遺産 — 水上滝太郎
おもいもかけない大地震は、ささやかな彼の借家と、堂々たる隣の家との境界を取払ってしまった。 いい家だけれど、あの塀があんまり高くて、陰気で、しめっぽくていけないと、引越して来た日から舌うちしていた 忌々 ( いまいま ) しい 煉瓦塀 ( れんがべい ) は、土台から崩れて、彼の借家の狭い庭に倒れ込み、その半分をふさいでしまった。先住の手植らしい縁日物の植木や、素人の手でつくられたに違いない 瓢箪池 ( ひょうたんいけ ) は、古びた煉瓦の下敷になってしまった。胴の長い 和金 ( わきん ) が五六尾泳いでいたが、それも土の中にめり込んでしまったに違いない。 金貸をして、一代で身上をつくったという隣の家の先代は、名前の上に鬼という余計な字をくっつけて呼ばれた人間だった。高く廻らした煉瓦塀も、人の 恨 ( うらみ ) を 遮断 ( しゃだん ) するものであった。そのてっぺんには、 硝子 ( ガラス ) の破片が隙間なく植えつけてあった。仰いで見る高い所で、無数の硝子はちかちかと日光を反射していたが、今目の前に倒れたのを見ると、何のための硝子なのか、少しも 威嚇 ( いかく ) する力を持っていなかった。それは実力不相応に買かぶられていたものが、真の力量を暴露したような姿だった。 日光を 遮 ( さえぎ ) った高い塀が倒れてしまったので、隣の家の広い庭が彼の客間兼書斎の机の位置から、ひろびろと見渡せるようになった。植込の向うに芝生があり、芝生の真中に池があって、晩夏の日を照りかえす水は、樹々の枝の間に強く光った。 「お隣はうちなんかと違って、 随分 ( ずいぶん ) ひどくやられたようね。」 妻は未見の世界を発見したもの珍しさで、突然目の前に展開された庭を幾度となく眺めてあきないのであった。それは自分の手の届かないものに対する 明 ( あきら ) かなる 羨望 ( せんぼう ) であった。 「あら、 石燈籠 ( いしどうろう ) が倒れているわ。」 「どこに。え、ママ、どこだったらさ。」 「あすこんとこよ。 築山 ( つきやま ) があって、大きな松の木があるでしょ。」 「ああわかった。やあい、石燈籠が倒れてら。」 子供を相手に、妻が裏口で話している声が、近々と聞える。 「賢ちゃん、いけない事よ。お隣に行ったりなんかして。叱られてよ。」 妻のたしなめる声の下をくぐって、子供は倒れた煉瓦の上にかけ上り、ともすると子供一流の好奇心から、一歩でも隣の土を踏みたがるのであった。 殊 ( こと ) に、時折隣の庭の芝生で遊んでいるちいさい女の子の姿を見ると、仲間を求める欲求から、賢一は何とかして、自分の方へ女の子の注意を引こうとつとめるのである。 「あら、お隣にはあんな可愛らしい子がいたんですかねえ。ついぞ見かけた事もなかったのに。」 妻もその女の子のメリンスのきものを、木の間を透かして見る時は、特別の興味で活気づくのであった。 町内のつきあいもなく、高い煉瓦塀の中にかくれて住んでいるような隣人について、引越して来て間のない彼等は多くの知識を持っていなかった。 馬鹿馬鹿しく高い塀の 冷 ( つめた ) い感じが、最初から反感をそそったのは事実だった。だから、その塀の崩壊したのを見た時は、大地震の 脅威 ( きょうい ) の中でありながら、痛快に思った 位 ( くらい ) だ。塀の中の人間は、自分達とは縁のない別世界の人として考えていた。それが今、境界の主たるものが取払われ、見透しにのぞく事になったのだから、何となく親しみの出て来た事は否めなかった。 子供には子供の誘惑が働いて、いつの間にか境界は自由に踏越えられていた。 「おい、どけよ、そこは箱根山なんだよ。地震が来ると谷底におっこっちゃうんだから、女なんて行くとこじゃあないんだよ。」 「いいのよ。ここあたしんちなのよ。」 「駄目だい。君んちはここだよ。そんな山の上にうちなんてあるもんか。」 のぞいて見ると、賢一が兄貴ぶって指図しているのに、従がったり、半分従がわなかったりして、隣の女の子が、崩れた塀を山に見たてたり、谷底に見たてたりして遊んでいた。おかっぱの髪をふわりふわりさせながら、女の子は女らしく、裾の乱れを気にしながら、賢一のするままに、高い所から下へ飛び下りたり、 又 ( また ) のぼったりしているのであった。呼吸器の弱そうな首の細い、色の白い、眼ばかり大きなこどもだった。 「お隣の子ねえ、学校に行かないんですって。」 「だってまだちいさいじゃあないか。」 「いいえ、あれで賢一と 一歳 ( ひとつ ) 違いですとさ。」 「へえ、 七歳 ( ななつ ) かい。ちいさいじゃあないか。おそ生れなんだろう。」 「ところがそうじゃあないんですって。