The Woman's Duel — Herbert Eulenberg
古来例のない、非常な、この出来事には、左の通りの短い行掛りがある。 ロシアの医科大学の女学生が、ある晩の事、何の学科やらの、高尚な講義を聞いて、下宿へ帰って見ると、卓の上にこんな手紙があった。宛名も何も書いてない。「あなたの御関係なすっておいでになる男の事を、ある偶然の機会で承知しました。その手続きはどうでも好い事だから、申しません。わたくしはその男の妻だと、只今まで思っていた女です。わたくしはあなたの人柄を推察して、こう思います。あなたは決して自分のなすった事の成行がどうなろうと、その成行のために、前になすった事の責を負わない方ではありますまい。またあなたは御自分に対して侮辱を加えた事のない第三者を侮辱して置きながら、その責を逃れようとなさる方でも決してありますまい。わたくしはあなたが、たびたび拳銃で射撃をなさる事を承っています。わたくしはこれまで武器というものを手にした事がありませんから、あなたのお腕前がどれだけあろうとも、拳銃射撃は、わたくしよりあなたの方がお上手だと信じます。 そこでわたくしはあなたに要求します。それは明日午前十時に、下に書き記してある停車場へ拳銃御持参で、おいで下されたいと申す事です。この要求を致しますのに、わたくしの方で対等以上の利益を有しているとは申されますまい。わたくしも立会人を連れて参りませんから、あなたもお連にならないように希望いたします。ついでながら申しますが、この事件について、前以て問題の男に打明ける必要はないと信じます。その男にはわたくしが好い加減な事を申して、今明日の間遠方に参っていさせるように致しました。」 この文句の次に、出会うはずの場所が明細に書いてある。名前はコンスタンチェとして、その下に書いた苗字を読める位に消してある。 この手紙を書いた女は、手紙を出してしまうと、直ぐに町へ行って、銃を売る店を尋ねた。そして笑談のように、軽い、好い拳銃を買いたいと云った。それから段々話し込んで、 ( うそ ) に 尾鰭 ( おひれ ) を付けて、賭をしているのだから、拳銃の打方を教えてくれと頼んだ。そして店の主人と一しょに、裏の陰気な中庭へ出た。その時女は、背後から拳銃を持って付いて来る主人と同じように、笑談らしく笑っているように努力した。 中庭の側には活版所がある。それで中庭に籠っている空気は鉛の ( におい ) がする。この辺の家の窓は、五味で茶色に染まっていて、その奥には人影が見えぬのに、女の心では、どこの硝子の背後にも、物珍らしげに、好い気味だというような顔をして、覗いている人があるように感ぜられた。ふと気が付いて見れば、中庭の奥が、古木の立っている園に続いていて、そこに大きく開いた黒目のような、的が立ててある。それを見た時女の顔は火のように赤くなったり、灰のように白くなったりした。店の主人は子供に物を言って聞かせるように、引金や、弾丸を込める所や、筒や、照尺を一々見せて、射撃の 為方 ( しかた ) を教えた。弾丸を込める所は、一度射撃するたびに、おもちゃのように、くるりと廻るのである。それから女に拳銃を渡して、始めての射撃をさせた。 女は主人に教えられた通りに、引金を引こうとしたが、動かない。一本の指で引けと教えられたに、内々二本の指を掛けて、力一ぱいに引いて見た。その時耳ががんと云った。弾丸は三歩程前の地面に 中 ( あた ) って、弾かれて、今度は一つの窓に中った。窓ががらがらと鳴って壊れたが、その音は女の耳には聞えなかった。どこか屋根の上に隠れて止まっていた一群の鳩が、驚いて飛び立って、たださえ暗い中庭を、一刹那の間一層暗くした。 聾になったように平気で、女はそれから一時間程の間、やはり二本の指を引金に掛けて引きながら射撃の稽古をした。一度打つたびに臭い煙が出て、胸が悪くなりそうなのを堪えて、そのくせその を好きな ででもあるように吸い込んだ。余り女が熱心なので、主人も吊り込まれて、熱心になって、女が六発打ってしまうと、直ぐに跡の六発の弾丸を込めて渡した。 夕方であったのが、夜になって、的の黒白の輪が一つの灰色に見えるようになった時、女はようよう稽古を止めた。今まで逢ったこともないこの男が、女のためには古い親友のように思われた。 「この位稽古しましたら、そろそろ人間の猟をしに出掛けられますでしょうね」と、笑談のようにこの男に言ったら、この場合に適当だろうと、女は考えたが、手よりは声の方が余計に 顫 ( ふる ) いそうなので、そんな事を言うのは止しにした。そこで金を払って、礼を云って店を出た。 例の出来事を発明してからは、まだ少しも眠らなかったので、女はこれで安心して寝ようと思って、六連発の拳銃を抱いて、床の中へ 這入 ( はい ) った。 