カラヴァッジョの闇 — Epoche C2
場面設定: ナポリ・スペイン地区の路地の奥にあるオステリア、冬の夕刻。イタリア人美術史家アンナと、ニューヨークから来訪中のアメリカ人写真家デイヴィッドが、ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディアで「七つの慈悲の業」を見終えた後、赤ワインを傾ける。 デイヴィッド、ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディアの「七つの慈悲の業」、ご覧になってみていかがでしたか。あの作品の闇は、ローマ期のものとは質が違う。ナポリに来て、彼の闇は救済を孕み始めたように、私には見えるのですが。 アンナ、まさにそれを言葉にしてくださって、ありがたい。ローマの闇は劇場の暗幕でした。観客と舞台を分ける、外部の闇。ナポリの闇は、もっと内側からにじみ出す闇――登場人物自身の魂の濃度として、闇が滲んでくる。写真家として、息を呑みました。 「魂の濃度としての闇」、その表現はカラヴァッジョ研究の文脈に置いても、新鮮でございます。彼が逃亡生活の中で発見したのは、闇が外部装置ではなく、人物の内部から発せられるものだという認識でしょう。マッタの場面の天使の翼が画面の対角線をつくる、あの構図上の劇性は、彼の苦悩そのものでもあったわけです。 翼が対角線――そう、あの一枚で6つか7つの慈悲の場面が同時進行している。彼は画面の中に「都市の夜」を凝縮した。今のナポリのスペイン地区の路地と、私には地続きに見えました。あの作品は400年以上前のものなのに、現代写真の決定的瞬間と同じ空気が漂っている。 「現代写真の決定的瞬間」――ブレッソンとカラヴァッジョの構造的相同性、これは美術史でも実は議論されているところです。両者ともに「光のドラマ」を瞬間的に切り取る。ただ、違いがあるとすれば、カラヴァッジョの闇は「次の瞬間の不在」を含意するのに対し、ブレッソンの闇は「次の瞬間への期待」を含意する、という非対称でしょうか。 その非対称、見事な定式化です。カラヴァッジョの登場人物は、次の瞬間にはたぶん死んでいる。あるいは、彼自身がそうだった――30代で逃亡を続け、最後はトスカーナの海岸で熱病に倒れた。彼の闇には、自分の死期の予感が織り込まれている。これは、被写体に死を予告する写真家の眼差しと、ある意味で双子です。 「被写体に死を予告する眼差し」、それはバルトの「明るい部屋」を思わせます。バルトは写真の本質を「これがあった」という過去性に置きましたが、カラヴァッジョの絵は、絵画でありながら「これがあった」を発する。絵画における写真性の先取り、と呼べるかもしれません。 絵画における写真性、ですか。私はずっとカラヴァッジョを「絵画の現代写真家」として見てきましたが、その関係は逆転可能ですね。現代写真がカラヴァッジョから影響を受けたというより、カラヴァッジョの中にすでに写真の論理があった、というほうが正確かもしれない。 論理の先取り、これは美術史の常です。フェルメールも、暗箱の使用が議論されています。光学装置の歴史と絵画の歴史は分離不可能。カラヴァッジョの場合、光学装置の使用については論争がありますが、彼が「光学的な眼」で世界を見ていたことは確かです。 光学的な眼――ホックニーがレンズ説を提唱して以来、この議論はずっと尾を引いていますね。私の立場としては、カラヴァッジョが装置を使ったかどうかは、副次的な問題だと思っています。重要なのは、彼の「眼」が、装置を使う者の眼と同じ精度を持っていたという事実そのものです。 「眼の精度」――これはまさにグラハム=ディクソンが伝記で繰り返し強調していた点です。カラヴァッジョは街路の暴力をそのまま画面に持ち込んだ。聖人の足は汚れ、聖母は娼婦の遺体をモデルにした、と言われる。聖性と卑俗の境界を、彼は眼の精度で蒸発させた。 聖性と卑俗の蒸発――これは現代のドキュメンタリー写真の倫理にも直結します。被写体を「聖化」も「卑俗化」もせず、ただそこにあるものとして撮る。これが現代写真の倫理ですが、その源流は、カラヴァッジョのナポリ期にすでにあったわけですね。 カラヴァッジョのナポリ期は、彼の人生で最も短く、しかし最も濃密な時期でした。1606年から1610年までの4年間で、これだけの作品を残した。逃亡者の創作密度というものを、彼ほど体現した画家はいません。それは、闇に追われながら闇を描くという、根源的な逆説でした。 「闇に追われながら闇を描く」――この逆説は、戦場の写真家にも共有されています。ロバート・キャパも、ベトナム戦争のラリー・バロウズも、自分が次の銃弾に倒れることを知りながら撮り続けた。カラヴァッジョの自己肖像が「ゴリアテの首」として描かれたあの絵は、戦場写真家の自己認識と本質的に同じです。 「ゴリアテの首」のあの自己肖像――首を切られた自分を描く画家は、彼の他にいません。彼にとって絵画は、罪と贖罪の儀式そのものでした。私たち美術史家が400年解読し続けても、まだ汲み尽くせない深さが、あそこにある。デイヴィッドさんの写真にも、その深さに通じるものを期待しております。 身に余る期待です。――ただ、職業的な皮肉を一つ。カラヴァッジョの闇を撮るには、ストロボを切るしかない。しかしストロボを切れば、撮影は失敗する。矛盾です。私たちは闇を撮りたいのに、闇を写すには光が要る。彼はその矛盾を、油彩で解決した。私は、まだそこに辿り着いていません。アンナさん、ワインをもう1本いただきましょう。 解説: カラヴァッジョの闇を、外部装置の暗幕ではなく「魂の濃度」として現象学的に記述する対話。ローマ期とナポリ期の質的違いを起点に、絵画における写真性、聖性と卑俗の蒸発、そして「闇に追われながら闇を描く」逆説まで広がる。最終ターンの「ストロボを切れば撮影は失敗する」は、職業的皮肉と尊敬の同時表現。