The Singing Bone — R. Austin Freeman
犯罪編 おとなの論理的な頭では、とうてい分らないような人間のかくれた性格、そんなかくれたものを、おさなごや下等動物がわけもなく見破るという迷信は、かなり広くゆきわたっているようだ。そして彼らの判断を、経験を超越したすぐれたものとして、受けいれてしまうのである。 こんな迷信は人々がパラドクスを愛するところからくるのかどうか、そんな問題は問う必要がなかろう。これは社会一般の信念になっていて、ことにある階級の婦人たちに支持されているようだ。そして、トマス・ソリー夫人もそれをかたく信ずる婦人の一人なのである。 「ほんとなのよ、」と、かの女はいう。「小さい子供や、ものもいえぬ動物がよく知っていることは、じっさいびっくりするほどなの。だから子供や動物をだまそうたってだめなの。純金とにせの金を一目で見わけたり、人の心をすぐ見抜いたりするんだから、ほんとにふしぎなのよ。あんなのを本能というんでしょうか。」 そんな哲学的な、重大な言葉を、口からでまかせにしゃべりながら、ソリーのおかみさんは、ひじまでまくった両手を、石鹸の泡のなかにつっこんで、お客を見あげるのである。 お客のブラウンは、ひざのうえにむっちり肥った十八カ月の子供と、ぶちの猫をのせて、戸口に坐っていた。彼はほっそりした、小男の年寄の船乗りで、ものしずかで、相手のきげんをとることが上手で、そのかわり少々ずるいようなところもあった。船乗りにはよくこんな男があるが、彼も子供や動物がすきで、またそんなものによくなつかれもした。だからこそ、いま現に、歯のない口に火の消えたパイプを動かしながら坐る彼の膝のうえでは、子供はにこにこ笑い、体を丸めた猫は、ごろごろ喉を鳴らして、その足の指を、気持よさそうにうごめかしているのである。 「燈台は淋しいですよ。」ソリー夫人はいう。「たった三人きりで、お隣りがないんですからね。それに洗濯なんかする女が一人もいないんだから、着ている物がきたなくなるでしょうしね。それにこの頃は九時すぎまで起きていなくちゃならんから退屈でしょう。どんなことをしてお暮しになるのかしら。」 「することは沢山ありまさあ。」ブラウンはいう。「ランプを掃除したり、ガラスをふいたり、それから時にはペンキも塗らなければならんしね。そういえば、」顔をおこして時計をあおぎ、「もうぼつぼつ行かなくちゃならん。十時半に満潮だというのに、もう八時をすぎた。」 ソリー夫人は大急ぎで洗濯物をかきあつめ、それを綱のようにねじって絞って、エプロンで手をふき、もがく子供をブラウンの手からうけとった。 「部屋はかたづけときますからね、休みになったらいつでもおいでになって。トムと二人でお待ちしていますわ。」 「ありがとう。」ブラウンはそっと猫を下におろした。「また来るのを楽しみにしています。」 彼は夫人と握手すると、赤ん坊に接吻し、猫の喉をなで、小箱を先にぶらさげた紐を肩にかけて家をでた。 湿地を彼は通らねばならなかった。彼は地平線に見えるレカルヴァー沿岸警備出張所の奇妙な二つの建物を目標にして、航海する船のように歩きはじめた。歩きはじめるとトム・ソリーの飼っている羊がうつろな目で彼を見あげて、別れをおしむように鳴いた。溝の堰のところまでくると、立ちどまって広々としたケント州の景色をふりかえった。木立の上に聖ニコラスの灰色の塔がのぞき、はるかなサールの製粉所の車は、夏のそよ風をうけてゆるやかに回っていた。荒涼とした彼の生活に、しばしの憩いと、家庭的な温かみをあたえてくれた、いまでてきたばかりの家は、ひとしおなつかしかった。だが当分あすこへはいかれない。前には燈台がみえた。溜息をして彼はまた歩きだした。警備出張所の門をはいると、建物のほうへあるいた。 黒い煙突のある白い建物のそばで、旗竿の綱をなおしていた沿岸警備員の上役は、ブラウンをみると快活に話しかけた。 「おいでなすったな。立派な服をきているじゃないか。しかし、今朝はフィッタブルに集まらなくちゃならんので、人手もないし、船もだせんのだが――」 「そんなら泳いでわたるか?」ブラウンはいった。 警備員は笑った。 「まさか、そんな新しい服を着ていちゃあね。なんならウィレットの船を借りたらどうだい? あの男は今日娘に会いにミンスターへ行くといっていたから、船が一日あいてるわけだ。でも、船に乗って君といっしょに行ってくれる者はいないよ。ウィレットにはおれがよく云っとくけれどね。」 船乗りをしていたブラウンには、帆船をあやつる自信があった。 「人手はいらん。ちっぽけな帆船ぐらい平気だよ。おれは十の時から船を乗りまわしているんだから。」 「それはそうかもしらんが、誰が船をここまでとどけてくれるんだ?」 