大岡越前の独立 — 直木三十五
一 便室 ( べんしつ ) ( 老中 ( ろうじゅう ) が、城内で、親しい者と話をする小部屋)の 襖 ( ふすま ) を開けると 「急用で御座りますかな」 と、口早にいって、 越前守 ( えちぜんのかみ ) は、松平 伊豆守信祝 ( いずのかみのぶとき ) (信綱の 曾孫 ( そうそん ) )の前へ坐った。 「急用と申すほどで無いが―― 天一坊 ( てんいちぼう ) と申す者の噂を聞いたか?」 と、信祝は、 唇 ( くちびる ) で微笑しながら、じっと越前守の眼をみた。越前守は、 頷 ( うなず ) くと 「何か、 所司代 ( しょしだい ) より申越して参りましたか」 奥坊主が、廊下で 「お茶をもって参りました」 と、大声を出した。越前守が、手を叩くと、襖を開けて 「お寒う御座ります」 と、 御叩頭 ( おじぎ ) をして、二人の前へ、茶を置くと、 淑 ( しとや ) かに出て行った。茶室好みの小部屋へは、もう夜が、 隅々 ( すみずみ ) へ入っていて、 沁々 ( しみじみ ) と冷たさが 沁 ( し ) んだ。 「 御落胤 ( ごらくいん ) と称して、確かな証拠品も所持致す 由 ( よし ) 、今、 御上 ( おかみ ) へ、 御覚 ( おおぼえ ) が御座りますか、と聞くと――」 信祝は、高声に、笑うと 「お上もあれで、若い時分には、 中々 ( なかなか ) 御 ( お ) たっ 者 ( しゃ ) だったのだのう。まだ、もう二人いるはずだが、と、そう現われて来られては 堪 ( たま ) らぬ。そこで、――もし、正真の御落胤であった場合には、 何 ( ど ) う処置してよいか」 信祝は、ここで言葉を切ると、じっと、唇を曲げながら、越前を見た。越前守は、黙っていた。信祝は、茶碗の 蓋 ( ふた ) を置くと、熱い茶を 口許 ( くちもと ) までもって行って 「 偽者 ( にせもの ) と 明 ( あきら ) かになれば、申し分は無い。万一御落胤ときまった折には――何と申すか」 一口茶を 啜 ( すす ) ると 「大義 親 ( しん ) を 滅 ( めっ ) すとでもいうか、徳川家のために、 仮令 ( たとい ) 、本物であろうとも、 贋者 ( にせもの ) として処置しなければならぬ」 信祝は、茶を下へ置いて、朱塗火鉢を撫でながら 「その訳は―― 下世話 ( げせわ ) にいう、 氏 ( うじ ) より育ち、二十を越すまで、 素性 ( すじょう ) 卑しく育った者を、この城中へ入れることは、いろいろと 弊 ( へい ) がある。二つには、この周囲には、浪人者の 不逞 ( ふてい ) な 徒輩 ( とはい ) がいるらしい。この者の処分に万一口出しでもあって、そのままに附けておくと 成 ( な ) ると、 患 ( わずら ) いの種を 蒔 ( ま ) くことになる。御当家 万代 ( ばんだい ) のためには、 忠直 ( ただなお ) 、 忠長 ( ただなが ) 、 忠輝 ( ただてる ) と、いろいろの例もあり、この事は、お上も、よろしく取計らうようとの御言葉もあり、よし、本物であろうとも、贋者として、越前――処分してもらいたい、 何 ( ど ) うじゃな」 越前守は、 俯 ( うつむ ) いたままであった。 「不和、不穏の 基 ( もとい ) に相成るから、 不憫 ( ふびん ) であっても、厳重に処置する方策をもって臨んでもらい 度 ( た ) い――と、いう相談じゃ」 「よく判りました」 と、越前守は、顔を上げた。 