A Stroke of Luck — Thomas Mann
静かに! ある魂の中をのぞいて見ようと思うのだ。まあいわば大至急で、通りすがりに、ほんの五六ペエジの長さだけだが。なにしろわれわれはおそろしく多忙なのだからね。フロレンスから、古い時代から、われわれはやって来たのだ。あっちでは、最後の厄介な事件が持ちあがっている。それが片づいたら――さあどこへ行くかなあ。宮廷へでも、どこかの王城へでも行くか――誰が知ろう。ふしぎな、微光を帯びた事柄が、まさにまとまりかかっている。――アンナ、かわいそうな小さな男爵夫人アンナ、われわれはお前のためにゆっくりしている暇がないのだ。―― ―― 三拍子と杯の音――喧騒、濛煙、うなり、そして舞踏の足どり……みんなはわれわれを識っている。われわれの小さな弱味を識っている。人生がその素朴な祝典を催す場所に、われわれがひそかにかくも喜んで低徊するのは、苦痛というものが、そこで最も深刻な最もやるせない眼色をするからなのであろうか。 「候補生。」と騎兵大尉ハリイ男爵は、舞踏の足をとめて、広間いっぱいに声をひびかせた。まだ右の腕で相手の婦人を抱いたなり、左の手を腰にあてて突っ張っている。「そりゃワルツじゃなくって葬式の鐘だぜ、おい。君はどうもまるっきり拍子の感じがないんだね。ただ始終そうやって泳いだり、ふらふら浮いたりしているだけじゃないか。フォン・ゲルプザッテル少尉にまた弾いてもらおう。そうすれば、まあリズムだけは出てこようからな。引っ込みたまえ、候補生。踊りたまえ、もしピアノよりうまいんなら。」 そこで士官候補生は立ちあがって、拍車をかたんと合わせて、無言のままフォン・ゲルプザッテル少尉に演奏壇を譲った。少尉はすぐに大きな、白い、指のひどくひらいた手で、かちかちぶうぶう鳴る、そのピアノを弾きはじめた。 ところでハリイ男爵は、拍子の感じを――ワルツの拍子と、マアチの拍子と、快活と誇りと幸福とリズムと勝者の心とを、ちゃんと備えているわけなのである。金の紐飾りのついた驃騎兵服が、苦労や反省なんぞみじんも現われていない、若々しい上気した顔に、すばらしく似合っている。顔は金髪の人によくあるように、うす紅く日に焼けている。それでいて、頭髪も口髭も鳶色に見える。これが婦人たちを刺戟する点なのである。右頬の上にある赤い傷痕は、彼の磊落な風貌に、大胆不敵な表情を与えている。それは刀創なのか、または落馬でもしてできたものなのかわからない――が、いずれにしてもみごとなものである。いま彼は神のごとくに踊っている。 しかるに候補生は――もしハリイ男爵の文句を譬喩的な意味で使っていいなら――泳いだりふらふら浮いたりしている。瞼があまりひどく長すぎる結果、彼はどうしても尋常に眼をあけることができない。それに軍服も少しだぶついていて、なんだか工合が変である。だからどうしてこの男が、軍隊生活という行路にまぎれ込んだのやら、それは誰にもわからない。彼は将校集会所の企てたこの「燕たち」を呼んでの慰みごとに、全くいやいやながら加わったのである。それでも今日は顔を出した。常々みんなの気を悪くせぬように用心しなければならないためだった。というのが、彼は第一に平民の出であったし、第二に彼の手に成った一種の書物――彼自身の書いた、あるいはみんなの言葉でいえば、著わした、作り話の集があって、それをだれでも本屋で買うことができるからである。これは候補生に対して、ある猜疑の念を起させずにはおかなかった。 ホオエンダムにある将校集会所の広間は、奥行も長く間口もひろく、本来はこよいそこに打ち興じている三十人の紳士たちにとっては、大きすぎるのである。四壁と楽隊席とは、幕に見せかけた赤塗りの石膏で飾ってあり、無趣味な天井からは、曲りくねった燈架が二つ垂れていて、それにろうそくが傾きながら滴りながら、燃えている。ところで板張りの床は、特に命令を受けた七人の驃騎兵によって、午前中かかって拭き浄められた。だから結局、将校諸君といえども、このホオエンダムのごとき 蒙昧僻遠 ( もうまいへきえん ) の一寒村において、これ以上の豪奢を要求することはできないほどになった。それにまたこの宴会にどこか光彩の足りぬところがあっても、それはこの一夕に特色を与えている、あの一種独得ないたずら気分によって、「燕たち」と一緒になるという、禁断のおごった気持によってつぐなわれている。愚鈍な伝令兵たちでさえも、広間の三方の壁添いに並んだ、白く蔽われた小卓のそばの氷桶へ、新しいシャンパンの壜を立てながら、老獪そうににやにやしたり、あたりを見廻しては、微笑の眼を伏せたりしている。無言で無責任で、なにか思いきった暴挙に手をかす召使といった風に。――すべては「燕たち」を目当てにしてのことなのである。 燕たち、燕たちとは何か。