この子を残して — 永井隆
[#改ページ] 永井博士一家(写真右より誠一さん、博士、茅野さん) [#改ページ] 浦上天主堂の廃墟にたつ誠一、茅野兄弟。 [#改ページ] この子を残して うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、 「ああ、……お父さんのにおい……」 と言った。 この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか! 母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか? 枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。重くなりゆく病の床に、まったく身動きもままならぬ寝たきりの私であっても、まだ息だけでも通っておれば、この幼子にとっては、寄るべき大木のかげと頼まれているのであろう。けれども、私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるのであろうか? ――私の布団を押し入れから引きずり出し、まだ残っている父のにおいの中に顔をうずめ、まだ生え変わらぬ奥歯をかみしめ、泣きじゃくりながら、いつしか父と母と共に遊ぶ夢のわが家に帰りゆくのであろうか? 夕日がかっと差しこんで、だだっ広くなったその日のこの部屋のひっそりした有様が目に見えるようだ。私のおらなくなった日を思えば、なかなか死にきれないという気にもなる。せめて、この子がモンペつりのボタンをひとりではめることのできるようになるまで……なりとも――。 ――こんなむごい親子の運命は早くから予想されておらぬでもなかった。私が大学を出て放射線医学を専門に選び、ラジウムやレントゲン線などを用いる研究に身を入れようと心に決めたとき、実はすでに多くの先輩の学者がこの研究で毎日とりあつかう放射線によって五体をおかされ、ついに科学の犠牲となって生命をおとしたことを詳しく知っていたので、あるいは私もまた同じ運命におちいるのではあるまいか、という予感があったのである。しかしながら、それは決定的な運命ではなかった。放射線災害予防については、それらの貴い先輩の犠牲のおかげで、次第に有効な方法が考え出されていたし、従事する私らも十分な注意をしていたからである。だが、第一次欧州戦争のとき、多くのレントゲン医学者が余りに多くの患者を診療しなければならなかったため、注意をしたにもかかわらず、身体の堪え得る量以上の放射線を受けて、ついにおかされ、死んだ先例があるので、私も何かの事情のため、そんな目にあわぬともかぎらぬと考えた次第であった。というのは、その当時満州事変が始まったばかりで、どうやら日本が大戦争をひき起こしそうな気配がうかがわれたからであった。それで、この子の母と結婚するときには、前もってこのことを詳しく話し、万事承諾の上で家庭をもった。 ハンブルグには放射線の犠牲となり、職務による原子病患者として死んだ百余名の世界中の学者の記念碑があって、その人びとの名は真理探求の道に倒れた科学の殉教者として刻んである。しかし、私は命の惜しい普通の人間だから、とにかく死ぬより生きているほうが好きだった。早死にしてその学者たちの仲間に加えられるよりは、一日でも長く生きて、好きな研究を一つでも多く仕上げ、家庭的には孫の顔をみて、わが後をつぐものは大丈夫だと安心をして、よいおじいさんとして、ゆっくり大往生をとげたいと願っていた。そのうえ、原子放射線によってひき起こされる原子病の苦しみは、並み大抵の生やさしいものではなく、生身をちぎるばかりの苦痛があるものと知っていては、なるべくならば、かかりたくないと思うのが人情であろう。だから私は、原子病の予防にはずいぶんと細かく気をつかった。生まれつき気の弱い、びくびくもので、学校時代には落ちるのが怖さに鉄棒体操のできないほどの私であった。原子病を怖がったのは言うまでもない。 このごろではレントゲン器械も良くなって、発生管球は金属でよく包まれ、小さな窓から必要なレントゲン線の束だけが出るようになっているので、あまり危なくないが、昔は私たちは裸管球を使ったもので、それらは四方へ向かって恐ろしいレントゲン線を放射していた。この放射線は物体に当たると、さらに二次放射線を発生散乱する。この散乱線がまたも物体に当たると、そこからさらに放射線を出す。このために放射線室の中は管球の焦点から出てくる主放射線のほかに、おびただしい二次散乱線が前後左右から、あたかも十字砲火のように、飛び交う。 この放射線の細胞破壊力はすばらしいもので、一定量ではガンのような病気を治すが、量を過ごすと健康な部分を病気に変えてしまう。