Critique of Practical Reason — Immanuel Kant
実践理性批判 カント 転記についての注記: 電子書籍用の表紙画像は、本書のこの電子版を作る際に新たに作り直し、制約なしに使える形(パブリックドメイン)にしてある。 本版の行番号は灰色の枠で示してあり、初版の頁番号は太字で組んである。正書法の不統一は直していないが、編者の後記に挙がっていない明らかな誤記だけは幾つか直してあり、その変更は文書の末尾にまとめてある。 実践理性批判 カント全集 プロイセン王立学術アカデミー編 第五巻 第一部門 著作 第五巻 ベルリン ゲオルク・ライマー社印刷・発行 1913年 カント著作集 第五巻 実践理性批判 判断力批判 ベルリン ゲオルク・ライマー社印刷・発行 1913年 本巻の内容目次 実践理性批判 著 イマヌエル・カント 序言 思弁的理性との並行を考えれば前者の題が要るように見えるのに、この批判がなぜ純粋実践理性の批判ではなく端的に実践理性一般の批判と題されるのか、その理由はこの著作が十分に解明する。この著作が示そうとするのはただ、純粋実践理性が存在するということだけであり、その意図のもとで理性の実践的能力を全体にわたって批判する。それに成功すれば、理性がそうした純粋な能力を掲げて単なる僭称のうちに自らを踏み越えていないかを見るために、その能力そのものを批判する必要はない(思弁的理性の場合には、おそらくそういうことが起こる)。というのも、純粋理性が現に実践的であるなら、理性は行いのうちに自らの実在性と自らの概念の実在性を証明するのであり、実践的でありうる可能性に逆らって理屈をこねても、すべて無駄に終わるからである。 この能力とともに、超越論的自由もいまや、思弁的理性が原因性の概念を用いる際に二律背反から身を守るために必要としたあの絶対的な意味において確立する。原因結合の系列のうちに無条件者を考えようとすれば、思弁的理性は必ずこの二律背反に陥る。もっとも思弁的理性は、この自由の概念を蓋然的に、すなわち考えても不可能ではないものとして立てうるにとどまり、それに客観的実在性を確保するには至らなかった。そこで狙われていたのはただ一つ、少なくとも考えうるものとして認めざるをえないものを不可能だと称する主張に本質を突かれ、懐疑論の深淵へ突き落とされずに済むことであった。 自由の概念は、その実在性を実践理性の必当然的法則が証明するかぎりで、いまや純粋理性の、それどころか思弁的理性の体系という建物全体を支える要石をなす。他のあらゆる概念、すなわち神と不死の概念は、思弁的理性のうちでは支えを持たない単なる理念にとどまるが、それがいまや自由の概念に結びつき、この概念とともに、またこの概念を通じて、存立と客観的実在性を得る。つまり神と不死が可能であることは、自由が現実にあるという事実が証明する。この自由の理念は、道徳法則を通じて自らを開示するからである。 とはいえ自由は、思弁的理性のあらゆる理念のうちで唯一、我々が洞察はしないままにその可能性をアプリオリに知っているものである。自由は、我々が現に知っている道徳法則の条件[1]だからである。これに対して神と不死の理念は道徳法則の条件ではなく、この法則が規定する意志にとって必然的な対象の条件、すなわち我々の純粋理性を単に実践的に使用することの条件でしかない。したがって我々はこれらの理念について、その現実性を認識し洞察したとは主張できず、それどころかその可能性についてさえ主張できない。それでもなお神と不死の理念は、道徳的に規定された意志を、それにアプリオリに与えられた対象(最高善)へ適用するための条件である。したがって我々は、理論的に認識し洞察することのないままに、この実践的な関わりのうちで両者の可能性を想定できるし、想定しなければならない。この後者の要求については、実践的な意図のもとでは、両者が内的な不可能性(矛盾)を含まないというだけで足りる。