――まあ手っ取り早くいえば、それは「ウィインの燕たち」である。渡り鳥の一群のように国々を渡り歩き、およそ三十人ばかりの人数で、町から町へ飛び移っては、第五流どころの音楽堂や寄席へ出て、放埒な様子をしながら、かちどきのような、さえずるような声で、お得意の呼び物の唄を歌う―― 「燕が今度また来たら 眼を見張るだろ見張るだろ。」 それは解りやすい諧謔を含んだ、いい唄で、「燕たち」は、それを聴衆のうち、よくわかった人々の喝采裡に歌うのである。 というわけで、「燕たち」はこのホオエンダムにやって来て、グウゲルフィングの酒場で歌った。ホオエンダムには守備隊がある。驃騎兵がまさに一箇聯隊である。だから「燕たち」がこの権威ある階級から、並以上の興味を持たれるときめてかかったのは、むりもなかった。ところが、興味どころではない、感激をもって彼等は迎えられたのである。毎晩毎晩、独身の士官たちは彼等の足もとに陣取って、燕の唄を聞きながら、少女たちのために、グウゲルフィングの黄色いビイルで健康を祝した。しばらくすると、今度は既婚の人たちも現われた。そしてある晩、ついにフォン・ルンムレル大佐まで親しく臨場せられて、深甚な興味をもって番組を追われた後、さまざまな方面にむかって、「燕たち」に対する腹蔵なき推服の念を発表せられたのであった。 さて、そこで尉官連中の間に、「燕たち」となじみになろうという計画が熟した。中でも一番きれいなのを、十人かそこいら選り抜いて、シャンパンと万歳との陽気な一夕に、集会所へ招待しようというのである。上官連は世間の手前、この企てに関係するわけにはいかないので、悶々の情を抱きながら、手をこまぬいているよりほかはなかった。が、ただに未婚の少尉たちのみならず、既婚の中尉大尉までがこれに加わった。しかもこの連中は(これがこの催しのくすぐりであり、本来のねらいどころでもあるのだが)夫人同伴なのである。 障害と憂慮は? フォン・レフツァアン中尉は、こういう金言を発見していた――軍人にとりて、障害と憂慮とは、ただ征服せられ蕩尽せられんがために、在って存するものなり。人のいいホオエンダムの住民どもが、この企てを聞いたら、将校連が夫人がたを「燕たち」と同席させるといって驚くだろうが、それは勝手だ。彼等なら無論そんなことをしてはならないだろう。ところが、一つの高い世界というものがある。人生の豪放な彼岸の領域というものがある。より低い世界でなら、恥辱にも不名誉にもなるようなことでも、そこでなら、もうまた、いくらしようとかまわないのだ。それに尊敬すべき町民たちは、彼等の驃騎兵から、いつもいろいろけたはずれなことを、期待し馴れてはいないだろうか。将校連はいつでもその気になりさえすれば、白昼公然と人道を馬に乗って通る。それは事実あったことだ。いつかのくれがたなぞは、街の広場でピストルをうったものがあった。これもやはり将校のしわざにきまっている。しかもこんなことに対して、夢にでも文句をいおうとした者があったろうか。次の逸話なんぞも、たしかな保証つきである。 ある朝、五時と六時の間に、男爵ハリイ大尉は、上機嫌で同僚数人と、夜の歓楽の帰り路をたどっていた。連れはフォン・ヒュウネマン大尉、ならびにル・メエストル、男爵トルッフゼス、フォン・トラウテナウ、フォン・リヒテルロオなどの中少尉仲間であった。この一行が「古橋」を渡ってゆくと、むこうからパン屋の小僧が一人来かかった。小僧はパンの入った籠を肩にして、のんきに小唄を口笛に吹きながら、すがやかな朝の中を進んで来たのである。「こっちへよこした。」と叫ぶが早いか、ハリイ男爵は、籠の把手に手をかけたと思うと、パンがただの一つも落ちないほどあざやかに、三度ばかり籠をぐるぐる振り廻してから、今度は彼の腕力を裏書する弓形を描かせながら、遠くむこうの濁った河水の中へ、籠を投げ込んでしまった。パン屋の小僧は、はじめは驚きのあまり凝然としていたが、やがて自分のパンが流れて沈んでゆくのを見ると、号泣の声とともに、両腕を高くあげながら、絶望した人のようなしぐさをした。しかし紳士たちがひとしきり、この小僧の幼稚な憂悶に打ち興じたあとで、ハリイ男爵は、籠の中味の三倍もする貨幣を一つ、小僧に投げ与えた。そうしておいて、将校連は笑いながら、さらに家路をたどったのである。そこで少年は、相手が貴族だということを合点して、なんにもいわなかった―― この話はいちはやく人々の口の端に上った。しかしだれか一人でも、これについてとやかくいうだけの勇気を出したら、大変だった。みんな微笑しながら、または歯をくいしばりながら、ハリイ男爵とその同僚たちから、この話をただ甘んじて聞き取ったのである。男爵たちは支配者だからである。ホオエンダムの支配者だからである。