こうして起こる原子病を防ぐために、私たちはいつも放射線の量を正確に測定していて、決して量を過ごさぬように気をつけている。だから今では、専門家が取りあつかうかぎり、放射線によって患者に迷惑をかけることはない。 放射線は鉛のような重い金属でさえぎられるから、防護の目的にはよく鉛が用いられる。患者の体に放射するときには必要以外の部分を鉛板や含鉛ゴム板で被い隠す。放射線室の壁や床や天井に鉛板を張って外部へ漏れないようにする。配電盤の前に鉛ガラスの衝立を置いて技師を護る。患者の傍らについて診療する医師は含鉛ゴム製の前掛、手袋、長靴や鉛ガラス製の眼鏡でものものしく身を護る。しかし、こんな鉛の甲を身につけていては重くて身動きもできないから、完全防衛というわけにはゆかず、背中のほうとか、二の腕とか、もものあたりは普通裸で出ている。管球から出る主放射線のほうはそれで十分防げるが、後ろのほうや横から来る二次散乱線を防ぐことはできない。この二次散乱線の量は主放射線の量に比べたらいちじるしく少ないものではあるけれども、長い時間には大した量に達するわけである。たとい一日の勤務中に受ける放射線量は少なくても、毎日々々連続働いて五年、十年とたつうちには、肉体の組織がいつしか破壊されて、ここに職業病としての原子病が起こってくる。それは皮膚ガン、悪性貧血、慢性白血病、肺硬化、不妊などである。 それでは長年月放射線室に勤めると必ず原子病にかかるかというと、そうでなくて、ある一定量以下の放射線を受けるにすぎないならば、いくら長く勤めても安全である。その一定量とは、毎日連続で、一日量〇・二レントゲン単位である。レントゲン単位というのはレントゲン線の量を測る単位である。欧米諸国では人道上から、この規約はよく守られ、放射線室勤務員は一日七時間以下の勤務、一週五日出勤、一年に一か月以上の転地保養を法律によって行なわされ、さらに特別危険手当とか、年金とかの優遇が与えられている。日本でも労働基準法の中に取り入れられてきたが、実行されるまでには、まだまだの感がせぬでもない。 ところで私の場合であるが、なんと言っても戦争はあらゆる無理を国民一同とひとしく私にも強いた。この無理は避けられる筋のものではなかったし、国民の一人として喜んで果たさねばならぬ義務でもあった。私は、無理は百も承知の上で、全身全霊の力の限りを尽くして、その日その日の無理をとにかく片づけていった。――教室の若い助手は相ついで戦場へ出ていって、ついに帰らず、教室の人手は足りなくなって、私は数人分の役を引き受けることになった。大学の講義、臨時医学専門部の講義、いわゆる科学動員令による研究、結核予防のための工場、学校、同業組合などの集団検診、レントゲン診断、治療、ラジウム治療など、それはどの一つをあげてみても一人の医師、一人の教授に精一杯の役割となるものである。それを一人で果たせと命じられたのだから大変だ。精神ははやれども肉体は弱し、どうしても完全にはゆかなかった。その当時教室の看護婦たちが数え歌をつくって、私に聞かせてくれた。その中にこんなのがあった。――「三ツとせ。見れば見るほど好か男、部長先生の寝ぼけ面」……眠り不足と過労でやつれていた私を痛切に表現している。また「六ツとせ。無理な講義をせにゃならぬ、あれでは学生がかわいそう」……じっくり落ち着いた十分な講義をすることのできなかった私を適切に批判している。それから「十とせ。十でとうとうくたばった、ぜんそくおやじの冬支度」……とうとうくたばって、体の精力を使い果たし、たびたび倒れた私だった。その数え歌を勤務が終わって、器械の掃除をしながら皆で合唱していた。「五ツとせ。いつも真っ暗な暗室で、かわいいあの子の声がする」とか、「八ツとせ。やぼな前掛けちょいとしめて、間接撮影のお嬢さん」とか、私たちの教室生活がそのまま歌われているのだった。 私が数人分の役を引き受けさせられた一方、おし寄せる患者の群はまた激しく増してきた。あの徴用工という一団の人びと、それは商業や事務に半生を送ったひ弱い肉体の持ち主であったのに、にわかに工場に引っ張り出されて重労働をさせられたのだから、過労と生活の低下とで病人が相ついであらわれ、そのほか、一般の市民もまた過労と生活難とから特に胸の病におかされる者が多くなり、また放射線のすぐれた力が一般市民の常識となったために利用者もおのずから増す、といったふうに、いろいろの事情から、私の教室を訪れる患者はおびただしいもので、出勤してみると朝早くから患者待合室や受付は、息も苦しくなるほどの雑踏であった。それを見ると、うんざりする気持ちと、さあやるぞという気持ちとが同時に起こるのだった。