The Narrow Road to the Deep North — Matsuo Bashō
おくのほそ道 素龍清書本 おくのほそ道 (本文9頁參照) [#改丁] 凡例 一 本書は『おくのほそ道』および門人曾良の『隨行日記』(ただし元祿二年九月一〇日以降の分は省略)を飜刻し、脚註を加えたものである。底本として前者は素龍清書本(福井縣 愛發 ( あらち ) 村、西村弘明氏藏)、後者は曾良自筆本(校註者藏)を用いた。兩者についての詳細は解説にゆずる。 一 飜刻にあたっては左の要領によった。 1 行移り・丁うつりは註しない。ただし、『おくのほそ道』は適宜章段を設け、その各に見出しをつけ、『隨行日記』では日附變更の個所をはじめ通讀に便と思われる個所は適宜改行する。また、本文の見出しの下に『隨行日記』の參照個所の所在頁數を入れて示す。 2 異體の文字は原則として通行のものに改める。『隨行日記』中の平假名・片假名の混用もできるだけ原本通りとするが、「ニ」「ハ」「ミ」等は原則として平假名にあつかう。 3 振り假名・清濁・句讀・會話文のカッコ等は校訂者によってほどこす。その際、原本に動詞の活用語尾を表記してないものは、活用語尾をも振り假名の中に含める。また『隨行日記』中に稀に見える濁點の表記はその右傍に(マヽ)と註記して區別する。 4 假名づかいは原文のままとし右傍のカッコ内に歴史的假名づかいを示すか、又は脚註に註記する。 5 『隨行日記』中の見せ消ちの部分は左傍にヒヒヒヒの符號をつける。また日記中の略圖と上欄に書き込まれた※ [#白い長方形、U+25AD、4-3] ※ [#垂直二等分線のある白い長方形、4-3] の符號は摸寫縮小して掲げる。鰭紙は貼られた場所をその行の上に で示し、その文言は本文中に の印をつけて示す。 一 註・解説は引用文以外現代假名づかいを用いた。また、註は紙幅の都合により最少限度にとどめた。その際、古註・新註の多くを參照引用したがその旨註記する餘裕がなかった。ここに謝意を表する次第である。 [#改丁] [#ページの左右中央] おくのほそ道 [#改丁] 冒頭 一 月日 ( つきひ ) は 百代 ( はくだい ) の 過客 ( くわかく ) にして、 行 ( ゆき ) かふ 年 ( とし ) も 又 ( また ) 旅人 ( たびびと ) 也 ( なり ) 。 舟 ( ふね ) の 上 ( うへ ) に生涯をうかべ馬の口とら え ( (へ) ) て 老 ( おい ) をむかふる 物 ( もの ) は、 日 ( ひび ) 旅 ( たび ) にして 旅 ( たび ) を 栖 ( すみか ) とす。 二 古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、 片雲 ( へんうん ) の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず海濱にさすらへ、 三 去年 ( こぞ ) の秋 四 江上 ( かうじやう ) の 破屋 ( はをく ) に 蜘 ( くも ) の古巣をはらひて、やゝ年も 暮 ( くれ ) 春 立 ( たて ) る霞の空に白川の關こえんと、 五 そゞろ 神 ( がみ ) の物につきて心をくるはせ、 道祖神 ( だうそじん ) のまねきにあひて 取 ( とる ) もの手につかず、もゝ 引 ( ひき ) の 破 ( やぶれ ) をつゞり 笠 ( かさ ) の 緒 ( を ) 付 ( つけ ) か え ( (へ) ) て、三里に灸す ゆ ( (う) ) るより松嶋の月 先 ( まづ ) 心にかゝりて、 住 ( すめ ) る 方 ( かた ) は人に讓り 六 杉風 ( さんぷう ) が 別墅 ( べつしよ ) に移るに、 草の戸も 住替 ( すみかは ) る 代 ( よ ) ぞひなの家 七 面八句 ( おもてはちく ) を 庵 ( いほり ) の柱に 懸置 ( かけおく ) 。 