The Tale of the Heike — 第十巻 (Modern Translation) — 信濃前司行長(伝)
首渡し 一の谷の合戦で討たれた平家一門の首が都に帰ってきたのは、 寿永 ( じゅえい ) 三年二月七日である。 この 噂 ( うわさ ) を伝え聞いた平家の縁者たちは、一体誰の首が帰ってくるのだろう、自分にゆかりのある者でなければ良いがと、夜もろくろく眠られない始末である。 まもなく、首といっしょに一人 生捕 ( いけど ) りになった 三位 ( さんみの ) 中将も帰って来るという噂がつたえられた。この噂に心を痛めたのは、小松三位中将 維盛 ( これもり ) の北の方である。三位中将と聞いただけで、てっきり、それは維盛に違いないと思いこみ、悲しみのあまり床に就いてしまったのである。ところが、この三位中将は同じ三位中将でも、本三位中将 重衡 ( しげひら ) のことだということがわかった。しかし、そうなると今度は、小松三位の方は首の中にあるのではないかという疑いが起り、嘆きは更に深くなってゆくのである。 源九郎冠者義経、 蒲 ( かばの ) 冠者 範頼 ( のりより ) の二人は、これらの首を 東洞院 ( ひがしのとういん ) の大路を北へ見せあるいた上で、獄門にかけたいということを後白河法皇に伺いをたてた。これには法皇もお困りになったらしい。太政大臣以下、重立ったる公卿五人を呼んで相談を掛けられた。すると、期せずして五人の意見は一致していた。いうまでもなく、反対だったのである。 「昔から、 卿相 ( けいしょう ) という高官に就いた者が大路をさらされたことは先例がありません。更にこのたび、入京いたしましたこれらの方々は、いやしくも朝廷の御外戚でもあり、彼らをさらし者にすることは、朝家の威信を傷つける事になりましょう。義経の心中は、同情すべきでしょうが、この事ばかりは、お許しになるべきではないと思います」 法皇も内々、同じ意見であったから、義経には、不承知の旨が伝えられた。義経の不満は大きかった。戦功の大きさに比べても、法皇のやり方は片手落ちに思えるのである。重ねて、義経は法皇に許可を求めた。 「保元の昔からかえりみますれば、祖父 為義 ( ためよし ) の 仇 ( あだ ) 、平治の乱では、父 義朝 ( よしとも ) の 敵 ( かたき ) だった平家でございます。この口惜しさ、憤りは私の身にならなければおわかり頂けぬかと思いますが、更に平氏専横の政権をくつがえし、我身を捨てて働いたのも、何を申しましょう、すべて我が君のため、我が祖先の恥をそそがんためでございます。此の度のお願さえお許し下さらぬようでは、以後、何の張合があって戦を続けることができましょうか」 重ねがさねの訴えには、法皇も志を屈せざるを得なかった。こうして、かつては 九重 ( ここのえ ) の奥深く、顔さえみることもできなかった平家の 公達 ( きんだち ) の首が、都大路を幾万という観衆に見世物にされて渡されることになったのであった。それを一目見たさに、つめかけた老若貴賤の人々も、さすがに首となって帰ってきた彼らの姿には、哀れさが先に立ち涙なくしては見られなかった。 維盛から後事を託された斎藤五、斎藤六の兄弟も、この観衆の中にいて、そっと姿をやつしていたが、見知った首、知り合いの首が過ぎる度に、いつしか、顔中、涙でびっしょりになってしまった。いくら姿を変えていても、これでは、余りに目に立ち過ぎると、早々にその場を引き揚げて、北の方のいる 大覚寺 ( だいかくじ ) へと道を急いだ。 帰ってきた二人の姿を見ると、北の方は気もそぞろに問いかけた。 「どうだったの。殿のお姿は見えましたか」 「小松殿のご兄弟の中では、備中守 師盛 ( もろもり ) 殿お一人でございました。その他には、誰々、誰々」 一人一人、名を数えあげると、 「とても人ごととは思われません、いつ我が身のことになるかも知れぬのに」 とすすりあげるのであった。 「何でも、人の話ではございますが、このたびの戦では、小松ご兄弟は、 播磨 ( はりま ) と丹波の境、 三草山 ( みくさやま ) を固めておられた由、義経に破られた後は、資盛、有盛、忠房の御三方は播磨の 高砂 ( たかさご ) からご乗船、 讃岐 ( さぬき ) の屋島へ落ちのびられました由、師盛卿お一方だけが離れて一の谷で討死なさったということでございます」 「では、殿は 如何 ( どう ) なされたのじゃ?」 「そのことも聞いて参りましたが、何でも、戦のはじまる前に、ご病気におなりになって、屋島でご養生とか、――此の度の戦にはお加わりになっていないそうでございますが」 「あのようなご不便なところでご病気とは、どんなにお 辛 ( つら ) いことであろうかのう、それというのも、きっと都のことばかりご心配になってのお病気に違いない。