる門——だから身体からの信号は、脳が何を予期し、恐れ、注意を向けるかによって、増幅もされれば、黙らせもされる。のちにメルザックはさらに踏み込みました。痛みは、彼が『神経マトリックス』と呼ぶ網全体によって織り上げられ、身体からの信号が皆無でも、警報を鳴らしうる、と。だからこそ、人は、三十年前に切断した脚に、激痛を覚えうるのです。幻の肢が、痛む。肢は、ないのに。 幻の肢、か。弟がそれを患っていました、切断のあとに——ありもしない足首を、掻こうと手を伸ばしていた。私はあれを、悲しみだと思っていた。それが、私のと同じ仕掛けだと、そう仰るのですか。 まったく同じものです。そして、これがなぜ、ただの珍談ではなく、ほかならぬ『あなた』にとって重要なのか。一部の人では——とりわけ、何か月、何年と経つうちに——警報装置そのものが、変質するのです。感度が上がり、門が開いたまま固まってしまう。脊髄と脳が、まるで言語を覚えるように、痛みを学習していく——ますます小さな引き金で、ますます大きな痛みが鳴るように。これを、中枢感作と呼びます。最初の損傷は、とうに治っているかもしれない。画像は、きれいかもしれない——それでも警報は、鳴り叫びつづける。警報それ自体が、病になってしまったからです。あなたの『異常なし』の画像は、どこも悪くない証拠ではない。問題が、組織から、警報を鳴らす仕組みのほうへと、移った証拠なのですよ。 (ゆっくりと)……警報が、病になった。では、この長い年月、外科医という外科医が、切除すべき『壊れた箇所』を探し回っていたのは——燃える建物の中を、とうに煙のほうへ移ってしまった火を求めて、煙感知器を捜していた、というわけですか。 それは、私が今まで口にできたどんな言い回しよりも、見事な一文です。そして、ええ、そのとおり。だからこそ、切ることは、慢性痛の患者をしばしば救えず、ときには事態を悪くさえする——警報を、メスで切り取ることはできないのですから。けれど、ここからが、絶望ではなく希望を差し上げるべき部分です。そしてそれは、同じ科学から導かれる。もし痛みが、証拠から——あなたが何を理解し、予期し、恐れ、どこに注意を向けるかも含めた証拠から——組み立てられているのなら、その証拠を変えることで、音量を絞ることができる。ごまかすのではありません。その仕組みに、自分が思っているより安全なのだと、教えてやることによって。 ここで、私の古い異議を、もっと慎重に述べさせていただかねばならん。残酷さが忍び込むのは、いつもここだからです。もし私の痛みが、信念と、恐れと、注意から組み立てられているのなら、怠慢な臨床医はこう結論する——これは私の『落ち度』だ、と。私が臆病だから、弱いから、何かを求めているからだ、と。それが、あなたの仰ったすべての下に、口を開けている落とし穴です。『脳の中にある』が、『ならば克服せよ、できぬならお前の責任だ』に、すり替わる。 その扉を見張っておられるのは、正しい——それこそが、この科学全体の本当の危うさであり、まずく教えれば、まさにその残酷さに堕します。ですから、正確に申し上げましょう。痛みが脳によって作り出される、と言うことは、それが選ばれたとか、想像されたとか、自業自得だ、と言うことではありません。視覚もまた、脳によって作り出される——だからといって、夕焼けが幻覚になるわけでも、あなたが盲目なら、それが道徳的な落ち度になるわけでもない。あなたの痛みは、あなたの視力と同じだけ本物で、そして、ただ念じるだけでどうにかなるものでは、同じだけ、ない。この科学が差し出すのは、非難ではありません。第二の道具一式です——理解、段階づけた運動、警報の再教育。メスが、はなから届くはずのなかった苦しみに対する、道具です。落ち度は、はじめからあなたにはなかった。けれど、出口は、『手術』と札の掛かった扉では、ないのかもしれません。 (静かに)四十年、私は、ものごとが正しく名づけられることを言い張って、暮らしを立ててきた——『私には証明できない』は、『それは起きなかった』と同じではない、とね。それなのに、私はその裏返しの、最悪の型を、鵜呑みにしていた——『画像はきれいだ』が、『痛みは偽りだ』を意味するに違いない、と。あなたは、その区別を、私に返してくださった。痛みは本物。損傷は治っている。そして警報は——ことによると、新しい節回しを、教え込めるかもしれない。 それが、ことの全てです。そして、私の教科書よりも、見事に言い表してくださいました。最後に、すべての患者にこそ、真っ先に聞いてほしい一文を、差し上げましょう——痛みは、あなたがどれほど傷ついているかの計りではない。それは、あなたの脳が、どれほどの『保護』が必要だと考えているかの、計りなのです。そして保護は、骨折とは違って、もう警戒を解いてよい、と示されれば、それに応えてくれる。ゆっくり始めましょう。そして、まずあなたが、ご自分の痛みが何であるかを知ることから、始めましょう。この奇妙な器官においては、警報の正体を理解することが、それ自体すでに、ほんの少し、警報を静め始めることなのですから。来週、同じ時間に——杖はお持ちください。けれど、数か月後に、それがあなたの体重を、もう少しだけ軽く支えていないか、見てみましょう。 解説: 夕暮れの疼痛外来を舞台にした C2 級・十六ターンの弁証法。慢性痛という、誰の生にも触れうる主題を、一人の患者に接地して扱う。正(懐疑する側):慢性の腰痛をかかえる元判事の立場——痛みは組織損傷の警報であり(デカルト的な痛みの綱引き模型)、『画像に異常なし』は『気のせい・偽物』を意味するように聞こえ、四十年法廷に立った彼はその侮辱を拒む。反:疼痛科学者の立場——痛みは組織損傷の目盛りではなく、危険についての脳の『判断』として構築される防御的出力だ。釘が長靴を貫いても足は無傷だった激痛の症例、アンツィオの兵士(同じ傷・反対の意味・反対の痛み)、メルザックとウォールのゲート制御理論(一九六五)と神経マトリックス、幻肢痛、そして中枢感作(警報それ自体が病になる)が、旧模型を打ち砕く。合:『損傷=痛み』の旧模型も『脳の中=偽物』の侮蔑も、ともに誤りで、ともに残酷だ。痛みは脳が作る本物の防御体験であり(視覚が脳産物でも夕焼けは幻覚でないのと同じ)、文脈・意味・理解・注意に応じて変わるからこそ慢性化し、また理解によって音量を絞りうる。『脳の中にある』は『お前の落ち度』ではない——非難ではなく第二の道具(理解・段階的運動・警報の再教育)を差し出す。最後は『痛みは損傷の計りではなく、脳がどれほどの保護を必要と考えているかの計りであり、保護は警戒解除を示されれば応える』に収束する。 参考文献 Melzack, R., & Wall, P. D. (1965). 「Pain Mechanisms: A New Theory」. Science, 150(3699), 971-979. Melzack, R. (2001). 「Pain and the Neuromatrix in the Brain」. Journal of Dental Education, 65(12), 1378-1382. Fisher, J. P., Hassan, D. T., & O'Connor, N. (1995). 「Minerva」. British Medical Journal, 310, 70.(長靴を貫いた釘の症例報告) Moseley, G. L., & Butler, D. S. (2015). 「Fifteen Years of Explaining Pain: The Past, Present, and Future」. The Journal of Pain, 16(9), 807-813. Wall, P. D. (1999). 『Pain: The Science of Suffering』. London: Weidenfeld & Nicolson.