May You Push the Man? — The Trolley Problem, Consequences, and Constraints — Epoche C2
場面設定: トロッコ問題をテーマとした大学院の授業の後のゼミ室、夕暮れどき。道徳とは害の最小化にほかならないと考える帰結主義者のボーモン教授が、より多くの善を生むためであっても人になしてはならないことがあると考える義務論者のシュタイン教授と対峙する。学生たちは去り、いま二人は授業の枠なしにこれを論じる。 導入: より多くの善を生むためであっても人になしてはならないことがあるのか。それとも、為すべきことは結局その数によって決まるのか。これが帰結主義と義務論とを分かつ問いである。帰結主義は、道徳とは害の最小化にほかならず、命を数えて最も多くを救えと説く。義務論は、人を単なる手段として用いてはならないという側面制約が存在し、それは数によっては覆されないと説く。鍵となる概念は、為すことと許すことの区別、害を手段として意図することとそれを副次的結果として予見することの区別、そしてフットに由来する二重結果の原理である。中心的な事例は三つ、暴走するトロッコの進路を変えて一人の犠牲で五人を救うスイッチ、男を突き落としてその身体でトロッコを止める歩道橋、健康な来訪者を切り刻んで五人を救うトムソンの移植の外科医である。 トロッコの事例は功利主義に恥をかかせるためのものでありながら、かえってその批判者に恥をかかせる。暴走するトロッコが五人を殺そうとしている。あなたはそれを一人を殺す軌道へ振り向けることができる。ほとんど誰もが進路を変えるべきだと同意する。それこそ帰結主義の答えである。五人の死は一人の死より悪いのだから死者を最小化せよ、というわけだ。いわゆる謎は、なぜ人々が歩道橋の事例でひるむのか、という点に尽きる。そこでは算術は同一である。橋の上の重い男、その落下がトロッコを止めるであろう男、五人と秤にかけられた一つの命。誠実な答えは同じだ。あなたは突き落とす。広く見られる拒絶は感情であり、間近で自らの手によって振るわれる暴力に対する深く進化した嫌悪であって、道徳的真理の知覚ではない。健全な倫理学は原理に従い感情を正す。それは感情を原理として戴くことはしない。 その非対称性は正されるべき欠陥ではない。それはあなたがあまりに性急に退ける区別についての証拠である。文化を越え年齢を越え言語を越えて、人々は一致する。スイッチでは進路を変え、歩道橋では拒む。そしてミハイルは、その様式が頑健で早期に現れ規則に支配されていること、私たちが発明したのではない道徳文法のごときものであることを示した。あなたの理論が同一と呼ぶ二つの事例を安定した普遍に近い判断が分かつとき、理性的な第一歩は、それが何を追跡しているのかを問うことであって、人類は体系的に欺かれていると宣告することではない。そして明白な候補がある。フットが名づけたものだ。スイッチでは既存の脅威を方向転換させ、死は副次的結果である。だが歩道橋では男を用いる。その身体こそトロッコを止める当の道具なのだ。人の死を自らの手段として意図することは、それを代価として予見することと同じではない。それは単なる神経質さなどではない。 だが二重結果の原理はその重みを担いえない。意図と予見の境界線は、それを精査した途端に崩れ落ちるからだ。ループを取り上げよう。あなたはトロッコを側線へ振り向けるが、その線は曲がって五人のほうへ戻ってくる。そこでは一人の重い男の身体だけが、トロッコがループを巡り終えて彼らを殺すのを止める唯一のものである。ここではあなたは彼が衝突することを必要とする。彼が打たれることがあなたの手段であり、歩道橋とまさに同じだ。それでも大多数の人はなお進路を変えよと言う。つまりあなたが歩道橋で断罪する当の「手段として用いること」が、ループでは見逃される。これはそれが判定を駆り立てるものではないことを示している。判定を駆り立てるのは、その行為がいかに物理的で間近に感じられるか、である。この原理は、犠牲者に触れねばならないときに一段と激しく発火する直感について、事後に語られる小ぎれいな物語にすぎない。 ループはまさに正しい挑戦であり、それは区別を溶かすのではなく鋭くする。第一に、データはあなたの言うほど明快ではない。慎重に記述すれば、多くの人がループでもひるむ。スイッチからループへの賛成の低下それ自体が、「用いること」が登録されていることの証拠である。第二に、原理に忠実な義務論者は弾を噛みしめてループも許されないと呼ぶか、さもなければカムの反事実的テストで精緻化しうる。問うてみよ。軌道上の男がどうにか脇へ退いたなら、あなたの計画は台無しになるか。スイッチではあなたは喜ぶだろう。彼の存在は端から不要であり、彼の死はあなたの目的の一部ではない。