一 李白の春夜宴 二 諸從弟桃李園 一 序「夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客、而浮世若 レ 夢、爲 レ 歡幾何」(古文眞寶後集)による。 二 芭蕉の敬慕した古人達、西行は河内弘川寺に、宗祇は箱根湯本の客舍に、李白は潯陽(實は當塗)に、杜甫は洞庭湖畔にそれぞれ客死した。 三 貞享四年十月から翌五年(元祿元年)へかけて東海道・和歌浦・須磨・明石を旅し、八月信州更科をへて歸庵した。 四 隅田川のほとり深川六間堀の芭蕉庵。 五 「そゞろ」を副詞とする説もあるが、「そゞろ神……、道祖神……」と對句になっているので、「そゞろ神」を一語に扱う。 六 杉山氏元雅。通稱鯉屋市兵衞。蕉門。江戸小田原町住、幕府御用の魚問屋。別墅を「採荼(サイト)庵」といい深川六間堀にあった。享保一七沒、八六歳。 七 百韻を四枚の懷紙に書くとき、その第一葉(初折)の表に發句から八句までを書き、これを表八句という。この作品は傳存していない。 旅立 日記一〇二頁 一 彌生 ( やよひ ) も 末 ( すゑ ) の 七日 ( なぬか ) 、明ぼのゝ空 朧 ( ろうろう ) として、 二 月は 在明 ( ありあけ ) にて光 お ( (を) ) さまれる物から、 不二 ( ふじ ) の 峯 ( みね ) 幽 ( かすか ) にみえて、 上野 ( うへの ) 谷中 ( やなか ) の花の 梢 ( こずゑ ) 三 又いつかはと心ぼそし。 四 むつましきかぎりは 宵 ( よひ ) よりつどひて、舟に 乘 ( のり ) て送る。 五 千じゆと 云 ( いふ ) 所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪を 六 そゝく。 七 行 ( ゆく ) 春や鳥 啼 ( なき ) 魚 ( うを ) の目は 泪 ( なみだ ) 是 ( これ ) を 矢立 ( やたて ) の 初 ( はじめ ) として 行 ( ゆく ) 道な を ( (ほ) ) すゝまず。人 は途中に 立 ( たち ) ならびて、 後 ( うしろ ) かげのみゆる迄はと見 送 ( おくる ) なるべし。 一 三月二七日(陽暦五月一六日)。 二 「月は有明にて光をさまれるものから、影さやかに見えてなかなかをかしき曙なり」(源氏物語、箒木) 三 西行の仁安三年四國に旅する時加茂社に詣でての作、「かしこまるしでに涙のかゝるかな又いつかはと思ふ心に」(山家集) 四 ムツマシ・ムツマジ兩樣の讀みがあるが、古辭書類にある前者をとる。 五 千住。千壽とも。奧州街道第一番目の宿場。 六 「灑 洒ト同ジ。ソヽクト清テイフベシ、クノ字ヲ濁テソヽグトイフハ訛ナリ」(太宰春臺、倭讀要領、享保一三刊) 七 「羇鳥戀 二 舊林 一 、池魚思 二 故淵 一 」(陶淵明、歸 二 園田居 一 )によるか。 草加 日記一〇二頁 ことし 一 元祿 二 ( ふた ) とせにや、奧羽 長途 ( ちやうど ) の 行脚 ( あんぎや ) 只かりそめに思ひたちて、 二 呉天 ( ごてん ) に 白髮 ( はくはつ ) の 恨 ( うらみ ) を重ぬといへ 共 ( ども ) 、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、 若 ( もし ) 生 ( いき ) て歸らばと 定 ( さだめ ) なき 頼 ( たのみ ) の末をかけ、 其 ( その ) 日 漸 ( やうやく ) 三 早加と 云 ( いふ ) 宿 ( しゆく ) にたどり 着 ( つき ) にけり。 