The Tale of the Heike — 第一巻 (Modern Translation) — 信濃前司行長(伝) / 武田友宏 訳
[#ページの左右中央] 序詞 (祇園精舎) 祇園精舎 ( ぎおんしょうじゃ ) の鐘の声、諸行無常の 響 ( ひびき ) あり。 娑羅双樹 ( しゃらそうじゅ ) の花の色、 盛者 ( しょうじゃ ) 必衰の 理 ( ことわり ) をあらわす。おごれる人も久しからず、唯、春の夜の夢のごとし。 猛 ( たけ ) きものもついにはほろびぬ、 偏 ( ひとえ ) に風の前の 塵 ( ちり ) に同じ。 [#改ページ] 第一巻 二十余年の長きにわたって、その権勢をほしいままにし、「平家に 非 ( あら ) ざるは人に非ず」とまで豪語した平氏も元はといえば、微力な一地方の豪族に過ぎなかった。 その系譜をたずねると、先ず遠くさかのぼって桓武天皇の第五皇子、 一品式部卿葛原親王 ( いっぽんしきぶきょうかずらはらのしんのう ) という人物が、その先祖にあたるらしい。 葛原親王の孫にあたる、 高望王 ( たかもちのおう ) は、藤原氏の専制に 厭気 ( いやけ ) がさし、無位無官のまま空しく世を去った父の 真似 ( まね ) はしたくないといって、臣籍に降下し、中央の乱脈な政治を見限って、専ら、地方で武芸をみがいてきた。その子 良望 ( よしもち ) から正盛まで六代、諸国の 受領 ( ずりょう ) として、私腹を肥やす傍ら、武門の名を次第に 轟 ( とどろ ) かしていったのである。 正盛は、白河法皇に仕えて、信任を得、その子 忠盛 ( ただもり ) は、鳥羽院に取入って、それぞれ、徐々に勢力を拡張していった。といっても、たかだか、受領職にある身では、とても昇殿を許されるというところまではいかない。当時にあっては、昇殿を許され 殿上人 ( てんじょうびと ) と親しく交わることが、及びもつかない栄誉であったから、この 律義 ( りちぎ ) で賢い 田舎 ( いなか ) 武士、忠盛の心に昇殿を望む気持が頭をもたげてきたのは当然のはなしである。 殿上の 闇討 ( やみうち ) 昔の権力者は、地位が安定してくるとやたらに、お寺とか、お墓とかを建てる習慣があったらしい。人力では及びのつかない、神仏の加護を借りて、権力の座にいつまでも 止 ( とど ) まることを願うという心理にもとづくものである。鳥羽院もかねがね三十三間の 御堂 ( みどう ) を建てたがっていた。これが忠盛の尽力で完成したときは、大へんな喜びようだったといわれる。そのとき 備前守 ( びぜんのかみ ) だった忠盛は、 但馬国 ( たじまのくに ) の国司に任ぜられ、その上、あんなに待ち望んでいた昇殿を始めて許された。時に忠盛は、三十六歳の男盛り、その感激は又ひとしおであった。 ところが、ここに意外なところから、反対運動がもりあがってきた。それは、今まで、さしたるライバルもなく、 呑気 ( のんき ) にあてがい 扶持 ( ぶち ) に満足していた公卿たちである。 「どうもあの男は、唯のネズミではない、今の内に始末しておかないと、とんだことになるぞ」 鷹揚 ( おうよう ) な公卿の中にも、敏感に頭の働く男がいたようである。 それが、事のはじまりで、天承元年の十一月二十三日、 豊明 ( とよあかり ) の 節会 ( せちえ ) の繁雑さにまぎれて、やっつけてしまおうという計画がいつかできあがってしまった。 一方忠盛の方も面白くない胸の内を、お世辞笑いにまぎらしている公卿の気持が手に取るように判るから、こいつは今に何か面倒なことがあるなと思っていた。