歩道橋とループでは、彼が脇へ退けば計画は破綻する。あなたは彼が打たれることを必要としたのだ。その反事実こそ意図が実質的で選別可能な働きをしている証であり、それはあなたとの距離ではなく行為の構造を追跡する。 反事実的テストは巧妙だが、事例の全域にわたって走らせるとなお的を外す。カム自身がますます手の込んだ変種を組み立てねばならない。回転盆の事例、岩に逸らされた末にその岩が一人を押し潰すトロッコの事例。すると直感は砕け散る。テストが正しく選別するどの事例にも、それが誤って選別する瓜二つの双子が存在する。原理がそれほど多くの周転円を必要とし、そのおのおのが特定の頑固な反応を救うために仕立てられているとき、より単純な仮説は、深い原理など端から存在せず、ただ寄せ集めの反応があるだけ、その多くが枠組みの産物だ、というものだ。グリーンの画像研究はその機構を可視化する。間近で個人的な事例は感情系を動員し、非個人的な事例は計算を動員する。「諸区別」とは私たちが事後に自らの感情へ授ける名なのである。帰結主義のみが、えこひいきなく適用される一つの擁護可能な規則を提供する。命を数え、最も多くを救え。 「命を数えよ」はあなたが思い描くほど潔白な避難所ではない。それはあなた自身が拒む結論を生み、しかもそのすべてを神経質さとして退けるには道徳そのものを退けねばならないからだ。トムソンの外科医を見よ。五人の患者が臓器の不足で死にかけており、健康な男が定期検診のために訪れる。彼を殺し、臓器を分配し、五人を救う。算術は歩道橋と、そしてあなたのトロッコと同一である。もし「死者を最小化する」ことが倫理のすべてなら、あなたは彼を切り刻めと言わねばならない。だがそれを信じる者は事実上いない。あなたを含めてだ。であればあなたは移植の屠殺者を受け入れるか、さもなければ数が覆しえない制約が人になしうることに対して存在することを認めるか、どちらかである。その制約こそ私の論点にほかならない。そしてあなた自身が臓器を収奪することを拒むのは、あなたが自らの理論に逆らってそれを追跡している証なのだ。 外科医は、あなたが数え損ねた帰結によって答えられ、規則帰結主義はこれを明快に解く。健康な来訪者を収奪する方針が知れわたった世界は、誰も病院に足を踏み入れる勇気を持たず、恐怖があらゆる診療所を蝕み、病人が家に留まって死んでゆく世界である。その崩壊から生じる死は救われる五人をはるかに上回る。それゆえ帰結主義者は外科医を断罪する。それは数を見捨てることによってではなく、体系的な恐怖を含めてそのすべてを数えることによってである。歩道橋は異なる。秘密裡の一押しはそのような崩壊を引き起こさない。それゆえ私の見解は、あなたが区別しえないと言う当の事例を区別し、しかもそれを帰結によって行うのであって、「用いること」のうちにある神秘的な不正に訴えることによってではない。あなたは長期の算術を、帰結から離れて漂う側面制約と取り違えたのだ。 規則帰結主義による救済は、変装した形で私の論証を証している。それは「規則」の名のもとに制約を持ち込むことによってのみ機能するからだ。なぜ臓器収奪の慣行が恐怖を広めるのかを問うてみよ。それは、より多くを救うためであっても部品として切り刻まれることを禁じる地位を、人々が正当にも感じ取るからである。恐怖は道徳的真理を追跡しているのであって、それを製造しているのではない。そして秘密裡で代価のない一回かぎりの行為があなたを暴く。もし外科医が完全な秘密のうちに体系的影響もなく一人を収奪して五人を救えるなら、あなたの見解は進めと言わねばならない。だがあなたはそれを信じない。不正は男を用いることのうちに存するのであって公になることのうちにではない、とあなたは感じ取るからだ。さらに悪いことに、あなたの規則はジレンマに直面する。ここでそれを破ることが最善の帰結を生むなら、なぜそれを保持するのか。あなたは最大化して屠殺者になるか、さもなければ規則が正しいがゆえにそれを保持するか、どちらかだ。後者ならあなたは借り着をまとった義務論者である。 では私たちの真の不一致を述べよう。事例が私たち双方を動かしたからだ。私たちは数が甚だしく重要であることに同意する。あなたもスイッチでは進路を変えるし、潔癖さゆえに五人を死なせることはそれ自体が重大な不正である。避けえた屍の山を前にした潔白な手は美徳ではない。私たちはスイッチと歩道橋の非対称性が頑健であること、人々が現にそれを引くことに同意する。私たちが分かれるのは、それに何の価値があるか、である。あなたはそれを真正の制約を追跡するものと読む。すなわち、善き目的のためであっても人を単なる手段として用いてはならない、という制約だ。私はそれを、強力でおおむね有用でありながらなお的を外す感情と読む。