能と前衛演劇 — Epoche C2
場面設定: 金沢・能楽堂近くの料亭の奥座敷、初夏の夕刻。観世流の老能楽師である観世と、グロトフスキ研究で知られるドイツ人演劇研究者ハイドリッヒが、薄茶の合間に能と前衛演劇を巡って静かに語り合う。 観世先生、本日も舞台を拝見させていただき、深く感じ入りました。失礼を承知で申し上げますと、能の「型」と、グロトフスキの「貧しい演劇」が目指した即興の身体は、対極にあるようでいて、何処か通じるものを感じてしまうのでございます。 恐れ入ります。「型」と「即興」を対極と見るお気持ち、よく分かります。とはいえ、世阿弥の『風姿花伝』には「秘すれば花」とございましてね。型とは牢獄ではなく、その奥に見えない花を咲かせるための、余白の装置にすぎないのでございます。 「秘すれば花」――これはグロトフスキが「神聖な俳優」と呼んだものに通じます。彼は俳優の身体を社会的虚飾から「貧しく」してゆく作業を求めましたが、それは余白を作る作業に他ならない、と申しましょうか。 仰る通りでございます。能の身体も、半世紀の稽古でひたすら「削る」のです。動きを削り、表情を削り、感情を削る。すると、削られた跡に、観客の側の感情が流れ込んでまいります。前衛と申しましても、削るか足すかの違いに過ぎないのかもしれませんね。 削る、というお言葉、響いてまいります。20世紀後半の前衛演劇は確かに「削ぎ落とし」の運動でした。台本を削り、舞台装置を削り、最後にはブレヒト的な異化装置すら削った先に、能や狂言の身体が再発見されたという経緯がございます。 そういう経緯は、有り難く拝聴いたします。ただ、能の側から申し上げますと、我々は600年以上、削るだけを繰り返してまいりました。前衛が一世代で達した削ぎ落としに、能は600年かけて到達した、と申し上げるのは、傲慢でございましょうか。 傲慢などとはとんでもございません。むしろ、それこそが私の研究の出発点でございました。グロトフスキ自身が晩年、ポーランドからインドや日本へ向かったのは、西洋前衛の到達点が東洋の古典の出発点であった、という逆説に気づいてのことでございます。 逆説、ですか。お話を伺っていますと、時間の方向に対する我々の感覚が試されているようでございますね。能では、シテが鏡の間から橋掛かりに歩み出る、その3分の歩行に、現実の30年が含まれることがございます。時間は線ではなく襞、というわけでございます。 3分に30年、その時間圧縮こそ前衛が求めながら未だ十分に到達できていない地平でございます。ベケットの『勝負の終わり』が90分で人類の終末を圧縮しようとしたものの、観客の生理的時間との齟齬が残っております。能の橋掛かりには、その齟齬を生まずに圧縮を可能にする装置がある、と申しましょうか。 橋掛かりは、現世とあの世を結ぶ境界でございます。観客は橋掛かりを目にした瞬間、「ここから先は別の時空である」と暗黙のうちに承認なさるのでございます。前衛が舞台装置を削った時に手放したものは、もしかするとこの「境界」だったのかもしれません。 境界の喪失、確かに前衛の盲点でございました。装置を削ったものの、境界を作る別の装置を発明することは怠ってきた、と認めざるを得ません。これは、前衛が「自由」の名のもとに、観客との暗黙の契約を放棄してしまった、ということでもございます。 暗黙の契約、というお言葉は重うございますね。能では、観客と演者の間に、「この型をこの順序で観ていただく」という600年来の契約が共有されております。契約あればこそ、面の僅かな傾きで観客の心が動く。契約なき自由は、自由ではなく、ただの孤立にすぎないのではないかと存じます。 「契約なき自由は孤立」――この言葉は、私の博士論文の結論を書き直さねばならないほどの一撃でございます。グロトフスキの晩年の沈黙も、もしかすると、契約を持たない西洋前衛の限界に対する、彼なりの応答だったのかもしれません。 恐れ入ります。とはいえ、能の側にも油断はございません。契約に安住すれば、契約は形骸化いたします。前衛が我々に問うのは、「契約を毎晩結び直しているか」という、緊張の維持の問いではないか、と私は受け止めております。 契約を毎晩結び直す、その緊張のうちに、能と前衛は同じ深層へ降りていくのでございますね。本日のお話、何度反芻しても汲み尽くせない予感がいたします。先生から見て、前衛演劇とはどのようなものでございましょうか。 ……前衛と申しますのは、伝統が老いた姿、と我ながら傲慢に申し上げてみましょうか。新しいものは、いずれ古いものに戻ります。能もまた、初演の頃は前衛でございました。前衛と伝統は、季節の中の同じ樹木が、別の時刻に立っているにすぎないのでございますよ。 解説: 「型」と「即興」という対極に見える二つの演劇観が、削ること、余白、境界、契約という共通の深層へ降りていく対話。世阿弥の「秘すれば花」がグロトフスキの「貧しい演劇」と響き合い、前衛と伝統が同じ樹木の異なる時刻だと結ばれる。最終ターンで老能楽師が「前衛は伝統が老いた姿、と我ながら傲慢に」と自嘲混じりに語る一言が、東西芸術の対話を上品な皮肉で閉じる。