ともかく計画というものは、大方、どこからか情報がもれてくるものだが、恐らくは、忠盛ほどの男だから、 密偵 ( みってい ) の一人や二人は、しのびこませていたにちがいない。事前に、計画は 筒抜 ( つつぬ ) けになった。 もちろん、こういう挑戦を聞いては、もともと、武士の生れで、武器をとっては、 後 ( おく ) れをとらない忠盛のことだから、内心は、むしろほくそ 笑 ( え ) んでいたのかも知れないが、「まあ本職の武士が、遊び人 風情 ( ふぜい ) の公卿なんかにやられたとあっては、名折れだし、第一、近頃、目をかけてくれている鳥羽院だって、がっかりしちまうだろう」――武骨者にしては、用意周到な知恵者でもあった忠盛は、何を思ったか、わざわざ刀を小脇にかかえて参内した。 戦場で鍛え上げた忠盛の目は、宮中のうす暗いところで、かすかに人の気配のするのを敏感に感じ取った。彼はやおら、刀を抜き放つと、びゅん、びゅんと振り 廻 ( まわ ) したからたまらない。大体が、臆病者揃いの公卿たちは、 闇夜 ( やみよ ) にひらめく 一閃 ( いっせん ) のすさまじさに、かえって生きた心地もなく、 呆然 ( ぼうぜん ) と見ていただけだった。 主人が大胆な男だから、家来の方もまた粒よりだ。 左兵衛尉平家貞 ( さひょうえのじょうたいらのいえさだ ) という男は、 狩衣 ( かりぎぬ ) の下にご丁寧にも 鎧 ( よろい ) までつけて、宮中の奥庭に、でんと 御輿 ( みこし ) を据えて動かない。 蔵人頭 ( くらんどのとう ) の者が、目ざわりだから、どいてくれと言うと、こっちは、待ってましたとばかり、 「どうも今夜あたり、闇討があるって話ですね。やっぱり主人の死に際は、見ておきたいからね」と 洒々 ( しゃあしゃあ ) と答えたまま平気な顔をしていたという。 ここまではっきりいわれては、どうにも仕方がない。闇討計画は、自然、おじゃんになってしまった。 やがて節会がにぎやかにはじまると、忠盛も、鳥羽院にうながされて、舞を舞いはじめた。武芸にすぐれ、度胸満点の忠盛も、舞の方は余り 得手 ( えて ) ではない。それにこの人は生れつきの 眇目 ( すがめ ) である。眇目の踊りは、どうひいき目にみても、余り優美ではなかったろう。それを公卿達は喜んだ、日頃のうっぷんをはらすのはこの時とばかりにはやし立てる。 「 伊勢平氏 ( いせへいし ) は 眇目 ( すがめ ) 、伊勢平氏は眇目」 この単純な言葉の中には、忠盛の自尊心をおそろしく傷つけるものがあった。 伊勢は元々、平氏の本拠である。ここはまた、陶器の産地であって 瓶子 ( へいし ) や 酢 ( す ) がめが作られる。 今は、昇殿も許され、殿上人に 伍 ( ご ) して舞う身ながら、元はといえば、お前なんか、伊勢の 田舎 ( いなか ) ものじゃないか、ひっこめ、ひっこめ、というわけなのである。 さすがに忠盛も、この意地悪な公卿共の相手が、わずらわしくなってきて、刀を 主殿寮 ( とのもりょう ) に預けるとさっさと帰ってきてしまった。 ところで、腹の虫のおさまらないのは公卿達である。闇討は、ばれてしまうし、折角、酒のサカナにして、満座で恥をかかせようと思うと、とっとと帰ってしまうし、このまま引き下るのは、何としても業腹である。すると、その一人が、 「大体、節会の晩に、刀を持ってくるというのは、不見識きわまる」 といい出した。 