Raise the Floor or Lift the Ceiling? — On Equality and Excellence in the Classroom — Epoche C2
場面設定: 最後の鐘のあと、資源の乏しい公立学校の職員室で。四十年このかたここで教え、遅れていく子に自らを捧げてきたマリソルは、特進課程の新任責任者デヴィから、最も力のある生徒を別の、より速い課程に引き上げるという提案を、いま聞いたところだ。二人のあいだで、一杯のコーヒーが冷めていく。教師の注意という、乏しい一時間をめぐる口論として始まったものは、正しい教室がそれぞれの子に何を負っているのか——溺れている子にも、退屈している子にも——を探す道のりになっていく。 デヴィ、あなたの案が何を求めているかはわかる。でも、上位の子たちを別の課程に引き上げるというのは、私には、結局いちばん恵まれた子に、いちばん多くを注ぐことに見える。あの子たちは放っておいても大丈夫。家に本があり、塾があり、励ます親がいる。私が四十年このかたこの学校で見てきたのは、後ろの席で溺れている子よ。授業についていけず、もう自分を半ば諦めかけている子。正義というのは、まずその子のためにあるんじゃないの。乏しい時間と人手を、すでに先頭にいる子の加速に使うのは、平等の裏切りに思えるの——恵まれた者に金箔を貼って、それを功績と呼んでいる。 でも、平らにならすことは、まれな才能を無駄にする。本物の数学者になれたかもしれない子が、真ん中に合わせた授業で退屈している。私たちが床の世話をしている間、その子の才能は空回りしているの。教室が追いつくまでその子を抑えておくのは、それ自体が不正義よ。ひとつの居心地の悪さをなだめるために、その子の未来を切り詰めている。違いを無視する平等は、プロクルステスの寝台になる。短い者は引き伸ばし、高い者は切り落とし、皆を同じ枠にはめる。社会は、最良の人を十分に育てる必要があるの、マリソル。治療法も、交響曲も、橋も。彼らに上限を課すのは、公正じゃない。公正を上着のように着た、静かな残酷さよ。 でも、あなたの言う『才能ある子』が、たいてい誰なのか見て。多くの場合、それは上着を着た特権よ。測られた優位、塾、本棚、穏やかな台所。子どもを『功績』で選り分ければ、受け継いだ幸運を、当然の報いへと洗い替えてしまう。そして幸運な者を、ふさわしい者と呼ぶ。マイケル・ヤングはそれを、手引きとしてではなく、悪夢として書いたの。勝者に晴れやかな良心を手渡す能力主義。あなたの特進課程は、どれほど善意でも、堀になりうる。すでに恵まれた子をより高い壁の内側に集め、残りには、ただ十分でなかっただけだと告げる。それは最良を育てているんじゃない。序列を固め、『勝ち取った』と刻んでいるのよ。 一部は特権よ、それは否定しない。でも、すべてではない。私は、何も持たない子のなかにきらめきを見たことがある。塾も本棚もないのに、それでも教室を駆け抜けていく子。問いは、私がその子に何を負っているか、ということ。床まで引き下げて、いちばん遅い子の歩みで待たせるのは、幸運への私たちの落ち着かなさをなだめるために、本物の才能を罰することよ。あなたと同じ平等主義者のトーニーは、人々を引き上げたかったのであって、その高さを切り落としたかったのではない。不公平な優位への処方箋は、恵まれた子に上限を課すことじゃない。恵まれない才能ある子も、見つけて育てることよ。卓越は平等の敵じゃない。無駄にされた卓越こそ、貧しい子がまた一つ奪われるもの。 高さを切り落とせと言ったことはない——正しく聞いて。私の問いは、もっと狭くて、もっと難しいの。誰が、その乏しい一時間を受け取るのか。一人の子が落ちこぼれ、一人の子が先へ駆けていて、私に与えられる一時間が一つきりのとき、それはどこへ行くべきか。平等な提供は、決して同一ではなかった。各人を、その必要に応じて。そして溺れている子の必要は、退屈している子の必要よりも、ただ大きいの。恵まれない才能ある子になら、喜んで何もかも与える。でも、鐘が鳴って二つの手が挙がるとき、一つは生き延びるため、一つは舞い上がるため——私には、その二つの必要が手のひらで同じ重さだとは、ふりができない。 でも、退屈している子にも必要があるの。本物の必要、ぜいたくじゃない。明るい頭脳が、自分より下に合わせた教室で放っておかれると、惰性で進むんじゃなく、錆びるの。努力は無意味だと学び、学校は待つための場所だと学ぶ。あなたにはその溺れは見えない。だってその子は静かで、成績は悪くないから。