翌朝約束の停車場で、汽車から出て来たのは、二人の女の外には、百姓二人だけであった。停車場は寂しく、平地に立てられている。定木で引いた線のような軌道がずっと遠くまで光って走っていて、その先は地平線のあたりで、一つになって見える。左の方の、黄いろみ掛かった畑を隔てて村が見える。停車場には、その村の名が付いているのである。右の方には砂地に草の生えた原が、眠たそうに広がっている。 二人の百姓は、町へ出て物を売った帰りと見えて、停車場に附属している料理店に坐り込んで祝盃を挙げている。 そこで女二人だけ黙って並んで歩き出した。女房の方が道案内をする。その道筋は軌道を越して野原の方へ這入り込む。この道は暗緑色の草がほとんど土を隠す程茂っていて、その上に荷車の通った 轍 ( わだち ) の跡が二本走っている。 薄ら寒い夏の朝である。空は灰色に見えている。道で見た二三本の立木は、大きく、不細工に、この陰気な平地に 聳 ( そび ) えている。丁度森が歩哨を出して、それを引っ込めるのを忘れたように見える。そこここに、低い、片羽のような、病気らしい灌木が伸びようとして伸びずにいる。 二人の女は黙って並んで歩いている。まるきり言語の通ぜぬ外国人同士のようである。いつも女房の方が一足先に立って行く。多分そのせいで、女学生の方が何か言ったり、問うて見たりしたいのを堪えているかと思われる。 遠くに見えていた白樺の白けた森が、次第にゆるゆると近づいて来る。手入をせられた事のない、銀鼠色の小さい木の幹が、勝手に曲りくねって、髪の乱れた頭のような枝葉を戴いて、一塊になっている。そして小さい葉に風を受けて、互に 囁 ( ささや ) き合っている。 この森の直ぐ背後で、女房は突然立ち留まった。その様子が今まで人に追い掛けられていて、この時決心して自分を追い掛けて来た人に向き合うように見えた。 「お互に六発ずつ打つ事にしましょうね。あなたがお先へお打ちなさい。」 「ようございます。」 二人の交えた会話はこれだけであった。 女学生ははっきりした声で数を読みながら、十二歩歩いた。そして女房のするように、一番はずれの白樺の幹に並んで、相手と向き合って立った。 周囲の草原はひっそりと眠っている。停車場から鐸の音が、ぴんぱんぴんぱんというように遠く聞える。丁度時計のセコンドのようである。セコンドや時間がどうなろうと、そんな事は、もうこの二人には用がないのである。女学生の立っている右手の方に浅い水溜があって、それに空が白く映っている。それが草原の中に牛乳をこぼしたように見える。白樺の木共はこれから起って来る、珍らしい出来事を見ようと思うらしく、互に摩り寄って、頸を長くして、声を立てずに見ている。 女学生が最初に打った。自分の技倆に信用を置いて相談に乗ったのだと云う風で、落ち着いてゆっくり発射した。弾丸は女房の立っている側の白樺の幹をかすって力がなくなって地に落ちて、どこか草の間に隠れた。 その次に女房が打ったが、やはり中らなかった。 それから二人で交る代る、熱心に打ち合った。銃の音は 木精 ( こだま ) のように続いて鳴り渡った。 その中女学生の方が先へ逆せて来た。そして弾丸が始終高い所ばかりを飛ぶようになった。 女房もやはり気がぼうっとして来て、なんでももう百発も打ったような気がしている。その目には遠方に女学生の白いカラが見える。それをきのう的を狙ったように狙って打っている。その白いカラの外には、なんにも目に見えない。消えてしまったようである。自分の踏んでいる足下の土地さえ、あるかないか覚えない。 突然、今自分は打ったか打たぬか知らぬのに、前に目に見えていた白いカラが地に落ちた。そして外国語で何か一言言うのが聞えた。 その刹那に周囲のものが皆一塊になって見えて来た。灰色の、じっとして動かぬ大空の下の暗い草原、それから白い 水潦 ( みずたまり ) 、それから側のひょろひょろした白樺の木などである。白樺の木の葉は、この出来事をこわがっているように、風を受けて囁き始めた。 女房は夢の醒めたように、堅い拳銃を地に投げて、着物の裾をまくって、その場を逃げ出した。 女房は人けのない草原を、夢中になって駈けている。ただ自分の殺した女学生のいる場所からなるたけ遠く逃げようとしているのである。跡には草原の中に赤い泉が涌き出したように、血を流して、女学生の体が横わっている。 女房は走れるだけ走って、 草臥 ( くたび ) れ切って草原のはずれの草の上に倒れた。余り駈けたので、体中の脈がぴんぴん打っている。そして耳には異様な囁きが聞える。「今血が出てしまって死ぬるのだ」というようである。 こんな事を考えている内に、女房は段々に、しかもよほど手間取って、落ち着いて来た。