Tannishō — Yuien
歎異抄 (意訳聖典 新漢字) Wikisource:宗教 > 歎異抄 (意訳聖典) 歎異抄 (意訳聖典 新漢字) 本派本願寺 大正十二年 1923年 本書は浄土真宗本願寺派が立教開宗七百年慶讃記念として、真宗聖典の中より信仰もしくは修養上日々拝読するにふさわしいものを選び、現代語を以って意訳を試みたものです。 底本: 本派本願寺 編『意訳聖典』,内外出版,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション :info:ndljp/pid/977474/1/107 歎異鈔 ひそかに愚(おろか)なる案(かんがへ)をめぐらして親鸞(しんらん)聖人(しやうにん)在(ざい)世(せ)の昔(むかし)と、滅(めつ)後(ご)の今(いま)とを勘(かんが)へてみるに、当今(たうこん)、聖人(しやうにん)ぢき 〳 〵 の御(ご)教(けう)示(じ)の真実(まこと)の信心(しんじん)と異(ちが)つた説(せつ)を立(た)てるものゝあるが歎(なげ)かはしく、又(また)初心(しよしん)の人(ひと)が教(をしへ)を相続(さうぞく)する上(うへ)に疑惑(うたがひ)をいだくかも知(し)れぬと案(あん)じられます。 幸(さいはひ)によく導(みちび)いて下(くだ)さる知(ち)識(しき)の教(をしへ)に依(よ)らなければ、やす 〳 〵 とお救(すく)ひにあづかる他(た)力(りき)の門(もん)に入(い)ることが出来(でき)ませう。自(じ)身(しん)の独断(どくだん)に任(まか)せて他(た)力(りき)の宗旨(をしへ)を乱(みだ)してはなりませぬ。 仍(よつ)て故(こ)親鸞(しんらん)聖人(しやうにん)の御(おん)物語(ものがたり)を聴聞(ちやうもん)して、今(いま)なほ耳(みみ)の底(そこ)にのこつてゐることを少(すこ)しばかりかき註(しる)します。その目的(もくてき)は偏(ひとへ)に同(おな)じ道(みち)をたどる行(ぎやう)者(じや)の不(ふ)審(しん)のかどを解(と)き明(あか)したいばかりであります。 一 不思議(ふしぎ)と云(い)ふより云(い)ひやうのない、弥陀(みだ)如来(によらい)の御(お)誓(ちか)ひにたすけられて浄(じやう)土(ど)に生(うま)れさせて頂(いたゞ)くのだと信(しん)じて念仏(ねんぶつ)申(まう)さうと云(い)ふ心持(こゝろもち)になつたとき摂(おさ)め取(とつ)て捨(す)てないと云(い)ふ利益(め〔ぐ〕み)にあづからして下(くだ)さるのであります。 弥陀(みだ)如来(によらい)のお誓(ちか)ひは老人(らうじん)も少年(せうねん)も善人(ぜんにん)も悪人(あくにん)も差別(しやべつ)し給(たま)はず、ありのまゝに救(すく)うて下(くだ)されるから、その善悪(ぜんあく)に目(め)をかけず、たゞ救(すく)うて下(くだ)さる願力(ぐわんりき)にまかせたてまつる信心(しんじん)一つが肝要(かんえう)なのであります。そのゆゑは罪悪(ざいあく)深(ふか)く重(おも)い、煩悩(なやみ)の強(つよ)い衆生(もの)を助(たす)けるための御(お)誓(ちか)ひであらせられるからであります。 してみれば、その御(お)誓(ちか)ひを信(しん)ずる以(い)上(じやう)は、他(た)の善根(ぜんごん)をほしいとはおもはぬ。お誓(ちか)ひの成果(できあがり)である念仏(ねんぶつ)にまさる善(ぜん)がないからであります。又(また)わが身(み)に悪(あく)あればとて案(あん)じはしませぬ。