スコッチと記憶 — Epoche C2
場面設定: エディンバラ旧市街、ロイヤルマイル沿いの古いウィスキーバー、冬の夜更け。スコットランド人作家のイアンと、ロンドンから来訪中のインド系イギリス人哲学者ラジが、アイラ島のシングルモルトを傾けながら、記憶について語り合う。 ラジ、君のグラスのラフロイグ、何年ものだ。10年か。私が初めてこのバーに来たのは、ちょうど30年前、ここで父と最後に会った夜だ。あれ以来、毎冬このバーに座ると、父の声が聞こえる気がする。記憶というやつは、酒の中に溶け込んでいるんだろうな。 イアン、その「酒の中に溶け込む記憶」というのは、ベルクソンが「物質と記憶」で論じた純粋記憶の物理化だね。彼は記憶を脳の中ではなく、世界の襞の中に折り畳まれているものとして描いた。バーのカウンターの木目、ラフロイグのピートの匂い――これらはすべて、君の父の記憶を保管している外部記憶装置だ。 外部記憶装置、か。哲学者がそう呼ぶと、急に味気ないが、本質はその通りだ。プルーストのマドレーヌも、結局は外部記憶装置だった。プルーストは、記憶を内部に持っていると思っていたが、紅茶に浸したマドレーヌが記憶を「呼び出した」と書くとき、彼は記憶の外部性を、無自覚に認めていた。 「無自覚に認めた」、その言い方、嬉しい指摘だ。プルースト学者は彼の意識性を強調しがちだが、彼の小説の核は、意識が捉え損ねた瞬間、つまり「不随意記憶」だ。意識的な記憶は、過去を要約するだけ。匂いや味から不意に立ち上がる記憶こそ、過去の生のままを返してくれる。 「過去の生のまま」――しかし、君、本当にそうだろうか。私は今、父の声が聞こえる気がするが、聞こえているのは、本当に父の声か、それとも、30年間私が父の声として整形してきた声か。記憶は、想起するたびに変形する、というのが認知科学の言い分だ。 その通りだ。再固定化、という現象だね。記憶は想起されるたびに脳内で書き換えられ、再保存される。だから、君が今聞く父の声は、30年分の編集を経ている。これは哲学者にとっては悲しい事実だが、文学者にとっては救いの事実でもある。なぜなら、父は君の中で生き続けている、その編集の主体は君自身だ、というわけだから。 「父は私の中で生き続けている、編集者は私自身」――その表現は、慰めに聞こえるが、責任の表現でもある。私が父をどう編集するかが、父の死後の存在を決める。生きていた父より、死んだ父のほうが、私に編集を要求してくる。書き手は、死者の代理執筆者だ。 「死者の代理執筆者」――これは、文学のひとつの本質だね。スティーヴンソンの「ジキルとハイド」も、結局は自分の中の死者と生者の対話だった。彼自身、エディンバラで結核と戦いながら、自分の中で死につつある自己と、生きている自己の編集を続けた。書くことは、その編集作業の可視化だ。 スティーヴンソン、エディンバラの誇りだ。彼の墓はここから何千マイル離れたサモアにあるが、彼の声は、このロイヤルマイルにこそ濃く残っている。彼の例は、記憶の地理的局在性を示している。ある人物の記憶は、彼が生きた場所により濃く、彼が死んだ場所には逆に薄い、という非対称だ。 地理的局在性――これは現象学的に重要な観察だ。場所は記憶の倉庫であると同時に、記憶の演出装置でもある。我々が今、このバーで君の父を語ることは、君の家のリビングで語るのとは質的に違う体験だ。場所が記憶の意味を編集している、と申せましょう。 場所が記憶を編集する――これを逆に言えば、場所がなくなれば、記憶のある面が消える、ということでもある。再開発で消えた街角、火事で焼けた家、戦争で破壊された町。20世紀の戦争の記憶論は、結局、場所喪失の記憶論だ。 場所喪失の記憶論――私の家系もそうだ。インド分割で、我々の故郷ラホールはパキスタンに行き、我々はインド側の難民となった。祖父はラホールの記憶を死ぬまで語り続けたが、ラホールに帰ることはなかった。記憶だけが残り、場所が失われた、という状態。これは、20世紀の世界中の家族が共有した経験だ。 分割の記憶、か。スコットランドのハイランド・クリアランスも構造的に似ている。19世紀に強制移住させられた家族たちは、ハイランドの記憶をカナダやオーストラリアに持って渡った。場所が失われると、記憶は移動可能なものになる。これも一種の救いか、それとも一種の呪いか、私には分からない。 救いか呪いか――この二項対立を超えるものとして、忘却を考える必要がある。我々はあまりに「記憶の重要性」を語りすぎた。本当のところ、忘却の方が記憶より仕事をしている。痛みも、屈辱も、些細な苛立ちも、ほとんどは忘却される。おかげで人類は何とか生きていける。記憶の哲学者として、これを公に言うのは、ちょっと恥ずかしいんだがね。 「忘却が記憶より仕事をしている」――そうだろうな。父との記憶も、思い出せる場面は5つくらいだ。30年の中で5つ。残りの30年はすべて忘却の網にかかった。しかし、その5つがあるから、私は書ける。残された5つを語るために、忘却された30年が要る、というのは、皮肉だが真実だ。ラジ、ラフロイグをもう1杯頼もう。 解説: 父の記憶という個人の物語から、ベルクソンの純粋記憶、プルーストの不随意記憶、再固定化、地理的局在性、分割と難民の記憶論まで、物語的論証で広がる。14ターン目の「忘却の方が記憶より仕事をしている」は、記憶論の最も大きな反転点。最後に「忘却された30年が、語り得る5つを支えている」と結ぶ詩的な人生論。