「まったくだ、第一、あいつは、武装兵のお供まで連れていたんだぞ」 「こりゃ、明らかに、法律違反じゃないのかな」 理由さえつけば、でっちあげは、お手のものである。早速、代表者が、鳥羽院のところへ訴えてきた。 呼び出しが来ても、しかし、忠盛はあわてなかった。むしろ、今来るか、今来るかと待っていたところである。心配そうな鳥羽院や、ざまあ見やがれとでもいった公卿たちを 尻目 ( しりめ ) にかけて、彼の弁舌はさわやかであった。 「どうも、私の知らないうちに、家の者が、勝手に何かしたらしいですなあ。何か不穏な 噂 ( うわさ ) でも聞きこんで、心配して来たんじゃないかと思っています。もし何なら、呼び出しましょうか? どうも近頃の若い者は、気が早くて困りますよ。何? 刀、ああ、あれは、主殿寮の人に渡した筈ですよ、とにかく、中を見てから、文句はきかせて頂きましょう」 こういった調子である。ところで、問題の刀が提出されてみて、公卿達は、あっと、驚いた。中には銀箔を塗った木刀が、麗々しく、黒塗のさやに納っていたのである。 鱸 ( すずき ) 仁平 ( にんぺい ) 三年正月、忠盛は、五十八歳で死に、息子の 清盛 ( きよもり ) が、跡を継いだ。 清盛は、父親にもまして、才覚並々ならぬ抜目のない男だったらしい。 保元 ( ほげん ) 、 平治 ( へいじ ) の乱と、権力者の内紛に、おちょっかいを出しながら、自分の地歩は、着々と固めていって、さて皆が、気がついた時分には、 従一位 ( じゅういちい ) 、 太政大臣 ( だじょうだいじん ) 平清盛という男が、でき上っていた。異例のスピード出世というところである。 この時代は、成功も失敗も、一様に、神仏に結びつけたがる傾向があった。平氏の 繁昌 ( はんじょう ) 振りをみて、これは、 熊野権現 ( くまのごんげん ) のご加護だと誰からとなくいい出した。ところが、この噂の出どころは、実は清盛なのである。 伊勢から熊野へ渡る航海の途中、鱸が、清盛の船の中にとびこんできた。 乗り合せていた案内人は、この時とばかり、 「こりゃめでたい、熊野権現のおしるしですぜ」とお世辞をいった。もちろん、清盛は、心中でニヤリとしたが、そこは、神妙な顔で、 「うん、わしが昔読んだ書物に、天下を平定した 周 ( しゅう ) の 武王 ( ぶおう ) の船にも、白魚が躍りこんできたとかいう話があったのを覚えてるよ。とにかくめでたいことだから、こいつをみんなで喰おうじゃないか」 といった。清盛の脳のめぐりの良さも知らず、乗船の一同、 恐懼 ( きょうく ) 感激して、一きれの魚を味ったに違いない。予想通り、この話が、 巷 ( ちまた ) に伝えられて、熊野権現加護説を生み出したのだから、まさに清盛の思う 壺 ( つぼ ) だったというべきである。 禿童 ( かぶろ ) 清盛は、五十一歳の時、出家し、 浄海 ( じょうかい ) と名乗った。大病にかかったのが、きっかけで、さしもの彼も、少しばかり、気が弱くなったらしい。しかし、たちまち、病は全快、彼はつるつる頭を 撫 ( な ) でながら、「まだ当分生きられるぞ」といってほくそ笑んだ。 とにかく、平家一族の繁栄振りは、ちょっと類がなかった。かつての名門の貴族たちにしても、今では、まともに顔も合せられない有様である。 平家に非ずんば人に非ずといった言葉も、むしろ当然のように迎えられたし、 六波羅 ( ろくはら ) 風と言えば、猫も 杓子 ( しゃくし ) も、右へならえで、 烏帽子 ( えぼし ) の折り方やら、着つけの仕方まで、皆が平家一族を真似するのである。 