目に見えないまま、上へと落ちこぼれていく。『必要に応じて』は、両側に切れなければならない。さもなければ、いちばん大きな苦しみだけを世話することの、きれいな名前にすぎない。後ろの席を見捨てろと言っているんじゃない。前の席の、声なき飢えも、飢えとして数えてほしいの。 ……それは、私に届く。私は必要を、欠損だけとして思い描いてきた。赤い字、目に見える苦闘。そして見落としていた。放っておかれた頭脳もまた、満たされない必要なのだと。静かに上へと落ちこぼれる子も、やはり落ちこぼれている。だから認めましょう。退屈は、それ自体が一つの溺れになりうると。それでも、まだ引っかかるの。もし本当に一時間しかなくて、一人の子の賭け金が生き延びることで、もう一人のが加速なら、その二つは同じ? 一人の子の足場を、もう一人の子の飛翔と引き換えにしているように感じる。それが略奪でないと、どう言えるのか教えて。 同じではない。でも、無でもない。ここで、私たちのどちらの標語よりも、一つの原理が助けになる。ロールズの格差原理。不平等が正当なのは、それが最も恵まれない者を引き上げるときだけ。だから、そう、才能ある子を育てなさい。でも、その卓越を、教室の方へと曲げ戻して。その子の飛翔の目的は、決して賞ではなかった。飛翔が持ち帰るもの、それが目的なの。社会は才ある者により多く投資してよい。ただし、その才が、舞い上がれなかった者に仕えるために返ってくる、という条件のもとでだけ。それがあなたの一時間を捉え直す。あなたは、星に贈るために落ちこぼれから奪っているんじゃない——その星が、今度は落ちこぼれを引き上げるために育てられるのなら。 これなら、私は立っていられる梁になる。そして、それはエイミー・ガットマンが名づけるものと響き合う。ある最低水準——閾(しきい)よ。すべての子が、まず、分かち合う民主的な暮らしが求める水準まで引き上げられる。読み、考え、参加するために。誰かが駆け出すことを許される前に、全員のための床。そして、その線の上では、登れる者の誰にも上限はない。その順序こそ、争いのすべての答えなの。私たちはそれぞれ、片方の半分をつかんでいた。あなたは天井を、私は床を。まるで選ばなければならないかのように。でも、それは決して『どちらか』ではなかった。順番だったの。まず全員のために床を確保し、そのうえではじめて、登ることに上限を課すのを拒む。 ええ。そして天井は、ひとたび届いたら、私的な賞ではない。信託として預かるものなの。あなたの才ある女の子がなる医者は、自分の口座だけでなく、病棟に仕える。技師は、町じゅうが渡る橋を架ける。それが、卓越と特権を分ける線よ。特権は与えられたものを溜め込み、卓越はそれを返す。だから私たちは、教室の代わりにその子を育てるんじゃない——教室のために育てるの。その才は、決して自分のものとして持つためではなかった。預かって管理するためのものだった。そう早くに告げられた子は、違うふうに育つ。他者の上に立つ勝者としてではなく、いちばんよい意味で、彼らへの負債を負う者として。 それなら、あなたの特進課程は、もう私を怖がらせない——その扉が、名前ではなく、必要であるのなら。子を入れるものが、どこに隠れていても見つけ出されるきらめきであり、その才の代価が、堀ではなく、奉仕であるのなら。私が恐れていたのは、すでに恵まれた子をひそかに選び、それを功績と名づける課程だった。でも、隠れた子を探しに行く課程なら——誰も塾に通わせなかった貧しい子、後ろの席のきらめき——それはまったく特権なんかじゃない。それは救出よ。あなたは、私が四十年守ってきたまさにその場所に手を伸ばし、子を、追い越させるのではなく、引き上げることになる。 それこそが試金石で、しかも鋭いものよ。その課程は、誰が卓越しうるかを広げるのか、それとも狭めるのか。見えなかった数学者を後ろの席から引き出せば、その制度は動いている正義。すでに塾に通った子を、しゃれた名前のもとで選り分け直せば、それは特権の洗濯場——学校の色をまとった、ヤングの悪夢。同じ教程、同じ速い歩み、正反対の魂。そして、それらを見分ける唯一のものが、入り口の扉なの。だから私たちは、天井を持つべきかどうかを言い争うんじゃない。扉の前で見張りに立ち、それが姓ではなく、きらめきによって開くことを、確かめるの。 そして、最後にもう一つ、いちばん古い罠が残っている——『才能』が、ただ一つの数だという思い込み。ハワード・ガードナーは、それが複数形だと論じることに、生涯を費やした。