それが明らかに正しい行為を禁じ、明らかに誤った行為を許す事例を私は見いだしうるからだ。問いは、その制約が道徳的世界の実在する特徴なのか、それとも私たちのうちにある深いが正されうる偏りなのか、である。 そこが縫い目であり、なぜその制約が偏りではなく実在するのか、ここに理由がある。ただ「善を最大化せよ」とのみ説く道徳は、私たちの知る最も確固たることを理解しえない。すなわち、より多くの善を生むためであっても人に対して犯してはならない行為がある、ということだ。暴動を鎮めるために子を拷問してはならず、群衆をなだめるために無実の者を陥れてはならず、病棟を救うために患者を収奪してはならない。あなたはそれらの禁止を、いかなる総和を感じるのと同じくらい確かに感じ取る。もしそれらが単なる偏りであるなら、それを克服した理性的な主体は道徳的により善いことになる。冷徹な収奪者、平然と無実の者を陥れる者、というわけだ。だがその人物は倫理的な英雄ではない。彼は怪物であり、私たちが彼をそう見るのは正しい。それらの制約は勇気の欠如ではない。それは、人が目的であって帳簿のために費やされる資源ではない、という認識なのである。 それでもあなたの制約は、絶対のものとして保持されれば、それ自身の怪物を生む。だからこそ私は単純にあなたに与しえない。もし人を決して手段として用いてはならないなら、あなたは歩道橋で五人を死なせ、止めうる一人を強いるくらいなら都市が燃えるに任せ、自らの手が「用いること」から潔白に保たれてさえいればいかなる数が滅びるに任せねばならない。ある規模に至れば、五人、五千人、五百万人、行為することの拒絶それ自体が暴虐となり、「私は制約を尊んだ」という言葉は、あなたが救えたはずの死者にとって何の慰めにもならない。それゆえ私は制約を、拒否権としてではなく錘として実在すると呼ぶ。それは人を手段として害することへの基準を急峻に引き上げるが、賭け金が十分に高く昇れば、その基準は越えられうる。あなたが側面制約と名づけるものを、私は秤の上に押し当てられた極めて重い親指と名づける。 そしてそこでこそ、私たちは融け合うことなく誠実に出会えると思う。原理上は打ち消されうる重い親指は閾値義務論であり、私は純粋な絶対主義よりもそれに近いところに座している。然り、破局的な規模においては制約は屈しうる。私たちの大半は百万人を救うために一人を突き落とすだろう。だが、その親指を認めることであなたが譲ったものに目を留めよ。あなたは、人を手段として害することが剥き出しの死者数を越えて余分に算入されること、それゆえ用いることによる一つの死が副次的結果としての一つの死より道徳的に悪いことを認めた。その非対称性こそ私の主張のすべてである。私たちはもはや、その区別が実在するか否かでは分かれない。ただその重みと閾値の落ちる位置でのみ分かれる。あなたはそれを正されるべき感情と呼ぶことから始めた。あなたはそれに秤の上の場所を与えるに至っている。 それを認めよう。そして、それが私の立場における実質的な変化であることも認める。人を用いることは死それ自体を越えた道徳的代価を負う。平板な死者数では取り逃すその代価を、いかなる誠実な帰結主義も、ないものと装うのではなく算入せねばならない。私が堅持するのは、それがなお代価であって拒否権ではない、という点だ。人の地位のいかなる特徴もあらゆる規模を生き延びはしない。一人が用いられるのを免れさせるために百万人を死なせるであろう地位は、潔白な手を偶像とし、それを敬意と呼んだのである。こうして私たちは少しずつ陣地を譲り合った。あなたは制約が破れうることを認め、私はそれが実在し、重く、帰結のみには還元しえないことを認めた。残された問いは、どれほど重いのか、閾値はどこに横たわるのか、であり、それはトロッコが答えるべく作られた問いでは決してなかった。トロッコは秤の形を試したのであって、その正確な目盛りを試したのではない。 ではこの形がなお重要となる一点を、休む前に突こう。閾値を認めたとしても、説明の順序が私たちを分かつのであり、それは些事ではない。あなたの見解では、用いることの不正は総和に算入される大きな量であり、それゆえ反対側に十分な命が乗れば、それは単に打ち消されて消え去り、残余を残さない。私の見解では、それは制約であり、たとえ破局が私たちにそれを突破させるときでも道徳的残余を残す。突き落とされた一人は不正をこうむったのであり、悲嘆と釈明を負われるべきであって、単に差し引かれるのではない。それを、事後に何がふさわしいかによって試してみよ。百万人を救うために突き落とす行為者は、単に高い代価を効率よく支払ったと感じるのではなく、おぞましいことを為したと感じるべきである。もしあなたがその残余を説明できるなら、あなたの総和は密かに私の制約にな