それと同時に草原を物狂わしく走っていた間感じていた、旨く復讐をし遂げたという喜も、次第に詰まらぬものになって来た。丁度向うで女学生の頸の 創 ( きず ) から血が流れて出るように、胸に満ちていた喜が逃げてしまうのである。「これで敵を討った」と思って、物に追われて途方に暮れた獣のように、夢中で草原を駆けた時の喜は、いつか消えてしまって、自分の上を吹いて通る、これまで覚えた事のない、冷たい風がそれに代ったのである。なんだか女学生が、今死んでいるあたりから、冷たい息が通って来て、自分を凍えさせるようである。たった今まで、草原の上をよろめきながら飛んでいる野の蜜蜂が止まったら、羽を焦してしまっただろうと思われる程、赤く燃えていた女房の 顳 ( こめかみ ) が、大理石のように冷たくなった。大きい 為事 ( しごと ) をして、ほてっていた小さい手からも、血が皆どこかへ逃げて行ってしまった。 「復讐というものはこんなに苦い味のものか知ら」と、女房は土の上に倒れていながら考えた。そして無意識に唇を動かして、何か渋いものを味わったように頬をすぼめた。しかしこの場を立ち上がって、あの倒れている女学生の所へ行って見るとか、それを介抱して 遣 ( や ) るとかいう事は、どうしてもして遣りたくない。女房はこの出来事に体を縛り付けられて、手足も動かされなくなっているように、冷淡な心持をして、時の立つのを待っていた。そしてこの間に相手の女学生の体からは血が流れて出てしまうはずだと思っていた。 夕方になって女房は草原で起き上がった。体の節々が狂っていて、骨と骨とが旨く食い合わないような気がする。草臥れ切った頭の中では、まだ絶えず拳銃を打つ音がする。頭の狭い中で、決闘がまたしては繰返されているようである。この辺の景物が低い草から高い木まで皆黒く染まっているように見える。そう思って見ている内に、突然自分の影が自分の体を離れて、飛んで出たように、目の前を歩いて行く女が見えて来た。黒い着物を着て、茶色な髪をして白く光る顔をして歩いている。女房はその自分の姿を見て、丁度他人を気の毒に思うように、その自分の影を気の毒に思って、声を立てて泣き出した。 きょうまで暮して来た自分の生涯は、ぱったり断ち切られてしまって、もう自分となんの関係もない、白木の板のようになって自分の背後から浮いて流れて来る。そしてその上に乗る事も、それを拾い上げる事も出来ぬのである。そしてこれから先き生きているなら、どんなにして生きていられるだろうかと想像して見ると、その生活状態の目の前に建設せられて来たのが、 如何 ( いか ) にもこれまでとは違った形をしているので、女房はそれを見ておののき恐れた。 譬 ( たと ) えば移住民が船に乗って故郷の港を出る時、急に他郷がこわくなって、これから知らぬ新しい境へ引き摩られて行くよりは、むしろこの海の沈黙の中へ身を投げようかと思うようなものである。 そこで女房は死のうと決心して、起ち上がって元気好く、 項 ( うなじ ) を 反 ( そら ) せて一番近い村をさして歩き出した。 女房は真っ直に村役場に這入って行ってこう云った。「あの、どうぞわたくしを縛って下さいまし、わたくしは決闘を致しまして、人を一人殺しました。」 それを聞いた役場の書記二人はこれまで話に聞いた事もない出来事なので、女房の顔を見て 微笑 ( ほほえ ) んだ。少し取り乱してはいるが、上流の奥さんらしく見える人が変な事を言うと思ったのである。書記等は多分これはどこかから逃げて来た女気違だろうと思った。 女房は是非縛って 貰 ( もら ) いたいと云って、相手を殺したという場所を 精 ( くわ ) しく話した。 それから人を遣って調べさせて見ると相手の女学生はおおよそ一時間程前に、頸の銃創から出血して死んだものらしかった。それから二本の白樺の木の下の、寂しい所に、物を言わぬ証拠人として拳銃が二つ棄ててあるのを見出した。拳銃は二つ共、込めただけの弾丸を皆打ってしまってあった。そうして見ると、女房の持っていた拳銃の最後の一弾が気まぐれに相手の体に中ろうと思って、とうとうその強情を張り通したものと見える。 女房は是非このまま抑留して置いて貰いたいと請求した。役場では、その決闘というものが正当な決闘であったなら、女房の受ける処分は禁獄に過ぎぬから、別に名誉を損ずるものではないと、説明して聞かせたけれど、女房は飽くまで留めて置いて貰おうとした。 女房は自分の名誉を保存しようとは思っておらぬらしい。たったさっきまで、その名誉のために一命を賭したのでありながら、今はその名誉を有している生活というものが、そこに住う事も、そこで呼吸をする事も出来ぬ、雰囲気のない空間になったように、どこへか押し除けられてしまったように思われるらしい。丁度死んでしまったものが、