「とくと、 勘考 ( かんこう ) 仕 ( つかまつ ) りますが、 府内 ( ふない ) へ到着するまでには、 未 ( ま ) だ未だ 余日 ( よじつ ) もあること。到着の上にて――」 「それはそうじゃが、今申した事を忘れぬように――到着致したなら、すぐ 召捕 ( めしと ) っての」 「とくと勘考致しまする」 越前守が (とくと、勘考致しまする) と、いったなら、その上、誰が、 何 ( ど ) うそれ以上の奥をいわせようとしても、いうものではなかった。越前守は、一人の 勘定方 ( かんじょうがた ) を撰択する時に 「百を二つに割ると、いくらだ」 と、聞いた。五十――明かすぎる五十であるが、その人は、 算盤 ( そろばん ) をもってきて、百と置き、二と置いて、一々 弾 ( はじ ) いてから 「五十で御座ります」 と、答えた。越前、微笑して 「よろしい、勘定方は、そこまで、念を入れなければいけない。よろしい」 と、 称 ( ほ ) めたが、その念入りの越前守が 「とくと、勘考致します」 と、二度までいったから、信祝は 「頼む」 と、いって、余談に移った。 二 低い 灰空 ( はいぞら ) だ――雪になるか? 雨になるか? 沁々 ( しみじみ ) と冷たさの 沁 ( し ) む 黄昏 ( たそがれ ) だ。 信祝 ( のぶとき ) は、 蒔絵 ( まきえ ) した 黒漆 ( くろうるし ) の大火鉢へかけた金網の上へ、背中を 丸 ( まろ ) めながら、唇を 歪 ( ゆが ) めたり、眼を閉じたり――それから 咳 ( せき ) をしたり――咳は、 寂莫 ( せきばく ) とした 小書院 ( こしょいん ) 一杯に反響して、けたたましかった。 「 阪井右京 ( さかいうきょう ) 、只今、立戻りまして御座りますが――」 と、廊下で足音が止まると、障子の腰の所で、澄んだ声がした。信祝は、 身体 ( からだ ) を起すと 「これへ」 と、いった。 「 灯 ( ひ ) をもて」 と、去って行く足音へ声をかけると、炭火を 掻 ( か ) き分けて、坐り直した。夜が、薄くかかってきた障子へ、灯の影が動いて、足音が近づくと 「阪井右京めに御座ります」 「戻ったか? 許す」 と、信祝は、微笑した。灯が、障子に近々と揺れると、右京の背後から、二人の腰元が、 燭台 ( しょくだい ) を 捧 ( ささ ) げて、入ってきた。その 裾 ( すそ ) の下を右京は、二、三尺 膝行 ( しっこう ) すると、平伏して 「つつがなき御尊体を拝し――」 と、いいかけると、信祝は、手を振って 「挨拶はよい。ここへまいれ」 と、いうと、燭台を置いた女中へ、眼で、早く去るように合図をした。 「見苦しき 装 ( なり ) にて、 御眼 ( おめ ) を 汚 ( けが ) しまする」 「 正 ( しょう ) か? 贋 ( にせ ) か?」 と、両手を膝へ置いて、俯いている右京へ問いかけた。 「御落胤に相違御座りませぬ」 信祝は、右京の 髷 ( まげ ) をじっと 凝視 ( みつ ) めながら 暫 ( しばら ) く黙っていた。 「越前から、誰か、調べにまいったような形跡はなかったか?」 「越前から?――と、 仰 ( おお ) せられますと」 「 忠相 ( ただすけ ) じゃ」 「はっ、越前守からは、一向に、 未 ( いま ) だ、そのようの様子も見受けませぬ」 「うむ――」 信祝は、火箸を灰へ突立てて押えながら 「残りなく、調べたのう」 「はっ、村役人、庄屋、近くの者共、 郡 ( こおり ) 奉行所へもまいりまして御座りまする」 と、懐中から、村役人、郡奉行 在判 ( ざいはん ) の天一坊の身許についての、調査書を出すと、 「御覧下されまするよう」 と、前へ置いた。