別れ霜 — 樋口一葉
第一囘 莊子 ( さうし ) が 蝶 ( てふ ) の 夢 ( ゆめ ) といふ 世 ( よ ) に 義理 ( ぎり ) や 誠 ( まこと ) は 邪魔 ( じやま ) くさし 覺 ( さ ) め 際 ( ぎは ) まではと 引 ( ひき ) しむる 利慾 ( りよく ) の 心 ( こゝろ ) の 秤 ( はかり ) には 黄金 ( こがね ) といふ 字 ( じ ) に 重 ( おも ) りつきて 増 ( ま ) す 寶 ( たから ) なき 子寶 ( こだから ) のうへも 忘 ( わす ) るゝ 小利 ( せうり ) 大損 ( だいそん ) いまに 初 ( はじ ) めぬ 覆車 ( ふくしや ) のそしりも 我 ( わ ) が 梶棒 ( かぢぼう ) には 心 ( こゝろ ) もつかず 握 ( にぎ ) つて 放 ( はな ) さぬ 熊鷹主義 ( くまたかしゆぎ ) に 理窟 ( りくつ ) はいつも 筋違 ( すぢちがひ ) なる 内神田 ( うちかんだ ) 連雀町 ( れんじやくちやう ) とかや、 友 ( とも ) 囀 ( さへづ ) りの 喧 ( かしま ) しきならで 客足 ( きやくあし ) しげき 呉服店 ( ごふくみせ ) あり、 賣 ( う ) れ 口 ( くち ) よければ 仕入 ( しいれ ) あたらしく 新田 ( につた ) と 呼 ( よ ) ぶ 苗字 ( めうじ ) そのまゝ 暖簾 ( のれん ) にそめて 帳場格子 ( ちやうばがうし ) にやに 下 ( さが ) るあるじの 運平 ( うんぺい ) 不惑 ( ふわく ) といふ 四十男 ( しじふをとこ ) 赤 ( あか ) ら 顏 ( がほ ) にして 骨 ( ほね ) たくましきは 薄醤油 ( うすじやうゆ ) の 鱚 ( きす ) 鰈 ( かれひ ) に 育 ( そだ ) ちて 世 ( よ ) のせち 辛 ( がら ) さなめ 試 ( こゝろ ) みぬ 附 ( つ ) け 渡 ( わた ) りの 旦那 ( だんな ) 株 ( かぶ ) とは 覺 ( おぼ ) えざりけり、 妻 ( つま ) はいつ 頃 ( ごろ ) なくなりけん、 形見 ( かたみ ) に 娘 ( むすめ ) 只一人 ( たゞひとり ) 親 ( おや ) に 似 ( に ) ぬを 鬼子 ( おにこ ) とよべど 鳶 ( とび ) が 産 ( う ) んだるおたかとて 今年 ( ことし ) 二八 ( にはち ) のつぼみの 花色 ( はないろ ) ゆたかにして 匂 ( にほひ ) 濃 ( こま ) やかに 天晴 ( あつぱ ) れ 當代 ( たうだい ) の 小町 ( こまち ) 衣通 ( そとほり ) ひめと 世間 ( せけん ) に 出 ( だ ) さぬも 道理 ( だうり ) か 荒 ( あら ) き 風 ( かぜ ) に 當 ( あた ) りもせばあの 柳腰 ( やなぎごし ) なにとせんと 仇口 ( あだぐち ) にさへ 噂 ( うはさ ) し 連 ( つ ) れて 五十 ( ごとう ) 稻荷 ( いなり ) の 縁日 ( えんにち ) に 後姿 ( うしろすがた ) のみも 拜 ( はい ) し 得 ( え ) たる 若 ( わか ) ものは 榮譽 ( えいよ ) 幸福 ( かうふく ) 上 ( うへ ) やあらん 卒業 ( そつげふ ) 試驗 ( しけん ) の 優等證 ( いうとうしよう ) は 何 ( なん ) のものかは 國曾議員 ( こくくわいぎゐん ) の 椅子 ( いす ) にならべて 生涯 ( しやうがい ) の 希望 ( きばう ) の 一 ( ひと ) つに 數 ( かぞ ) へいるゝ 學生 ( がくせい ) もありけり、さればこそ 一 ( ひと ) たび 見 ( み ) たるは 先 ( ま ) づ 驚 ( おどろ ) かれ 再 ( ふたゝ ) び 見 ( み ) たるは 頭 ( かしら ) やましく 駿河臺 ( するがだい ) の 杏雲堂 ( きやううんだう ) に 其頃 ( そのころ ) 腦病患者 ( なうびやうくわんじや ) の 多 ( おほ ) かりしこと 一 ( ひと ) つに 此娘 ( このむすめ ) が 原因 ( もと ) とは 商人 ( あきうど ) のする 掛直 ( かけね ) なるべけれど 兎 ( と ) に 角 ( かく ) 其美 ( そのび ) は 爭 ( あらそ ) はれず、 姿形 ( すがたかたち ) のうるはしきのみならで 心 ( こゝろ ) ざまのやさしさ 情 ( なさけ ) の 深 ( ふか ) さ 絲竹 ( いとたけ ) の 道 ( みち ) に 長 ( た ) けたる 上 ( うへ ) に 手 ( て ) は 瀧本 ( たきもと ) の 流 ( なが ) れを 吸 ( く ) みてはしり 書 ( がき ) うるはしく 四書五經 ( ししよごけい ) の 角々 ( かど/″\ ) しきはわざとさけて 伊勢源氏 ( いせげんじ ) のなつかしきやまと 文 ( ぶみ ) 明暮 ( あけくれ ) 文机 ( ふづくゑ ) のほとりを 離 ( はな ) さず、さればとて 香爐峯 ( かうろほう ) の 雪 ( ゆき ) に 簾 ( みす ) をまくの 才女 ( さいぢよ ) めきたる 行 ( おこな ) ひはいさゝかも 無 ( な ) く 深窓 ( しんそう ) の 春 ( はる ) 深 ( ふか ) くこもりて 針仕事 ( はりしごと ) に 女性 ( によしやう ) の 本分 ( ほんぶん ) を 盡 ( つく ) す 心懸 ( こゝろが ) け 誠 ( まこと ) に 殊勝 ( しゆしよう ) なりき、 家 ( いへ ) に 居 ( ゐ ) て 孝順 ( かうじゆん ) なるは 出 ( いで ) て 必 ( かな ) らず 貞節 ( ていせつ ) なりとか、これが 所夫 ( をつと ) と 仰 ( あふ ) がれぬべく 定 ( さだ ) まりたるは 天下 ( てんか ) の 果報 ( くわはう ) の 一人 ( ひとり ) じめ 前生 ( ぜんしやう ) の 功徳 ( くどく ) いか 許 ( ばか ) り 積 ( つ ) みたるにかと 世 ( よ ) にも 人 ( ひと ) にも 羨 ( うらや ) まるゝはさしなみの 隣町 ( となりまち ) に 同商中 ( どうしやうちゆう ) の 老舖 ( しにせ ) と 知 ( し ) られし 松澤儀右衞門 ( まつざはぎゑもん ) が 一人息子 ( ひとりむすこ ) に 芳之助 ( よしのすけ ) と 呼 ( よ ) ばるゝ 優男 ( やさをとこ ) 、 契 ( ちぎ ) りは 深 ( ふか ) き 祖先 ( そせん ) の 縁 ( えん ) に 引 ( ひ ) かれて 樫 ( かし ) の 實 ( み ) の 一人子同志 ( ひとりこどうし ) 、いひなづけの 約 ( やく ) 成立 ( なりたち ) しはお 高 ( たか ) がみどりの 振分髮 ( ふりわけがみ ) をお 煙草盆 ( たばこぼん ) にゆひ 