さてこういうわけで、将校夫人がたは「燕たち」と席を同じうすることになった。―― ―― 候補生は踊りのほうも、ワルツを弾くのより上手ではないらしかった。なぜなら、踊りの約束もせず、ちょっと会釈をして小卓の一つに、ハリイ男爵の妻、小さな男爵夫人アンナのわきへ、腰をおろしてしまって、夫人になにやら恐る恐る言葉をかけているからである。「燕たち」と一緒になって楽しむことが、この若い男にはどうもできない。彼は「燕たち」がほんとうにこわかった。自分がどんなことをいっても、こういう種類の少女たちは、必ずけげんそうに自分を見つめるように彼は思うのである。そしてこれは候補生の心を痛ましめた。しかしいくじのない無能な人間によくあるごとく、彼は拙劣きわまる音楽によってすら、寡黙なものぐさな冥想的な気分に誘われていったし、それに男爵夫人アンナも、彼のことは毛頭気にとめないで、うわの空の返事ばかりしているので、まもなく二人とも口をつぐんで、ただ奇妙にも二人に共通な、なんだかこわばったゆがんだ微笑をたたえたまま、踊りの人々のゆれ廻る様を眺めるだけになってしまった。 燈架のろうそくは、しきりにゆらめいては滴るので、もくもくと半分固まりかけた蝋涙で、燈架はすっかり不恰好になってしまった。が、その下では、フォン・ゲルプザッテル少尉のあおり立てるようなリズムにつれて、幾組もの男女が、ぐるぐると流れるように動いている。爪先を立てた足が、大股に運ばれる。しなやかに方向を換える。そしてすうっと滑ってゆく。紳士たちの長い脚は、少し曲って、はずんで、ぴんとはねて、いきおいよく飛んでゆく。上着がなびく。多彩の驃騎兵服が入りまざって渦をまく。そして婦人たちは、なまめかしく小首を傾けながら、相手の腕へ腰をもたせかける。 ハリイ男爵は一羽のあきれるほどきれいな「燕」を、紐飾りのついた胸へ、かなり堅く抱き寄せたなり、顔を相手の顔に近づけて、わきめも振らずに、相手の眼を見つめていた。アンナ夫人の微笑は、この一組に 随 ( つ ) いてゆく。あそこでは、のっぽのフォン・リヒテルロオ少尉が、小さいふとったまんまるな、並外れて肩のあらわな「燕」を擁して、ころがるように踊っている。ところが、もう一つの燈架の下では、なににも増してシャンパンの好きなフォン・ヒュウネマン大尉夫人が、うそでも偽りでもなく、全くわれを忘れて、もう一羽の「燕」とぐるぐる踊り廻っている。その燕はそばかすのあるかわいらしい子で、この常ならぬ光栄のために、顔中どこからどこまで光り輝いていた。「ねえ、奥様。」とあとになってフォン・ヒュウネマン夫人は、フォン・トルッフゼス中尉夫人に向っていった。「あの娘たちはちっとも無教育ではございませんよ。ドイツ国中の騎兵守備隊の所在地を、すっかり空でいって見せますもの。」婦人が二人あまってしまったので、この二人は一緒に踊っているのだが、この二人だけに芸をさせようというので、みんなが次第次第に場面からどいてしまったことを、二人はまるで気づかずにいた。ようやくそれでも気がつくと、広間のまんなかに、二人並んで立ちどまってしまった、哄笑と喝采と万歳の叫びとに埋もれながら。―― それからみんなはシャンパンを飲んだ。伝令兵たちが白手套のまま、テエブルからテエブルへ走っては、注いで廻った。しかしそれがすむと、「燕たち」はもう一度歌わなければならなかった。息がきれていようといまいと、そんなことは一切かまわず、どうでもぜひ歌わなければならなかった。 「燕たち」は、広間の短かいほうの壁の一つを占めている演奏壇の上に、一列に並んで立って、秋波を送った。みんな肩と腕があらわれている。衣裳は淡灰色のチョッキの上へ、それよりも濃い色の燕尾服を着ていると見えるような工合にできている。それに縫飾りのある灰色の靴下と、おそろしくかかとの高い、甲のところが長くきれ込んだ靴とをはいている。金髪のがいる。黒髪のがいる。人がよさそうにふとったのもあれば、おもしろいほどやせたのもある。妙に精のない深紅の頬をしたのがいると思うと、道化役のように真白な顔をしたのもある。しかし中で一番きれいなのは、やはりさっきハリイ男爵の踊り相手になった、あの子供らしい腕と、 巴旦杏 ( はたんきょう ) のような輪郭の眼をした、小さな小麦色の肌の女である。アンナ夫人もまた、この女が一番きれいだと思った。そして微笑しつづけた。 さて「燕たち」が歌って、フォン・ゲルプザッテル少尉が伴奏を弾いた。少尉は上半身をそらせて、首を「燕たち」の方へ向けたまま、腕を長く伸ばして鍵盤を打っている。「燕たち」は斉唱で、こういう意味の唄を歌った。――私たちは気楽な鳥だ、もう世界中を旅していて、飛び去る時には、いつもあらゆる人の心を拉してゆく、というのである。またきわめてなだらかな 節 ( ふし ) の小唄もあった。それは、