痩骨 ( そうこつ ) の肩にかゝれる物 先 ( まづ ) くるしむ。只身すがらにと 四 出立侍 ( いでたちはべる ) を、 紙子 ( かみこ ) 五 一衣 ( いちえ ) は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき 餞 ( はなむけ ) などしたるは、さすがに 打捨 ( うちすて ) がたくて 六 路次 ( ろし ) の 煩 ( わづらひ ) となれるこそわりなけれ。 一 西暦一六八九年。當時、芭蕉四六歳、曾良四一歳。 二 (ビン)僧可士の送 レ 僧詩「笠重呉天雪、鞋香楚地花」(詩人玉屑、禪林句集)によるか。 三 日記によればこの日は粕壁に泊っている。 四 旅裝をととのえるの意。デタチともいう。 五 「イチエ(ヒトツノコロモ)」(ロドリゲス大文典) 六 古辭書類にロシとあるによる。 室の八嶋 (神名帳六二頁 [#改行] 備忘録七八頁 [#改行] 日記一〇二頁 [#改行] 書留一五〇頁) 一 室 ( むろ ) の 八嶋 ( やしま ) に 二 詣 ( けい ) す。 同行 ( どうぎやう ) 三 曾良 ( そら ) が 曰 ( いはく ) 、「 此 ( この ) 神は 木 ( こ ) の 花 ( はな ) さくや 姫 ( ひめ ) の神と 申 ( まをし ) て 四 冨士 一躰 ( いつたい ) 也。 五 無戸室 ( うつむろ ) に 入 ( いり ) て 燒 ( やき ) 給ふちかひのみ中に、 火 出見 ( ほゝでみ ) のみこと生れ給ひしより 室 ( むろ ) の 八嶋 ( やしま ) と 申 ( まをす ) 。又 六 煙を 讀習 ( よみならは ) し 侍 ( はべる ) もこの 謂 ( いはれ ) 也。」 將 ( はた ) 七 このしろといふ魚を禁ず縁 記 ( (起) ) の 旨 ( むね ) 世に 傳 ( つた ) ふ事も 侍 ( はべり ) し。 一 下野國(栃木縣)下都賀郡國府村總社にある大神(オオミワ)神社。室八嶋明神とも。 二 マウズと訓讀する場合、芭蕉はつねに「詣つ」としている故、ここはケイスと讀む。 三 岩波庄右衞門正字。信州上諏訪の人。はじめ伊勢長島藩に仕え、河合氏の養子となって河合惣五郎といった。致仕して蕉門に入る。寶永七年五月二二日沒、六二歳。 四 富士山麓大宮市の淺間(センゲン)神社。 五 木花開耶姫が瓊々杵尊の疑を晴らすため無戸室に入り火をはなって火闌降(ホスソリ)命・彦火々出見尊・火明命を生んで尊の子であることを示したという神話(日本書紀)。ただし、その場所は笠沙で室の八嶋には後世附會されたもの。 六 備忘録所收の歌の外、例多し。 七 『慈元抄』等に見える傳説。このしろを燒く匂は人をやく匂に似ているという。 佛五左衞門 日記一〇三頁 一 卅日 ( みそか ) 日光山の 麓 ( ふもと ) に泊る。あるじの 云 ( いひ ) けるやう、「 我 ( わが ) 名を佛五左衞門と 云 ( いふ ) 。 萬 ( よろづ ) 正直を旨とする故に、人かくは 申侍 ( まをしはべる ) まゝ一夜の草の枕も 打解 ( うちとけ ) て休み給へ」と 云 ( いふ ) 。いかなる佛の 濁世塵土 ( ぢよくせぢんど ) に 示現 ( じげん ) して、かゝる 二 桑門 ( さうもん ) の 乞食 ( こつじき ) 順禮 ( じゆんれい ) ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、 唯 ( ただ ) 無智無分別にして正直 偏固 ( へんこ ) の者也。 