流行作家の傲慢 — Epoche C2
場面設定: ロンドン・ブルームズベリーの古いパブ、冬の夜。文芸雑誌で長年仕事をしているイギリス人作家ジェームズと、ダブリン出身のアイルランド人詩人コナー。共通の知人である流行作家エドワードが受賞した夜、二人は遅い時間にエールで乾杯する。 コナー、エドワードの受賞スピーチを聞いたか。「私の小説は世代の声である」と仰ったらしい。ある編集者から伝え聞いた話だがね。 世代の声、ね。「世代」と「声」、どちらも自分の所有物のように語る感覚に関しては、彼の文学観をある意味で正確に表していると申し上げざるを得ない。文体は人柄を裏切らない、という古い格言を踏まえれば、納得の発言だ。 編集者によれば、スピーチの後、若い記者が「次回作の予定は」と尋ねたらしい。彼は「私の次回作は、私が書いた瞬間に文学史の頁になる」と答えたそうだ。文学史の頁、というわけだ。 文学史の頁を、自分で予約する作家、というのは確かに新しい。我々の世代までは、頁は読者と歴史が決めるものだった。彼の世代次第で、その手続きが省略可能になったらしい、というわけだ。 省略可能と言えば、彼の最近のインタビューを読んだか。「ジョイスとベケットは、もはや若い読者には届かない、私が橋渡しをする」と仰ったそうだ。ある書評家が引用していた。 ジョイスとベケットの橋渡し、ね。アイルランド人として、その橋の安全性は、自分の足で歩かないわけにはいかないな。とはいえ、橋を架ける者が、自分で「これは橋である」と宣言する場面は、本物の橋ではあまり見たことがない。 彼のテーマは「孤独」らしいが、ある共通の友人が言うには、彼は最近、必ず編集者三人を引き連れてカフェに現れる、と。孤独を描く者の社会生活、というわけだね。 三人引き連れる孤独、新しい文学の主題かもしれない。ベケットの『ゴドー』が二人の孤独だったのに対し、エドワードの孤独は集団スポーツだ。時代の進化、と申し上げざるを得ないだろう。 そうそう、書評の話で思い出した。ある書評家が、彼の前作を「英国文学の希望」と評したらしいが、後でその書評家が、彼の出版社の有料イベントに講師として呼ばれたそうだ。希望と契約の関係、興味深い経済学だ。 その経済学を踏まえれば、文壇は今や、批評と贈与の連立方程式で動いている。誰が誰の背中を撫でるかで、来期の評価が決まる、というわけだ。我々のような不器用な人間は、方程式の外側に立つしかない。 外側、結構な場所だ。だが、外側に立っていると、内側で起きている事を、こうして毎晩品評する作業を、我々もやめられないのが正直な所だね。 やめられないどころか、そろそろ一杯目のエールが空く頃合いだろう。批判は喉を渇かす、というアイルランドの諺がある。たぶん私が今、即興で作ったが、明日には伝統だと信じる人が現れるかもしれない。 諺の即席製造、エドワードの方法と同じ構造じゃないか。文学史の頁を自分で予約する彼と、伝統を一晩で発明する君と、私は何が違うのだろうな。 違いは一つ。彼は本気で信じている、私は冗談で言っている。だがジェームズ、よく考えると、君が今夜エドワードを揶揄して機嫌が良いのは、彼が傲慢だからだ。彼の傲慢が無ければ、君は彼に勝った気分になれない。我々は、彼に依存して生きている、相補的だ、というわけだ。 ……コナー、その指摘、認めざるを得ないな。エドワードの存在は、我々の不機嫌の理由であると同時に、機嫌の供給源でもある。彼に乾杯しないわけにはいかないか。バーテン、もう二杯。今夜は遅くなる。 解説: 流行作家を間接話法で揶揄してきた二人だが、最終ターンでアイルランド人詩人が「彼の傲慢が無ければ、君は彼に勝った気分になれない」と相補的構造を指摘。批判する側が批判される側の存在を必要とする――揶揄の心理学の核心。