初 ( そ ) むる 頃 ( ころ ) なりしとか、さりとては 長 ( なが ) かりし 年月 ( としつき ) 、ことしは 芳之助 ( よしのすけ ) もはや 廿歳 ( はたち ) 今 ( いま ) 一兩年 ( いちりやうねん ) 經 ( へ ) たる 上 ( うへ ) は 公 ( おほやけ ) に 夫 ( つま ) とよび 妻 ( つま ) と 呼 ( よ ) ばるゝ 身 ( み ) ぞと 想 ( おも ) へば 嬉 ( うれ ) しさに 胸 ( むね ) をどりて 友達 ( ともだち ) の 嬲 ( なぶり ) ごとも 恥 ( はづ ) かしく、わざと 知 ( し ) らず 顏 ( がほ ) つくりながらも 潮 ( さ ) す 紅 ( くれなゐ ) の 我 ( われ ) しらず 掩 ( おほ ) ふ 袖屏風 ( そでびやうぶ ) にいとゞ 心 ( こゝろ ) のうちあらはれて 今更 ( いまさら ) 泣 ( な ) きたる 事 ( こと ) もあり 人 ( ひと ) みぬひまの 手習 ( てならひ ) に 松澤 ( まつざは ) たかとかいて 見 ( み ) て 又 ( また ) 塗隱 ( ぬりかく ) すあどけなさ 利發 ( りはつ ) に 見 ( み ) えても 未通女氣 ( おぼこぎ ) [#「未通女氣」は底本では「末通女氣」] なり 同 ( おな ) じ 心 ( こゝろ ) の 芳之助 ( よしのすけ ) も 射 ( ゐ ) る 矢 ( や ) の 如 ( ごと ) しと 口 ( くち ) にはいへど 待 ( ま ) つ 歳月 ( としつき ) はわが 爲 ( ため ) に 弦 ( ゆづる ) たゆみしやうに 覺 ( おぼ ) えて 明 ( あ ) かし 暮 ( く ) らす 程 ( ほど ) のまどろかしさよ、 高殿 ( たかどの ) に 見 ( み ) る 月 ( つき ) の 夕影 ( ゆふべかげ ) を 分 ( わか ) つはいつぞとしのび、 花 ( はな ) の 下 ( した ) ふむ 露 ( つゆ ) のあした 双 ( なら ) ぶる 翅 ( つばさ ) の 胡蝶 ( こてふ ) うらやましく 用事 ( ようじ ) にかこつけて 折々 ( をり/\ ) の 訪 ( とひ ) おとづれに 餘所 ( よそ ) ながら 見 ( み ) る 花 ( はな ) の 面 ( おもて ) わが 物 ( もの ) ながら 許 ( ゆる ) されぬ 一重垣 ( ひとへがき ) にしみ/″\とは 物 ( もの ) 言交 ( いひかは ) すひまもなく 兎角 ( とかく ) うらめしき 月日 ( つきひ ) なり 隙行 ( ひまゆ ) く 駒 ( こま ) に 形 ( かたち ) もあらば 我 ( わ ) れ 手綱 ( たづな ) を 取 ( と ) り 鞭 ( むち ) を 揚 ( あ ) げていそがさばやとまで 思 ( おも ) ひ 渡 ( わた ) りぬ、されども 天 ( てん ) は 美人 ( びじん ) を 生 ( う ) んで 美人 ( びじん ) を 惠 ( めぐ ) まず 多 ( おほ ) くは 良配 ( りやうはい ) を 得 ( え ) ざらしむとかいへり、 彌生 ( やよひ ) の 花 ( はな ) は 風 ( かぜ ) 必 ( かなら ) ずさそひ 十五夜 ( じふごや ) の 月 ( つき ) 雲 ( くも ) かゝらぬはまことに 稀 ( まれ ) なり、 覺束 ( おぼつか ) なしや 才子 ( さいし ) 佳人 ( かじん ) かがなべて 待 ( ま ) つ 歡 ( よろこ ) びの 日 ( ひ ) のいつか 來 ( く ) べき、あし 分船 ( わけぶね ) のさはり 多 ( おほ ) き 世 ( よ ) なればこそ 親 ( おや ) にゆるされ 世 ( よ ) にゆるされ 彼 ( かれ ) も 願 ( ねが ) ひ 此 ( これ ) も 請 ( こ ) ひよしや 魔神 ( ましん ) のうかゞへばとてぬば 玉 ( たま ) の 髮 ( かみ ) 一筋 ( ひとすぢ ) さしはさむべき 間 ( ひま ) も 見 ( み ) えぬを 若 ( もし ) 此縁 ( このゑにし ) 結 ( むす ) ばれずとせばそは 天災 ( てんさい ) か 將 ( は ) た 地變 ( ちへん ) か。 第二囘 隴 ( ろう ) を 得 ( え ) て 蜀 ( しよく ) を 望 ( のぞ ) むは 夫 ( そ ) れ 人情 ( にんじやう ) の 常 ( つね ) なるかも、 百 ( ひやく ) に 至 ( いた ) れば 千 ( せん ) をと 願 ( ねが ) ひ 千 ( せん ) にいたれば 又 ( また ) 萬 ( まん ) をと 諸願 ( しよぐわん ) 休 ( やす ) む 時 ( とき ) なければ 心 ( こゝろ ) 常 ( つね ) に 安 ( やす ) からず、つら/\ 思 ( おも ) へば 無一物 ( むいちぶつ ) ほど 氣樂 ( きらく ) なるはあらざるべし、 大抵 ( たいてい ) が 五十年 ( ごじふねん ) と 定 ( さだ ) まつた 命 ( いのち ) の 相場 ( さうば ) 黄金 ( こがね ) を 以 ( もつ ) て 狂 ( くる ) はせる 譯 ( わけ ) には 行 ( ゆ ) かず、 花降 ( はなふ ) り 樂 ( がく ) きこえて 紫雲 ( しうん ) の 來迎 ( らいがう ) する 曉 ( あかつき ) には 代人料 ( だいにんれう ) にて 事 ( こと ) 調 ( とゝの ) はずとは 誰 ( たれ ) もかねて 知 ( し ) れたる 話 ( はなし ) 、 鶴 ( つる ) 千年 ( せんねん ) 龜 ( かめ ) 萬年 ( まんねん ) 人間 ( にんげん ) 常住 ( じやうぢう ) いつも 月夜 ( つきよ ) に 米 ( こめ ) の 飯 ( めし ) ならんを 願 ( ねが ) ひ 假 ( かり ) にも 無常 ( むじやう ) を 觀 ( くわん ) ずるなかれとは 大福 ( だいふく ) 長者 ( ちやうじや ) と 成 ( な ) るべき 人 ( ひと ) の 肝心 ( かんじん ) 肝要 ( かんえう ) かなめ 石 ( いし ) の 固 ( かた ) く 執 ( と ) つて 動 ( うご ) かぬ 所 ( ところ ) なりとか、そも 松澤 ( まつざは ) 新田 ( につた ) らが 祖先 ( そせん ) と 聞 ( きこ ) えしは 神風 ( かみかぜ ) の 伊勢 ( いせ ) の 人 ( ひと ) にて 夙 ( つと ) に 大江戸 ( おほえど ) に 志 ( こゝろざし ) を 立 ( た ) てゝ 糶 ( せり ) 呉服 ( ごふく ) の 見 ( み ) るかげもなかりしが 六間間口 ( ろくけんまぐち ) に 黒 ( くろ ) ぬり 土藏 ( どざう ) 時 ( とき ) のまに 身代 ( しんだい ) たち 上 ( あが ) りて 男 ( をとこ ) の 子 (