私とても風が吹く日には、今日は舟にお乗りか、戦があったときけば、討死なさったのではないかと、何かにつけて、お案じ申し上げぬことはないのに。それで、ご病状はどんな風か、聞かなかったのかい?」 幼い若君、姫君までも、いっしょになって心配する有様であった。 この肉親の心が、遠く海を距てた維盛にも伝わらぬはずはない。屋島で、病後を労わっていた維盛も同じように、妻や子の上に思いをはせていたのである。 「奥も、 和子 ( わこ ) たちも、どんなに心配しておることであろう。たとえ、首の中にはなくとも、そうなれば、また、溺れ死したとか、矢に当って死んだとか取越苦労をするものだ。或いはもう、この世には生きてはいまいと思っているかも知れぬ、辛うじて生き長らえていることだけは知らせてやりたい」 と、使いの者を一人仕立てて、京の奥方の許にそれぞれに三つの手紙を書いてわたした。 「敵の中に、か弱い女の身で、和子二人を抱え、どんなに苦労されているかと思えば、心はたちまち、京の空に舞い戻る心地がする。そなた達三人、此処へ迎えて、親子四人が寄り合って暮したいのは山々だが、此の地とても永久に安穏というわけでなし、わが身一人の辛さなれば、どんなことでもがまんするものを、そなたたち三人をこの憂目に合わすのは、何としても心苦しく、ついに思い止まった。 云々 ( うんぬん ) 」 尽きぬ恋しさと、慕情をこめて書かれたこの手紙の最後には、一首の歌がしるしてあった。 いずくとも知らぬ 逢瀬 ( おうせ ) の 藻塩草 ( もしおぐさ ) かきおく跡を形見ともみよ また子供たちには、 「毎日、どうやって暮しておるかと、そればかり案じている。急いで父の傍に迎えるつもり故、その日を楽しみに、母上を大切にして待っていてくれることのみ念じている」 と書かれてあった。この手紙を見た北の方は、喜びと同時に一層悲しさがこみあげてきて、もう、なつかしい夫の文字をたどることもできないのである。 いよいよ、返事を書く段になって、若君と姫君が尋ねた。 「父上には何と書いたらいいのでしょう」 「それはお前方の思ったとおり、心に感じたままをお書きなさい」 二人は黙ってうなずいていたが、書かれた返事は、 「どうして今まで、お迎えには来て下さらぬのでしょう? 一日一夜とて、父上の恋しくない時はないのに、今度は本当に早くお迎えを下さい」 と、たどたどしい筆跡であった。 使いの者は、四、五日 逗留 ( とうりゅう ) した後、屋島に帰っていった。維盛は、開くのももどかし気に、先ず子供たちの便りを読んだが、たちまち両眼をくもらせると、はらはらと涙を流した。 「この世に、親子、夫婦の愛情の 絆 ( きずな ) ほど強くひかれるものはない。わしはもう戦もいや、浄土を願うのもおっくうになってきた。それよりも、山伝いでもして、いかなる険路でもよい、再び都に帰り、恋しい者たちに逢ってからでなくては、死ぬのもいやじゃ」 と、しみじみいうのであった。 内裏の女房 生捕 ( いけど ) りになった本三位中将重衡は、六条を東へと引廻された。車の前後の 簾 ( すだれ ) をかかげ、左右の小窓も開かれていた。三十騎ばかりが車の前後を取り囲み、 土肥 ( どひの ) 次郎 実平 ( さねひら ) が守護した。 この哀れな姿を見た人々は、 「何の罪の報いか、気の毒なことよのう、いくらもある公達の中で生捕りになって、生き恥をさらすとは、前世の宿縁としてもあまりにも 無慚 ( むざん ) じゃ。清盛公にも二位殿からも、とりわけご寵愛の和子で一家の中でも尊敬されていて、院や内裏の参内の時でも、とりわけ丁重にもてなされた人であったのに、これも、南都を滅し、 伽藍 ( がらん ) を焼き払った罰かのう」 と、ささやき合った。 六条河原から、車は故 中御門藤 ( なかのみかどのとう ) 中納言家成の八条堀川の御堂に入り、重衡は一先ず、そこに落着くことになった。 やがて、院の御所から、院宣のお使いとして来たのは、蔵人左衛門 権佐定長 ( ごんのすけさだなが ) であった。日頃は眼下に見下し、気にもかけなかった定長だが、今、捕われの境遇で逢ったときは嬉しかった。 院宣の趣旨は、 「屋島へ帰りたければ、一門にいい送り、三種の神器と引き替えに、命を助けて屋島に送り帰そう」 というのであった。 重衡は、じっと聞いていたが、おもむろに口を開いた。 「内府宗盛以下、一門の内一人たりといえども、この重衡の命と引き替えに、三種の神器を戻そうなどと思う者はありますまい。まあ、母の二位ぐらいは、その気になるかも知れませんが、先ず脈はありません、といってこのまま院宣をお帰しするのも恐れ多いので、とにかく一応は、一門にも言い送ることにいたしましょう」 使いに選ばれたのは、 平三左衛門重国 ( へいぞうざえもんしげくに ) であった。 