こういった平氏の専横に対して、不満の声のない方が不思議な位なのだが、そこはそれ、万事、ソツのない清盛入道は、言論弾圧の機関もちゃんと用意していた。いわゆる平家直属の秘密警察とも言えるこの一隊の正体は、十四、五の少年部隊である。髪をお 河童 ( かっぱ ) に、赤い 直帯 ( ひたたれ ) を着た禿童と呼ばれる面々は、街々の角々で、 一寸 ( ちょっと ) した 噂 ( うわさ ) ばなしにさえ、聞耳をたてていた。一言でも、平家の悪口なぞ、いおうものなら、たちどころに、家財没収、強制収容の憂き目に会う。今はただ、眼をとじ、耳をおさえ、口をふさいで、人々は、黙々と平家の命に従うばかりである。それを良いことにして、 禿童 ( かぶろ ) たちは、京の街々を、我が物顔に歩き廻る。今日の愚連隊どころではない、絶対の権力を背景にしているだけに、それはもっと始末の悪いものだったにちがいない。 一門の栄華 平家一族は、高位、高官の顕職を、ほしいままにし始めた。一寸見廻しただけでも、長男 重盛 ( しげもり ) は、 内大臣 ( ないだいじん ) 兼 左大将 ( さだいしょう ) 、次男 宗盛 ( むねもり ) は、 中納言 ( ちゅうなごん ) 右大将、三男 知盛 ( とももり ) が 三位 ( さんみの ) 中将、孫の 維盛 ( これもり ) が 四位 ( しいの ) 少将といった具合である。このほかに数えあげれば、きりがないくらいで、 参議 ( さんぎ ) 、大、中納言、三位以上の公卿十六人、殿上人三十余人、各地の地方官がざっと六十何人という盛況だった。 清盛は、息子のほかに、八人の娘を持っていたが、これ又、揃いも揃って、権門、貴顕に縁づいている。即ち、 花山院 ( かざんのいん ) 左大臣の奥方、 建礼門院 ( けんれいもんいん ) といわれた 安徳 ( あんとく ) 天皇の生母、 六条摂政 ( ろくじょうのせっしょう ) 、 藤原基実 ( ふじわらもとざね ) の奥方で白河殿と呼ばれた人、 普賢寺 ( ふげんじ ) 藤原 基通 ( もとみち ) 夫人、 冷泉大納言 ( れいぜいのだいなごん ) 夫人、 七条修理大夫 ( しちじょうしゅりだいふ ) 夫人、今一人は、白河法皇の 女御 ( にょうご ) で、最後は、 ( ろう ) の 御方 ( おんかた ) と呼ばれる、花山院の 上 ( じょうろう ) であった。 妓王 ( ぎおう ) 当時、京都には、妓王、 妓女 ( ぎじょ ) と呼ばれる、 白拍子 ( しらびょうし ) の、ひときわ衆に抜きん出た姉妹があった。その母も 刀自 ( とじ ) と呼ばれ、昔、白拍子であった。 清盛が目をつけたのは、姉の妓王で、片時も傍を離さずに寵愛していた。おかげで、母親も妹も、家を建てて貰ったり人にちやほやされて、結構な暮しをしていた。 白拍子というのは、鳥羽天皇の時代に、男装の麗人が、 水干 ( すいかん ) 、 立烏帽子 ( たてえぼし ) で舞を舞ったのが始りとされているが、それがいつか、水干だけをつけて踊る舞姫たちを白拍子と呼ぶようになったのである。 京の白拍子たちは、玉の 輿 ( こし ) にのった同性の幸福を 羨 ( うら ) やんだり、ねたんだり、中には、せめてその幸せにあやかりたいものと、妓王の妓をとって、妓一、妓二などと名前を変える者まで出るほどの評判であった。 その間にも、月日はいつか過ぎて、三年ばかり経った頃、 加賀国 ( かがのくに ) の生れだと名乗る一人の年若い白拍子が、 彗星 ( すいせい ) のように現れた。 仏 ( ほとけ ) という変った名前