信祝は、燭台の方へ向くと、大判 美濃紙 ( みのがみ ) を薄く 綴 ( つづ ) った書類を眺めて 「ふむ――存じ寄り申さず、が、多いの」 「はっ、 澤 ( さわ ) の 井 ( い ) と申される 女子 ( おなご ) も、その母親も、十数年前に死去致し、郡奉行、村役人とも、当時在勤の者がおりませず、ただ、近所の百姓共の申し分には、確かに、御落胤らしき 小児 ( しょうに ) が、 感応院 ( かんのういん ) におりましたが、いつの間にかいなくなったと、申すばかりにて、皆々天一坊を御落胤と心得ておりまする」 信祝は、書類を置くと 「大儀であった―― 近々 ( ちかぢか ) 、もう一度行ってもらいたい」 「はっ」 「寒かったであろう、道中は――」 「 左 ( さ ) ほどでも御座りませぬ。 御前 ( ごぜん ) の御好物、 蜜柑 ( みかん ) を持ち戻りまして御座りますが――」 「うむ、 珍重 ( ちんちょう ) じゃの、この冬にない初物じゃ、ゆっくり休むがよい」 右京の去った後で、信祝は、もう一度書類を読み直したが、 床 ( とこ ) の間から、革帯のかかった手箱を取ると、 錠 ( じょう ) を開けて、下の方へ 仕舞 ( しまい ) 込んでしまった。 三 「 伊賀 ( いが ) 、よかったなあ」 と、越前守を送り出して、赤川 大膳 ( だいぜん ) と、部屋へ入ってくると、天一坊は、しとねの上へ立ったまま、感嘆的に、だが、低い声をかけた。 山内伊賀亮 ( やまのうちいがのすけ ) は、伏目のまま、黙って自分の座へ坐った。天一坊が坐りかけて、何かいおうとするのを眼で制していると、二人の女中が 擦 ( す ) り足に入ってきて、眼も上げずに、越前守の坐っていた 座布団 ( ざぶとん ) をもって行った。天一坊の 背後 ( うしろ ) にいた 常楽院 ( じょうらくいん ) が 「いや、山内殿の智弁には、今更ながら、つくづく恐れ入った。 流石 ( さすが ) の大岡越前守も、 一言 ( いちごん ) もなく、尻っ尾を 捲 ( ま ) いて 引退 ( ひきさが ) って行ったがいや、感服感服」 伊賀は、黙って、両腕を組んだまま俯いていたが 「いいや――」 と、低く 呟 ( つぶや ) くと、首を振った。 「何か――」 と、大膳が、 三宝 ( さんぼう ) の上の 勝栗 ( かちぐり ) をつまみながら、伊賀の顔を覗くと 「越前の 肚 ( はら ) が判らぬ」 「肚とは?」 「 飴色 ( あめいろ ) 網代 ( あじろ ) の乗物へ乗った訳は?、とか、 紫地 ( むらさきじ ) 、 花葵 ( はなあおい ) の 定紋幕 ( じょうもんまく ) を打った訳は?、とか――それほどのことを、わざわざ聞くような越前ではない。 彼奴 ( きゃつ ) は、ちゃんと心得ていて聞いたのだが、聞かれると、返答せん訳には参らぬ。 拙者 ( せっしゃ ) が答えると、じっと、拙者の顔を、ちらっと、天一坊殿の顔を――」 「左様、拙者へも、じろりと、薄気味の悪い眼を向けたが――」 「越前は、よく人相を見るというでないかのう」 と、常楽院が、 衣 ( ころも ) を 捲 ( まく ) り上げて、 長煙管 ( ながきせる ) へ 煙草 ( たばこ ) をつめながら、口を出した。 