「むこうへ行きさえすれば、交代の男がその船で帰ってくるよ。誰だって泳ぐより、船のほうがよかろうじゃないか。」 警備員は望遠鏡で岸ちかく通りすぎる荷船を見ていたが、 「そんならいいだろう。燈台にボートぐらい用意してあるといいんだが。じゃ、ウィレットの船に乗っていって、すぐこちらへ返してくれたまえ。君もぐずぐずしてはいられないだろう。」 いいすてて、建物の裏にまわった彼は、まもなく二人の警備員をつれてかえった。四人で海岸へでてみると、ウィレットの船は、満潮線のちょっと上のところにひきあげてあった。 船の名は「エミリー」。一枚帆のマストを二本立てられるようになった、ニスを塗ったオーク材の美しい小船で、四人で押しだすには手頃の大きさだった。ごろごろ音をたてて、船は白堊の岩のうえを滑った。誰かが船底の砂嚢はとったほうがよかろうといったが、結局とらないまま水際に押していった。 警備員の上役は、船にマストをたてているブラウンに注意した―― 「満潮を利用しないとだめだよ。西北が吹いているから、船首を東北にむけて一息に突ききるんだ。でも燈台の東へでたら、引き潮になるとひどい目にあうよ。」 にやにや笑って聞き流しながら、ブラウンは帆をはってうちよせる波をみた。船がゆるやかな波にのった時、彼が櫂で岸を突くと、船底のきしる音がして、船は岸をはなれて海にうかんだ。彼は舵をさしこみ、船尾に坐って帆綱をむすびつけた。 「あら! 帆綱をむすびつけたぞ! あんなことをしたら危ないんじゃないかな。無事にウィレットに船を返してやらんと、もうしわけがないのだが。」 警備員の上役は、そんなことをいいながら、静かな海にしだいに遠ざかり行く船を見送った。それから他の者のあとをおって、建物のほうへ足をむけた。 燈台は、ガードラー砂州の西南のはしに、細長い紡錘のような形をして、鉄筋の脚で立っていたが、満潮にちかいので、砂州のいちばん高いところも水につかっていた。足の長い、赤いぶかっこうな鳥が立っているようにもみえれば、どれい船が航海の途中でえんこしているようにもみえた。 その燈台の手摺に、二人の男がよりかかっていた。いま燈台にいるのは、この二人だけなのである。一人は椅子にもたれて、右足の上に枕をおき、その上に左足をのっけていた。一人は手摺に望遠鏡をのぞけて、灰色の線をひいたような陸地や、二つの塔のたつ沿岸警備員の出張所をみていた。 「船はこないよ、ハリー、」と彼はいった。 椅子にもたれた男は唸るような声で、 「潮がひくかもしれん。また一日待ちぼうけだ。」 「バーチントンまでつれて行ってもらって、あすこから汽車にのったらどうだ?」 「汽車はごめんだ。船だって嫌なぐらいなんだもの。ほんとに船はこないの、ゼフリズ?」 ゼフリズは手で日光をよけて東を見ていたが、 「北からブリグ型の帆船がくるぜ。石炭船かしら。」望遠鏡をのぞいて、「前檣の上段トプスルの両がわに新しいカンヴァスを使っている。」 「トライスルには、どんなのをつけている、ゼフリズ?」熱心にきいた。 「よく見えん。」ゼフリズはこたえた。「分った分った。茶色だ。なんだ! あの船は『ユートーピア』だよ、ハリー。トライスルが茶色だったら、『ユートーピア』にきまってらあ。」 「ねえ、『ユートーピア』ならおれの町へ行くのだから、乗せてもらうよ。船長のモケットにたのめば乗せてくれると思うんだ。」 「そんなことをいったって、交代がこなくちゃだめだよ。交代がこないのに職場をはなれたら規則違反だ。」 「規則がなんだい! 規則よりおれの足のほうが大事だ。片輪にゃなりたくない。おれがここにいたってなんの役にもたたんのだし、交代のブラウンという男はどうせすぐくるにきまっている。ゼフリズ、たのむから旗をだしてあの船を呼びとめてくれ。」 「よし、君がそういうならしかたがない。だが、いっとくが、家に帰ることよりも、早く医者にみてもらうことだよ。」 旗のはいっている戸棚をあけて二つの旗をだし、それを紐にむすびつけた。船がまぢかになると、紐をひっぱって旗竿の先にそれをひるがえした。「援助をもとむ、」という信号だった。 まもなく、船のマストに石炭でよごれた信号旗がのぼり、それから船は速度をおとし、船首は潮の流れるほうへむけたまま、燈台のほうへあとがえりしだした。そして適当な距離に接近すると、二人の男がボートにのってきだした。 「おおい! どうしたの?」 声が聞えるようになると、ボートの一人が叫んだ。 「ハリーが足を折ったんだ。」燈台守が答えた。「モケット船長にたのんで、フィッタブルまで乗せてかえってくれ。」 ボートはまた船まで漕いでかえった。そして大声で相談していたがまた燈台のほうへ漕いできだした。 「船長が承知した。潮がひくと困るから急いでくれ。」ボートの男は大声でどなった。 負傷した男は安堵の溜息をもらした。 