その患者さんをどうにか満足のゆくように診療してあげ、終わると、ああ、午後になると押しよせてくる集団間接撮影の数百人の団体! それが終わるころには日が暮れていて、一服の茶を看護婦長から振る舞われて、元気を一新し、自分の研究室にしずかに入るのであった。夜更けてわが家に帰る途で足が動かなくなり、べたりと路の上に座ったことが幾度あったろう。時には案じて迎えに来てくれた妻の肩にすがって、ようやく家の門にたどりつくこともあった。卵酒があたためてあったりした。……私は幸福だった。 ――そんな調子だったから、私の放射線室に実際に働いていた時間は毎日十時間に達していたろう。一日〇・二レントゲン単位をずいぶん上回る放射線が私の肉体に射ちこまれていた。このまま数年続けるなら、恐ろしい原子病の起こることは、日食を予報するのと同じ確実さで、わかっていた。わかっていながら、相変わらず私は働き続けた。それは、国家が私に働くことを求めていたからでもあり、私に代わってその任に当たる専門家がほかになかったからでもあったが、私には、どんなにへとへとに弱り疲れていても、患者さんの顔を見ると診療せずにはおられぬ本能があった。いや、私はとにかく放射線の研究が好きで好きでたまらなかったからのことである。 予期され、予防に心を用いられていた原子病は、ついに私の肉体に慢性骨髄性白血病および悪性貧血の形であらわれてきた。それは研究を始めてから満十三年の後のことであり、戦時中の無理な勤務満五年の後のことであった。決定的な診断がつき、まあ、あと三年は生きているだろうとの予後判定だった。ぜひもない次第であった。 私は信頼する妻にその夜すぐ、すべてを知らせた。じいっと聞いていた妻は波立つ胸をおさえ、 「生きるも死ぬも神さまのみ栄えのためにネ」 と言ってくれた。 二人の幼子の行末について相談をしたら、 「あなたが命をかけて研究なさったお仕事ですから、きっと子供たちもお志をついでくれるでしょう」 と言った。 その言葉に私はすっかり落ち着きを取り戻した。これなら後に心をのこすこともなく安心して、倒れるまで研究室に勤められるぞ。 あくる日から、さらに新しい元気を奮い起こして教室で働いた。まったく別人のように仕事に身が入った。捨て身でゆくとはこのことであったろうか? 戦争はいよいよ激しくなり、あいつぐ空襲に大学病院は患者で満員となった。私の教室はまるで野戦病院のようだった。夕方になると私の脚の力が抜け、筋肉がひきつったりして、階段を昇るときなどには看護婦さんから押し上げてもらった。それを見て笑う者は私自身だけであった。学生さんが走り寄って来て、私の手にもった参考書を代わりに運んでくれたりした。みんなにいたわられながら、私は楽しく忙しく立ち働いていた。 ――そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も滅ぼされ、未来も壊されてしまった。見ている目の前でわが愛する大学は、わが愛する学生もろとも一団の炎となっていった。わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわが家の焼け跡から拾われねばならなかった。台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定よりも早く動けない体となってしまった。――ありがたいことには、たまたま三日前に、山のばあさんの家へ行かせた二人の子供が無傷で助かっていた。 それまで十数年かかって研究してきた多くの資料――戦争が終わったらまとめて論文として発表する予定だった、たくさんのレントゲン実験写真、ノート、図表などは、研究室の窓から赤黒い炎となってしばらく噴き出ていたが、明くる朝見たときには、すでに普通の灰となってしまっていた。私が、地獄へでも突き落とされたかのような絶望を抱いたのも無理のない次第であった。――が、その絶望は半日も続かなかった。私はまったく新しい希望をたちまち抱くことができたからであった。その新しい希望とは、……目の前にあらわれたまったく新しい病気、これまでどこにもなかった病気、古今東西の学者がまだみたことのない病気、私たちが医学史上最上の観察者として選ばれた病気――原子爆弾症! この新しい病気を研究しよう! そう心に決めた時、それまで暗く圧しつぶされていた心は、明るい希望と勇気にみちみちた。私の科学者魂は奮い立った。私の血まみれな、繃帯に包まれた五体は精気を取り戻した。私は焼け石に腰をおろしていたその場から文字どおり立ち上がった。 おびただしい原子爆弾症患者、さまざまな症状、相次ぐ死亡者、それをなんとかして助けようと考えに考えを重ねる苦悩。医学者の生きがいをこの時ほどいたく感じたことはなかった。杖を頼りに不自由な負傷の身をもって、山越え野行