「人相はともかく、問答に事よせて、 顔色 ( がんしょく ) を 覗 ( うかが ) いにまいった。御落胤か、 偽 ( いつわ ) り者か、問答しながら、顔色を見ようと――うまうま 篏 ( はま ) った」 と、伊賀亮は、俯いて、眼を閉じた、越前守が、伊賀亮へ 「飴色網代の 駕 ( かご ) へ、 何故 ( なぜ ) 、許しもなく御乗り召さる」 と、いった口調は、返答によっては、 差置 ( さしお ) かぬぞ、という鋭さが含まれていた。人々はそれを伊賀亮が、 何 ( ど ) う 捌 ( さば ) くか?、この問答が一 期 ( ご ) の浮沈であると、心臓を 喘 ( あえ ) がせながら、血を冷たくさせながら、全身的の緊張で、聞入ったが――天一坊が、御落胤ならば、飴色であろうと、三つ葉葵であろうと、そんな事は、 末 ( すえ ) の話であった。 伊賀亮は、十分にそれを承知していたが、そう 詰問 ( きつもん ) されて、答えない訳には行かなかった。だが、答えて、明快に説明していると、天一坊も、大膳も、常楽院も、少し顔を赤くし、全身を固くし、こめかみをふくらせて、微笑したり、目を見合せたり――そして、越前守は、伊賀亮の話を聞くよりも、四人の顔色の変化を、じっと伺っている方が多かった。少くも、伊賀亮には、越前のそうした態度がよく判っていた。 だが、越前が、皆の 顔色 ( かおいろ ) を見ているから、表情を変えぬようにとはいえなかったし、中座して、それを一同に伝えて、越前守の眼を警戒させるには、既に遅くなりすぎていた。天一坊が、 真正 ( しんしょう ) の落胤であるという事に、疑いの無い以上、そういう問答によって、顔色を変える必要は無かったが、人々は――天一坊も、 附人 ( つけびと ) も、越前を名 判官 ( はんがん ) であると信じ、その証拠物の調べにより、この問答の 巧拙 ( こうせつ ) により、もしかしたなら、何が 何 ( ど ) う成るか、判らぬと考えていただけに、伊賀亮との一問一答には、汗を出したのであった。 「ふむ」 と、大膳は、かちかち音立てて 噛 ( か ) んでいた 干栗 ( ほしぐり ) を、頬の中へ 仕舞 ( しま ) いながら 「 成程 ( なるほど ) ――」 「余を贋者にしようというのか」 と、天一坊は、口早に、額を蒼白くしながら、叫んだ。伊賀亮は、俯いたまま、首を振って 「そうでもない」 「そうでも無いと?――」 伊賀は黙っていた。一座の人々は、不安な空気に圧迫されて、いろいろな幻想を、急速に廻転させながら、伊賀の広い額をじっと 凝視 ( みつ ) めていた。 四 淡彩 ( たんさい ) で、 雁 ( かり ) を描いた老中の 溜 ( たま ) りの間にいた 信祝 ( のぶとき ) は、越前が登城したと聞くと 「便室へ」 と、奥坊主にいって、立ち上りながら、 稲葉佐渡守 ( いなばさどのかみ ) へ 「頑固者じゃのう」 と、微笑すると、両手を突出し、腰を張って、延びをしながら 「 何 ( ど ) うれ」 といって、廊下へ出た。うんげん 縁 ( べり ) の 畳敷 ( たたみじき ) で、天井の高い広廊下は、凍った風で寒かった。信祝は、急ぎ足に、一つ角を曲ると 「御待ちで御座ります」 と、薄暗い廊下に、坊主がうずくまって、平伏していた。信祝は、 狩野正信 ( かのうまさのぶ ) の宝船の茶がけのかかっている床の間を背に 「存外、早かったのう」 と、坐った。 「取調べて参りました」 「ふむ、そして?」 「 正 ( まさ ) しく、御落胤に相