お父さんが学校なんか行かなくたっていいって云うんですとさ。」 「どうしてだい。」 「どうしてですかねえ。なんだかお隣は気味の悪いうちじゃありませんか。」 「お母さんはいないのか。」 「なくなったらしいんですよ。可愛そうだから 訊 ( き ) いても見ないけれど。」 「そういえば奉公人らしい者も見かけないなあ。」 「婆やが一人いるっきりですとさ、あんな広いうちなのに。掃除だけでも大変でしょうねえ。」 呑気 ( のんき ) 者の妻も、多分の好奇心を持っていた。彼はもとより小説家に特有の観察好きから、もっと詳しい事を知りたく、想像をたくましくしていたが、一面 甚 ( はなはだ ) しい 不精 ( ぶしょう ) から、積極的に他人の身辺の事を探る態度はとらなかった。それでも、二人の間には 何 ( なに ) かにつけて隣の噂が繰返された。 「この頃賢一が毎日遊びに行くんですよ。いいんでしょうか、うっちゃっといて。」 「ひとのうちへ 無闇 ( むやみ ) に入って行くのはいい事じゃあないが、子供同志の事だから構わないだろう。」 「でも、なんだか気味が悪いのよ。あの女の子のお父さんていうのが、恐い顔して、一言も口をきかずに見ているんですって。」 「余程変なうちだなあ。」 「変ですとも。第一こんなにひとのうちに塀が倒れ込んでいるのに、 挨拶 ( あいさつ ) にも来ないじゃないの。まさかいつまでも放って置く気ではないでしょうけどね。」 「いいじゃあないか。目の前に高い塀がつっ立っているよりも、広々としてこのままの方がいいぜ。」 「だって不用心だわ。」 「用心の悪いのはお隣さ。こっちは泥棒が入ったって盗まれる物もありゃあしないや。」 そうは云いながら、彼とてもその崩れた煉瓦塀がいつまでもそのままで、やがて秋めいて来た景色の、段々わびしくなるのを見て、時折気にする事もなくはなかった。 彼は新聞と雑誌に続物を引受けていて、毎日机の 側 ( そば ) をはなれる事の出来ないからだだった。夜は遅くまで起きているため、昼間は机にむかいながら、ついぼんやりしている事が多かった。 「ごめん下さい。」 耳馴れない男の声が庭先に聞えた。 障子 ( しょうじ ) をあけると、隣家との境界の煉瓦塀の崩れた向うに男が立っていた。 「私は井原です。宅の塀が倒れたままになっているので、大変御困りだと承りましたが、申訳ありません。早速とりかたづけさせるつもりですが、東京中やられてしまったので、職人の手が足りず、ついそのままになっているのです。決してわざとうっちゃって置くわけではありませんです。」 痩 ( や ) せた、骨立った体を、わざとのように直立させ、 嗄 ( しゃが ) れた声で、切口上で云うのであった。 蒼白 ( あおじろ ) い顔にまばらに 髯 ( ひげ ) の延びた陰影の多い表情の中に、人に親しまない 皺 ( しわ ) があった。 「いや、私共の方は、どうせ庭らしい庭でもありませんから、このままでも構いませんが、とんだ御災難でしたなあ。しかしお互に命拾いをしたのは 儲 ( もう ) けものでした。」 相手が人に圧迫感を与える 程 ( ほど ) 緊張した様子を示しているので、彼はわざと砕けた調子で答えたが、先方は自分のいう事だけをいえばいいと云う風であった。 「今朝早くでした。お宅の家主だという方が見えまして、ひどく叱られました。あなたが大層御立腹だという事で。」 「へえ、家主がうかがいましたか、あの老人は向ういきの強い先生ですから、さぞかし一人でまくしたてたでしょうが、私自身はこのままでも決して 差支 ( さしつかえ ) ありません。正直にいうと、あんまり高い塀だったので、目ざわりで、あれがなければいいがと多少呪ってもいましたが。」 「倒れればいいとですか。」 隣人は思いがけなく破顔した。 「まさかそうでもありませんが、しかしこうなって見ると、お宅の広々としたお庭が見渡せて、非常に結構です。実際、垣根だとか塀だとかいうものは、お互が侵入さえしなければ不必要なものかと思いますが。」 「そう、そういう考え方もありますでしょう。ですが、隣同志 他人 ( ひと ) の生活を 脅 ( おびや ) かさずに住めるものでしょうか。」 隣人は 嘲 ( あざ ) けるような語気で云った。 或 ( あ ) る特定の人か事かを嘲けるのではなく、自分自身をもひっくるめた社会全体を嘲けるようなものであった。 「いかがです、こちらへおかけになりませんか。」 彼は多分の好奇心をもって、縁側へ 座蒲団 ( ざぶとん ) をすすめた。どうせやって来はしないだろう、この男は人とつきあう事は一切しないと云う噂だから――そう思いながら、試してやる気が充分あった。 ところが隣人は、 「失礼します。」 