御(お)誓(ちか)ひの効果(ちから)を障(さ)へぎるほどの悪(あく)は有(あ)り得(え)ぬからであると仰(あふ)せられました。 二 皆(みな)さまは十余(よ)箇(か)国(こく)の山河(やまかは)を越(こ)えて命(いのち)がけになつて遠方(ゑんぱう)から、わざ 〳 〵 お尋(たづ)ね下(くだ)さいましたお心(こゝろ)持(もち)は、畢竟(つまり)極楽(ごくらく)に往生(わうじやう)する道(みち)を聞(き)きたい為(ため)でございませう。 それなれば、たゞ仏(ほとけ)のお誓(ちか)ひを信(しん)じて念仏(ねんぶつ)するばかりであります。それに念仏(ねんぶつ)以(い)外(ぐわい)に何(なに)か往生(わうじやう)の方法(みち)でも知(し)つて居(を)り、または学問(がくもん)や理(り)論(ろん)を承(しよう)知(ち)して居(を)りながら隠(かく)しだてをして知(し)らさないのであらふと何(なに)となく心(こゝろ)おきせられて居(を)らるゝならば大変(たいへん)な見当(けんたう)ちがひであります。もし学問(がくもん)沙汰(さた)でも知(し)りたいならば、どうか南(なん)都(と) 〈奈良〉 や北嶺(ほくれい) 〈叡山〉 あたりに勝(すぐ)れた学者達(がくしゃたち)が多(おほ)くお居(ゐ)でなされるから、その方々(かたがた)に御遇(おあ)ひなされて往生(わうじやう)するに肝要(かんえう)だと思(おも)はれることを聞(き)いて下(くだ)さい。 この親鸞(しんらん)は、「たゞ念仏(ねんぶつ)して弥陀(みだ)にたすけられなさいと」云(い)ふ御(お)師(し)匠(しやう)法然(ほふねん)上人(しやうにん)の仰(あふせ)をかふむりて如来(にょらい)の本(ほん)願(ぐわん)を、そのまゝ信(しん)じて居(を)るだけのことで、別(べつ)に子(し)細(さい)はありませぬ。 念仏(ねんぶつ)はまことに浄(じやう)土(ど)にむまるゝたねやら、又(また)は地(ぢ)獄(ごく)におつるわざであるやら、その辺(へん)のことは一切(さい)存(ぞん)じませぬたとひ法然(ほふねん)上人(しやうにん)にだまされ、念仏(ねんぶつ)したによつて地(ぢ)獄(ごく)におちたからとて、更(さら)に後(こう)悔(くわい)はいたしませぬ。そのゆゑは、念仏(ねんぶつ)よりほかの行(ぎやう)をはげみて仏(ほとけ)にならるゝ身(み)が、念仏(ねんぶつ)を申(まを)して居(ゐ)たゝめに地(ぢ)獄(ごく)におちたのなら、すかされた、だまされたと後(こう)悔(くわい)もしようが、如何(いか)なる行(ぎやう)もたもちえぬ身(み)なれば、どうしても地(ぢ)獄(ごく)はきまりきつて私(わたくし)の棲(すみ)家(か)であります。 弥陀(みだ)如来(にょらい)のお誓(ちか)ひが、まことであらせられるから、それを説(と)かれた釈(しやく)尊(そん)の御(ご)説法(せつぽふ)は嘘(うそ)であらせらるゝ筈(はず)がない。釈(しやく)尊(そん)の説教(せつけう)が真実(まこと)であらせられるから、善導(ぜんだう)の御(おん)釈(しやく)も嘘(うそ)であらせられる筈(はず)がない。善導(ぜんだう)の御(おん)釈(しやく)が真実(まこと)であらせらるれば、法然(ほふねん)のおほせが、どうして嘘(うそ)でありませう。法然(ほふねん)のおほせが真実(まこと)であらせらるれば、親鸞(しんらん)のまをすことも、いつはりではありますまい。 所詮(しよせん)この愚(おろか)な私(わたくし)の信心(しんじん)はこれだけであります。