あなたの代数で落第する少年は、手仕事では目を見張るほどで、あるいは部屋の空気を印刷された頁のように読み、あるいは、ほかの私たちが追いかけるばかりの旋律を、たやすく保つ。すべての子を一つの軸で順位づければ、誰かが永遠に最下位にいる——私たちは失敗を製造し、それから嘆くの。それぞれの子が高く立っている軸を見つければ、『才能ある』という言葉は、特別な綱で仕切られた会員制であることをやめ、ほとんど誰にでも当てはまる、ただの描写になる。乏しさは、半分は私たち自身の発明だったのよ。 それは、私がこの議論を始めたときの乏しさを、静かに溶かしてしまう。私は、ただ一つの賞を、一人の勝者しかいない一つの勲章を配給しようとして入ってきた。そして、その算術が、あなたの残酷な一時間を強いた。彼女への一分ごとが、彼から盗まれた一分になる、と。でも、高さがいくつもあるのなら、私は、片方を削ってもう片方に回しているんじゃない——それぞれの子自身の高さを見つけているの。一時間は、やはり尽きる。時間は乏しいまま。それでも私は、注意が一段しかない表彰台であるかのように使うのを、やめる。私はそれを、それぞれの子がどこで立ち上がるのかを探すために使う——そして、それは、教室の前に立つ、まったく別の教師なのよ。 だから私たちは二人とも、入ってきた場所から動く。私は床を保つ——明るい子を磨いている間に、どの子も溺れさせはしない。競走が始まる前に、閾(しきい)は全員のために保たれる。あなたは天井を保つ——苦闘する子の世話をしている間に、どんな才も、怠惰のなかで錆びさせはしない。そして、その二つのあいだの橋は、ロールズのもの、板のように明白よ。底をも引き上げるしかたで頂を引き上げよ。さもなくば、あなたが育てたものは、卓越などではない——ただ、よりよい上着を着た優位にすぎない。四十年、私は床を選ばなければならないと思っていた。あなたは、床と天井が、ずっと同じ建物だったことを見せてくれた。 それなら、その扉を持つ課程を造りましょう——富には目をつぶり、どこに埋もれていても才能には目ざとく、その真ん中を、奉仕の糸がまっすぐ通っている課程を。まず床、その上に上限はなく、子が高く立てるどの軸も、名前で尊ばれる。それは、平等が卓越と引き分けまで戦うことじゃない。それは、平等が誇りをもって自分のものと呼べる、ただ一つの卓越なの——開かれた場で育ち、教室へと返され、片手で登りながら、もう片手で下へと手を伸ばす卓越。私たちは、子どもたちを分けるために入ってきた。私たちは、その全員を引き上げる道を手にして、出ていくのよ。 解説: この対話は、教育哲学における最も古い緊張の一つ——平等と卓越——を舞台にのせる。マリソルが語る正の主張は平等主義的だ。正しい学校は、その乏しい注意を、落ちこぼれていく子に注ぐ。才能ある子の多くは姿を変えた特権にすぎず、『功績』はあまりにしばしば、受け継いだ幸運を当然の報いへと洗い替えるからだ(マイケル・ヤングが風刺した悪夢)。デヴィが押し出す反の主張は、平らにならすことが例外的な子を無駄にし、静かではあれ本物の必要を飢えさせる、というものだ。自分より下に合わせた教室で錆びていく明るい子もまた、ただ目に見えないだけで、溺れている。合は、その二項対立を溶かす。ロールズの格差原理に従えば、不平等が正当なのは、それが最も恵まれない者を引き上げるときだけだ。だから才能ある子は育ててよい。ただし、その卓越が教室の方へと曲げ戻され、溜め込まれるのではなく信託として預かられる、という条件のもとで。エイミー・ガットマンの民主的な閾(しきい)は、手順の順序を定める。まずすべての子に能力の床を確保し、そのうえで、登れる者の誰にも上限を課すことを拒む。そしてハワード・ガードナーの複数の知性は、ただ一つの順位づけがこしらえた乏しさを溶かす。それぞれの子が高く立つ軸を見つければ、『才能ある』はほとんど誰にでも当てはまる描写になる。最も深い教訓は、特進課程の正しさを決めるのは、その教程ではなく、その扉だということだ。後ろの席の隠れたきらめきを見つける課程は救出であり、すでに塾に通った子を選り分け直す課程は、特権の洗濯場にすぎない。正しく建てられた床と天井は、同じ建物なのである。 参考文献 R・H・トーニー『平等論』(1931年) マイケル・ヤング『メリトクラシーの興隆』(1958年) ジョン・ロールズ『正義論』(1971年) エイミー・ガットマン『民主教育論』(1987年) ハワード・ガードナー『精神の枠組み——多重知能の理論』(1983年)