といいながら、 躊躇 ( ちゅうちょ ) なく崩れた塀を踏越えて来た。 「あなたは昨今こちらへお引越になったようですから、御存じないかもしれませんが、この煉瓦塀は、私の父の遺産のひとつです。」 腰かけるとすぐに、挑戦するような語気でいうのであった。 「私の父というのは田舎者で、極貧の家に生れたのです。一年中朝から晩まで働いても、満足には喰えないのが定められた運命でした。貧乏人にとっては、それを甘受するのがいい人間と呼ばるべきでしょうが、私の父は運命の前に頭を下げる事を拒みました。東京に出て来て、幾年間か、奴隷に等しい生活をしたあげく、父は世の中を憎み、金を愛する人間になってしまいました。金だ。金さえあればという考えは、親譲りの財産があったり、地位とか名誉とかいうものに手の届く人間には、さほど強くは起らないかもしれませんが、貧乏の悲惨をしみじみ 噛 ( か ) みしめた無学で粗野な人間には、何より力強いよりどころを与えたに違いありません。少しの金をもとでにして、金貸を一生の業としたのです。あなたは小説をおかきになる方だと承知していますが、私の父の場合の如きは、小説的色彩のある原因は何もなかったと思います。失恋の結果世を呪ったとかいうような都合のいいいいわけは見つかりません。ただ貧乏が、そうさせたと申す 外 ( ほか ) なさそうです。金をためる事以外に、何の 考 ( かんがえ ) もなかったらしいのです。ざんにんこくはく、因業は 勿論 ( もちろん ) です。おききになって御承知でしょうが、井原五郎右衛門というのが戸籍面の名前でしたが、誰一人として井原などと呼ぶ者はありませんでした。鬼五郎鬼五郎といって 罵 ( ののし ) りました。そんな事に 頓着 ( とんじゃく ) なく、何の道楽も特別のぜいたくもしず、ただ金をためたのです。その一方には、私の父に金を借りたばかりに、娘を女郎に売った奴もあれば、首をくくって死んだ奴もあります。いいえ、ほんとですとも。冬の寒い 暁方 ( あけがた ) でした。うす汚ないじじいが、宅の玄関先に 棒鱈 ( ぼうだら ) のようにぶら下っているのを、五歳になったばかりの私も、人々のうしろからのぞいて見ました。どうした事情かよくはわからなかったけれど、我家へ 面 ( つら ) あてに死んだ人間だと直感して、ひどく面憎く思いました。だが、私の知らない犠牲者が幾人あったか、恐らく私の父とても知らなかったでしょう。父は、世間から悪くいわれ、人まじわりが出来なくなると、一層金を大事にし、その結果がどうあろうと顧みる事はしなかったのです。たった 一人児 ( ひとりっこ ) の私さえ、父のためた金の犠牲として、一生を塀の中で暮らす事になりました。私は子供の時から、家の外の人間はすべて自分を憎んでいる敵だと思っていました。門前で遊んでいると、町の子が石をぶつける。学校へ通うようになると、私に与えられたあだ名は小鬼というのでした。鬼ごっこをしても、目かくしをしても、陣取をしても、すべての子供が私の敵でした。私をいじめるための 遊戯 ( ゆうぎ ) のように、こづき廻し、突飛ばし、 唾 ( つば ) を吐きかけるのです。私は学校へ通う事を拒み、家庭教師から変則な教育をうけて育ちました。したがって、私には生れてから今日まで、友達というものは一人もありません。私は自分の身の安全を願う心持からも、父がきずいた塀の外には、足を踏出す気がなくなりました。恐らく父も、金がたまればたまる程一身の危険を感じ、ああまで思い切って高い塀をこしらえたのに違いありません。私はその中に 閉籠 ( とじこも ) り、世の中との交渉を絶つ事によって、ようやく 嘲罵 ( ちょうば ) の声を耳にしず、石をぶつけられ、 横面 ( よこつら ) を張飛ばされる事を免かれました。お恥しい話ですが、私の結婚も塀の中で相手を見つけたのです。この頃こちらへお邪魔にあがる女の子の母親ですが、宅の奉公人でした。え、死んだのかと 仰 ( おっしゃ ) るのですか。いいえ、その女は塀の中に閉籠ってはいられなくなり、あの子を捨てて出入の 御用聞 ( ごようきき ) といっしょに逃げてしまったのです。私は子供にも浮世の風はあてまいと決心して、学校にもやらず、おもてにも連れて出ず、全く家の中で育てました。それがいつまでつづくか、大人になったら自分の考えで、塀の外の世の中に憧れ出るかもしれないのですが、その時はその時で、本人の自由にさせる 外 ( ほか ) ありますまい。ただ私としては、あの子も塀の外に出て、決して幸福ではないと信じているのです。ところでどうでしょう。地震という奴は、私が頼みにしていた塀を土台から崩してしまいました。私が危険だ危険だと思っていた塀の外に、親子手をつないでかけ出さなければならなかったので