「ありがたい。しかし梯子はおりられないんだが、どうして下へおりたもんだろう。ゼフリズ?」 「滑車でおりるんだね。君は綱の輪に腰かけていたらいい。揺れるようだったら、もう一本綱をおろしてやるよ。」 「そんならそうしよう。しかしゆっくり綱をおろしてくれよ。」 ボートが鉄筋の脚に横づけになる頃には、すべての準備ができていた。綱の端に坐る彼は、滑車のきしる音に合せてなにやらどなりながら、大きな蜘蛛のようにぶらさがっておりた。彼の持物をいれた箱と袋もあとから綱でおろした。そんなものを収容したボートは、船にこぎかえるとまた彼やその持物を綱でつりあげ、それからブリグ型の石炭船は、ケントの浅瀬を南へむけて走りだした。 ひとりになったゼフリズは、手摺のそばによって、船の人声の聞えなくなるまで見送った。だんだんその船は小さくなった。やかましい仲間がいなくなると、燈台が急にひっそりと、物淋しくなった。沖からの船はすでにプリンシズ海峡を通ってしまって、どちらをむいても静かな眺めだった。ガラスのように光る遠くの浅瀬に黒点のように浮ぶ浮標や、目に見えぬ砂州に立つ紡錘形の標識は、船のいない海を、いっそう淋しいものにしているように思われた。風に乗ってかすかに流れてくるシヴァリング砂州の浮標のベルの音が、ものうく、悲しげにひびいた。すでに彼は一日の仕事をすましていた。霧笛のモーターは掃除をすまし、油をさしていた。レンズは磨き、ランプの掃除もすんでいた。むろん、燈台のことだから、まだ小さい仕事はないことはなかった。だが、今のゼフリズは仕事に手を出す気にはなれなかった。今日は見知らぬ新参の燈台守がやってくる。これから長い間、日となく夜となく、その男といっしょに暮すのだから、その男の性格や趣味や習慣によっては、よい仲間ともなろうし、朝から晩まで腹を立てていなければならぬ仲間ともなろう。ブラウンというのはどんな男だろう? いままでなにをやっていたのだ? どんな顔の男なのだ? むりもないことだが、彼はいつもの仕事もそっちのけに、そんなことばかり考えた。 だしぬけに陸のほうの水平線に、黒い点のようなものがあらわれた。望遠鏡をとって熱心に彼はそれを見つめた。やっぱり船だった。だが、彼の待ちうけている警備員の船ではなく、漁船にちがいなかった。しかもそれに乗っているのは一人だけだった。がっかりして彼は望遠鏡をしたにおいた。そしてパイプに煙草をつめて手摺にもたれかかり、喪心したようにぼんやりと灰色の陸の線をみつめた。 三年間も彼はこの孤独な生活をつづけたが、活動好きの彼にとって、それは好ましい生活ではなかった。三年間も彼はなにも考えず、無限につづく夏のなぎ、冬の夜の暴風雨と冷たい霧をむかえた。霧の夜はこちらから霧笛を鳴らし、見えない船からも不気味な汽笛がきこえた。 どうしてこんな神に見はなされた場所へ彼はきたのだろう? 広い世間が彼を呼ぶのに、どうして彼はここを去らないのだろう? 彼の頭のなかに一つの光景がよみがえった。時々思いだす光景が、また頭によみがえって、目の前の静かな海や、はるかな灰色の陸地を消してしまった。それは極彩色の絵だった。深い青い熱帯の海のうえには、一片の雲も浮んでいなかった。その絵のまんなかに、一つの白塗りのバーク型の帆船が、ゆるやかな波のうねりに浮きつ沈みつしながら進んでいる。 だらしなく帆をひっぱりあげて、綱がゆるんでいるので、帆桁はぐらぐら動き、誰も握っていない舵輪は、舵がゆれるごとに、ひとりでに回っていた。 しかし無人の船ではなかった。十人以上の人がデッキにみえるが、みな眠ったり、酔っぱらっていたりして、まじめな人の姿は一人も見られない。しかも、水夫ばかりで、指揮するものがなかった。 つぎに彼の前に現れたのは船室の光景だった。海図をいれる棚や、コンパスや、クロノミーターがみえるから、船長室にちがいなかった。そこに男が四人いた。二人はすでに死んで倒れている。生きている二人のうちの、小柄でずるげな顔の男は、しゃがんで死人の服でナイフの血をぬぐっている。第四の男は彼自身だった。 つぎに彼の見た幻は、彼ら二人が、酔っぱらいどもの船を見すてて、こっそりボートで脱走する光景だった。船は大波のたち騒ぐ砂州にむかって漂流していた。だが、次の瞬間、太陽にあたった氷のつつらのように [#「つつらのように」はママ] 、波にのまれて消えてしまう。そして、船を見すてた彼ら二人は、まもなく大きい船に救いあげられ、アメリカの港に上陸する―― それが、彼のこんな燈台守となった理由なのである。殺人を犯したからこんなところにいるのだ。もひとりの悪党、トッドは彼を裏切り、彼を悪しざまにいいふらした。一時はどうなることかと気をもんだが、彼はあやうく逃亡してことなきをえた。それいらいゼフリズはずっと世間から隠れつづけ