この上(うへ)は念仏(ねんぶつ)して往生(わうじやう)すると信(しん)じなさらうと、又(また)お信(しん)じなさるまいと、皆(みな)さまのお心(こゝろ)任(まか)せでありますと仰(あふ)せられました。 三 善人(ぜんにん)でさへ浄(じやう)土(ど)に往生(わうじやう)するのだもの、本(ほん)願(ぐわん)お目(め)当(あて)の悪人(あくにん)は尚更(なほさら)往生(わうじやう)させて頂(いたゞ)ける。それに世(よ)の人(ひと)はつねに「悪人(あくにん)でさへ往生(わうじやう)するのであるから、それより勝(すぐ)れた善人(ぜんにん)は尚更(なほさら)往生(わうじやう)するに違(ちが)ひない」と思(おも)うて居(を)るやうです。それは一往(わう)は如何(いか)にも道(だう)理(り)のあるやうではあるが、他(た)力(りき)本(ほん)願(ぐわん)の意(こゝろ)趣(もち)とは、まるで違(ちが)つて居(ゐ)ます。 何故(なぜ)かと云(い)ふに、自(じ)力(りき)で善根(ぜんごん)をして往生(わうじやう)しようとする人(ひと)は、ひとすぢに本(ほん)願(ぐわん)のお計(はか)らひに任(まか)せる心(こゝろ)が欠(か)けて居(ゐ)るから弥陀(みだ)如来(によらい)の本(ほん)願(ぐわん)の意(こゝろ)趣(もち)にかなはない。けれども自(じ)力(りき)の心(こゝろ)を翻(ひるがへ)して他(た)力(りき)本(ほん)願(ぐわん)に、まかせたてまつる心(こゝろ)になれば真実(まこと)の報(はう)土(ど)に往生(わうじやう)させて頂(いたゞ)かれるのであります。 煩悩(ぼんなう)づくめの私(わたくし)たちは、どんな修行(しゆぎやう)を励(はげ)んでも生死(まよひ)を離(はな)れられないのを不(ふ)憫(びん)と思(おぼし)召(め)されて本(ほん)願(ぐわん)を御建(おた)てなされたのであります。して見(み)れば本(ほん)願(ぐわん)を起(おこ)された本(ほん)意(い)は悪人(あくにん)を救(すく)うて仏(ほとけ)にしたいと云(い)ふ思(おぼし)召(めし)でありますから本(ほん)願(ぐわん)他(た)力(りき)のお計(はか)らひに縋(すが)り奉(たてまつ)る悪人(あくにん)が往生(わうじやう)の資(し)格者(かくしや)であります。 よつて他(た)力(りき)の意(こゝろ)では〔「〕善人(ぜんにん)でさへ浄(じやう)土(ど)に往生(わうじやう)出来(でき)るのですから本(ほん)願(ぐわん)お目(め)当(あて)の悪人(あくにん)は、尚更(なほさら)往生(わうじやう)させて頂(いたゞ)かれます」と仰(あふ)せられました。 四 慈悲(じひ)に聖(しやう)道門(だうもん)の慈悲(じひ) 〈自力〉 と浄(じやう)土(ど)門(もん)の慈悲(じひ) 〈他力〉 との別(べつ)があります。聖(しやう)道門(だうもん)の慈悲(じひ)は、この世(よ)に於(おい)て自(じ)分(ぶん)の力(ちから)で人々(ひとびと)を憐(あはれ)み同情(どうじやう)し、育(そだ)てゝ行(ゆ)くことであります。けれども思(おも)ひ通(どほり)に助(たす)けとげることは滅(めつ)多(た)にありません。 浄(じやう)土(ど)門(もん)の慈悲(じひ)といふは、まづ念仏(ねんぶつ)する身(み)となつてはやく浄(じやう)土(ど)に参(まゐ)り、仏(ほとけ)とならせて頂(いたゞ)いて大(だい)慈(じ)大(だい)悲(ひ)心(しん)をあらはして望(のぞ)みのまゝに迷(まよ)へる人々(ひとびと)を利(り)益(やく)するのであります。 今(こん)生(むやう)、凡(ぼん)夫(ぶ)風(ふ)情(ぜい)の身(み)で、どれほど、いとし不(ふ)便(びん)と思(おも)うても思(おもひ)のまゝに助(たす)けることが出来(でき)ないから、その慈悲(じひ)は不(ふ)徹底(てつてい)であります。 