三 剛毅木訥 ( がうきぼくとつ ) の 仁 ( じん ) に近きたぐひ、 氣稟 ( きひん ) の 清質 ( せいしつ ) 尤 ( もつとも ) 尊ぶべし。 一 日記によれば日光詣拜の後、四月一日のこと。しかもこの年は三月が二九日までで三〇日はない。 二 「腰間に寸鐵を帶びず、襟に一嚢をかけて手に十八の珠をたづさふ」(野ざらし紀行)、「一鉢境界乞食の身こそたうとけれとうたひに侘し貴僧の跡もなつかしく、猶このたびはやつし/\てこもかぶるべき心がけにて御座候」(元祿二年二月伊賀宛書簡)等芭蕉の文あり。 三 「子曰、剛毅木訥近 レ 仁」(論語、子路篇) 日光 (日記一〇三頁 [#改行] 書留一五〇頁) 一 卯月 ( うづき ) 朔日 ( ついたち ) 、 二 御山 ( おやま ) に詣拜す。 三 往昔 ( そのかみ ) 此 ( この ) 御山を 四 二荒山 ( ふたらさん ) と 書 ( かき ) しを、 五 空海大師 ( くうかいだいし ) 開基 ( かいき ) の時日光と 改 ( あらため ) 給ふ。 千歳 ( せんざい ) 未來 ( みらい ) をさとり給ふにや、今 此 ( この ) 御光一天に 六 かゝやきて 恩澤 ( おんたく ) 八荒 ( はつくわう ) にあふれ、四民 安堵 ( あんど ) の 栖 ( すみか ) 穩 ( おだやか ) なり。 猶 ( なほ ) 憚 ( はばかり ) 多くて筆をさし 置 ( おき ) ぬ。 七 あらた う ( (ふ) ) と青葉若葉の日の光 八 黒髮 ( くろかみ ) 山は霞かゝりて雪いまだ白し。 剃捨 ( そりすて ) て黒髮山に 衣更 ( ころもがへ ) 曾良 曾良は河合氏にして、惣五郎と云へり。 九 芭蕉の 下葉 ( したば ) に軒をならべて、予が 一〇 薪水 ( しんすゐ ) の勞をたすく。このたび松しま 象※ ( きさかた ) [#「さんずい+冩」、U+3D7C、13-上-10] の 眺 ( ながめ ) 共にせん事を悦び、 且 ( かつ ) は 羈旅 ( きりよ ) の難をいたはらんと、 旅立 ( たびだつ ) 曉 ( あかつき ) 髮を 剃 ( そり ) て 墨染 ( すみぞめ ) にさまをか え ( (へ) ) 、 一一 惣五を 改 ( あらため ) て宗悟とす。 仍 ( よつ ) て 一二 墨髮山の句 有 ( あり ) 。衣更の二字力ありてきこゆ。 廿餘丁山を登つて瀧 有 ( あり ) 。 岩洞 ( がんとう ) の 頂 ( いただき ) より飛流して百尺千岩の 碧潭 ( へきたん ) に 落 ( おち ) たり。岩窟に身をひそめ 入 ( いり ) て瀧の裏よりみれば、 一三 うらみの瀧と 申傳 ( まをしつた ) え ( (へ) ) 侍る也。 暫時 ( しばらく ) は瀧に籠るや 一四 夏 ( げ ) の 初 ( はじめ ) 一 陽暦五月一九日。 二 日光山五三代日光山座主天海が家康の廟を久能山よりここに移し、東照宮を造營。三代將軍家光の時(寛永一三年)改造今日のようになった。 三 音讀の場合はワウジャク。 四 補陀落山の音によった名稱。 五 實は延暦年間勝道上人の開基。空海は勝道の依頼をうけ「普陀洛山記」(遍照發揮性靈集)を書いたが、このことから後世空海の開基ならびに日光改稱の誤傳が生じたものであろう。 六 當時の文獻にはカガヤクと濁った例は見られぬ。 七 句型異同は書留脚註參照。 八 男體山。 九 「曾良何某此あたりちかく、かりに居をしめて朝な夕なにとひつとはる。我くひ物いとなむ時は柴を折くぶるたすけとなり、茶を煮夜はきた