宗盛には、院宣の趣旨を書き送ったが、私書は許されていなかったから、屋島にいる愛妻の北の方へ言伝てを頼んだ。 「はかない旅の空でも、一緒の時は、互いに慰め合い励まし合ったものだが、今別れわかれになり、どんなに淋しがっていることであろう。しかし夫婦の契はこの世だけではない、生れ変ったら、必ずまた逢って夫婦になろうと思う」 泣くなく言伝てをする重衡に、重国も涙を押えかねるのであった。 重衡が、かつて召し使っていた家来の中に、 木工右馬允知時 ( むくうまのじょうともとき ) という男があった。 「私は長年、中将にお仕えしたものですが、西国へもお供したいと思いつつ、八条女院にもお仕えしていたので、それも果さず、日を送っておりましたが、このたびのお気の毒な様子を拝見し、今一度お目にかかってお慰めいたしたいと思うのです。私は合戦のお供もしたこともなく、弓矢取る身でもございませんから、決して無法な 真似 ( まね ) をするつもりもございません、もしご懸念があるのでしたら、刀をお取り上げ下さい。何卒一目お目にかからせて下さいますように」 と、実平に懇願した。実平はもともと情に厚い侍であったから、この男の一人ぐらいと、刀を取上げて面会を許した。 右馬允が御堂に入ってみると、重衡は深い物思いに沈んだ様子で坐っていた。心なしか頬のあたりにも、やつれがみえて余計に痛々しかった。 右馬允の姿に重衡は、夢かとばかり驚いて、とっさに言葉も出ないらしい。唯、両眼から涙があふれ出てくるのであった。しばらく落着いてから、あれこれ昔話をしては、帰らぬ日のことをいろいろなつかしがっていたが、 不図 ( ふと ) 、重衡が思い出したようにいった。 「そなたの顔を見て思い出したが、以前、そなたに文の使いをして貰った例のひとは、まだ内裏にいられると聞くが本当か?」 「本当でございますが、何かお言伝てでも?」 「実は、西国に下る時も、一言何か言おうと思いながら、あの騒ぎで果せず、気になっていたのじゃ。きっと向うでは、わしを実のない男と思っているに違いない。今、文をやりたいと思うのだが、持って行ってくれまいか?」 「そのようなことはお安いご用、お文を下されば喜んで参ります」 重衡は、嬉しそうに手紙を書いて渡した。警固の武士は一旦、手紙と聞いて色めき立ったが、重衡が中を見せたのですぐ納得した。 知時は内裏に行くと、夜になって人目につかなくなってから、 局 ( つぼね ) の裏口にひそんでいた。すると確かに、訪ねる 当 ( あて ) の 主 ( ぬし ) の声で何かいっているのが聞えた。耳を澄ましてみると、 「いくらもある人の中から選りに選って、三位中将だけが生捕りになって大路を引き廻されるとは余りにもむごい、人はみな、奈良をやいた祟りだというけれど、実際、手を下して焼いたわけでもなく、心にまかせぬままにされたことなのに、罪だけ着せられて、お気の毒な」 そういいながら泣いている様子である。知時も思わず 目頭 ( めがしら ) が熱くなってきた。 「一寸お伺い申します」 知時が声を掛けると、中から同じ女の声で、 「何御用です?」 「三位中将からのお文を預って参りましたが」 声を落して告げると、中から転がるように飛んで出てきた女房があった。普段は、人と逢うのさえ恥ずかしがっている人なのに、その時は夢中であったらしい。 「どこに、どこにお文がありますのか?」 と手ずから重衡の手紙を開くと、むさぼるように、読みふけるのであった。西国で捕われの身になって以来の様子や、暗雲に閉された行末のことなど、こまごまとしたためられ、最後に一首の歌が記されてあった。 涙川憂き名を流す身なりとも 今ひとたびの 逢 ( お ) うせともがな 女房は唯、悲しみに言葉もなく、文をかき抱いて泣き伏していたが、暫くしてから、自分も筆をとって、重衡に別れて 辛 ( つら ) かった二年来のことを書き、終りに一首、歌を詠んで、知時に渡した。 君故にわれも憂き名を流すとも 底のみくずとともになりなん 三位中将はこの手紙に一層恋しさを募らせ、何とかして、もう一度逢うことはできないものかと考えた末、かねがね、情ある計らいをしてくれた実平に、 「実は、重ねがさねのお頼み、恐縮に存じますが、日頃、年頃なじみを重ねておりました女に、一目だけ逢わせては頂けないでしょうか?」 といって頼んだ。実平は、女に逢う分なら差し支えないと思って許したので、重衡は車を借りて迎えにやった。重衡からの迎えの車と聞いた女房は、夢かとばかりに驚いたが、とるものもとりあえず、車に乗ると堀川にかけつけた。重衡は、最前から気がかりで、車寄せに立って待っていたが、車が入ってくるとかけ寄ってきた。 「武