して見(み)れば、仏(ほとけ)のお誓(ちか)ひを信(しん)じて念仏(ねんぶつ)まをすことだけが真(しん)に徹底(てつてい)した大(だい)慈(じ)大(だい)悲(ひ)心(しん)であると仰(あふ)せられました。 五 親鸞(しんらん)は亡(な)き父母(ちゝはゝ)の追善(つゐぜん)の為(ため)と思(おも)うて、まだ一遍(いつぺん)でも念仏(ねんぶつ)まをしたことはありませぬ。なぜかと云(い)ふに、私(わたくし)達(たち)の親(おや)は、今(こん)生(じやう)この身体(からだ)を生(う)んで下(くだ)された父母(ちゝはゝ)ばかりでは〔な〕く、久(く)遠(をん)劫来(ごふらい)生(うま)れかはり死(し) と 〔 ママ 〕 かはりして居(を)る間(あひだ)には、すべての生類(いきもの)は、いづれ一度(ど)は皆(みな)私(わたくし)の父母(ふぼ)兄弟(きやうだい)であつたでせう。すれば、どれもこれも、この次(つぎ)の世(よ)には、私(わたくし)は仏(ほとけ)になつて助(たす)けさせて頂(いたゞ)くのであります。 念仏(ねんぶつ)が私(わたくし)の力(ちから)で励(はげ)む善根(ぜんごん)でゞもあるならば、それを廻(ふり)向(む)けて父母(ちゝはゝ)を助(たす)けもしやうが、さうではありませんから只(たゞ)自(じ)力(りき)をすてゝ、いそぎお浄(じやう)土(ど)に生(うま)れて、さとりを開(ひら)かせていたゞいたなら、その時(とき)こそ神通(じんつう)自(じ)在(ざい)の方便力(はうべんりき)をもていづくの境界(きやうかい)に、いかなる苦(くるし)みに沈(しづ)んでをらうとも、縁(えん)有(あ)るものから済(さい)度(ど)させてもらひますと仰(あふ)せられました。 六 専(もは)ら念仏(ねんぶつ)を修(をさ)めると云(い)ふ仲(なか)間(ま)の中(うち)で、わが弟子(でし)、人(ひと)の弟子(でし)と云(い)つて争(あらそ)ふなどはもつての外(ほか)のことであります。 親鸞(しんらん)には弟子(でし)と云(い)ふものは一(ひと)人(り)もありませぬ。なぜなれば、親鸞(しんらん)がはからひで人(ひと)に念仏(ねんぶつ)を申(まを)させるのならば弟子(でし)とも云(い)はれやうが、弥陀(みだ)如来(によらい)の御(お)催(もよほ)しによつて念仏(ねんぶつ)まをす人(ひと)を、我(わ)が弟子(でし)などゝ申(まを)すことは大変(たいへん)無(ぶ)遠慮(えんりよ)なことであります。 就(つ)くも離(はな)るゝも、それは皆(みな)さうなる因縁(いんえん)によるのであるから、「師(し)匠(しやう)にそむき別人(べつじん)に就(つ)いて念仏(ねんぶつ)しては往生(わうじやう)は出来(でき)ない」などゝ云(い)ふ謂(いはれ)が、どこにありませう。そのやうなことを云(い)ふのは、仏(ほとけ)の方(かた)から与(あた)へ給(たま)うた信心(しんじん)を、我(わ)が物顏(ものがほ)にとりかへさうといふのであるが、かへす 〴 〵 もけしからぬことであります。 本(ほん)願(ぐわん)他(た)力(りき)の思(おぼし)召(めし)にかなふやうになれば、おのづから仏恩(ぶつおん)をもしり、また師(し)の恩(おん)をもよろこばずには居(を)られぬやうになるのでありますと仰(あふ)せられました。 七 南無阿弥陀(なもあみだ)仏(ぶつ)を信(しん)じて称(とな)へる人(ひと)は、何(なに)ものも碍(さはり)とならぬ唯一(