ここにあるのは、思弁的理性と比べれば単に主観的でしかない、真と認めるための根拠であり、それでもこの根拠は、同じく純粋でありながら実践的である理性にとって客観的に妥当する。この根拠は自由の概念を介して、神と不死の理念に客観的実在性と権限を、それどころかこれらの理念を想定する主観的必然性、すなわち純粋理性の要求までも与える。そのために理性が理論的認識において拡張されるわけではなく、以前は問題でしかなかった可能性がここで断定になる、その可能性が与えられるだけであり、こうして理性の実践的使用が理論的使用の諸要素と結びつく。しかもこの要求は、思弁における任意の意図から出た仮言的な要求ではない。思弁のうちで理性使用を完成へ引き上げようとするなら何かを想定せよ、というたぐいのものではないのである。そうではなく、何かを想定せよと命じる法則的な要求である。人は自分の行いと差し控えの目的をどうしても立てねばならないが、その想定がなければ、その目的は成り立たないからである。 もちろん我々の思弁的理性にとっては、こんな回り道をせずにあの課題を自力で解き、その洞察を実践的使用のために取っておくほうが満足がいくだろう。だが我々の思弁の能力は、そこまで恵まれてはいない。そうした高い認識を誇る者たちは、それを出し惜しみせず、公衆の前に示して吟味と評価に委ねるべきである。彼らは証明したいというのだから、よろしい、ならば証明するがよい。そのときは批判が、勝者である彼らの足もとに武具一式を投げ出す。Quid statis? Nolint. Atqui licet esse beatis.。——ところが彼らは実際には望まないのであり、おそらくはできないからであろう。だから我々はやはりあの課題を再び手に取り、思弁がその可能性を十分に保証できない神・自由・不死の概念を、理性の道徳的使用のうちに求め、そこに基礎づけるほかない。 ここではじめて、思弁における範疇の超感性的使用には客観的実在性を認めないのに、純粋実践理性の客体に関してはその実在性を範疇に認めうるのはなぜか、というあの批判の謎も解ける。実践的使用を名前だけしか知らないうちは、これは首尾一貫しないと見えざるをえないからである。だが実践的使用を余さず分解すれば、いま言った実在性が範疇の理論的規定も認識の超感性的なものへの拡張もまったく目指してはおらず、ただこの関わりのうちで範疇に必ず対象が備わるという意味でしかないことに気づく。範疇は必然的な意志規定のうちにアプリオリに含まれるか、あるいはその意志規定の対象と切り離しがたく結びついているからである。これに気づけば、範疇という概念を思弁的理性の要求するのとは別の仕方で使うことになるので、さきの不一貫は消える。そればかりか、思弁的批判の首尾一貫した考え方には、以前にはほとんど期待できなかったきわめて満足のいく確証が、かえってここで開ける。思弁的批判は、経験の対象それ自体を、そしてそのうちには我々自身の主観をも、現象としてしか認めてはならないが、それでもその根底には物自体を置かねばならない、したがって超感性的なものをすべて作り話と見なし、その概念を内容の空虚なものと見なしてはならないと説いた。ところがいま実践理性は、思弁的理性と示し合わせもせずに独力で、原因性という範疇の超感性的な対象、すなわち自由に実在性を与える(もっとも実践的概念としてであり、実践的使用に限ってのことではあるが)。こうして実践理性は、思弁的批判のもとでは考えることしかできなかったものを、一つの事実によって確証するのである。同時にここで、思考する主観でさえ内的直観のうちでは自分自身にとって単なる現象にすぎないという、奇妙ではあるが争いようのない思弁的批判の主張も、実践理性批判のうちで十分な確証を得る。しかもその確証は、たとえ思弁的批判がこの命題をまったく証明していなかったとしても、人はこの命題に行き着くほかないというほどに強い[2]。 これによって私にも、これまで目にした批判への反論のうち最も重いものが、ちょうど二つの蝶番をめぐって回っている理由が分かる。一つは、ヌーメノンへ適用された範疇の客観的実在性を、理論的認識では否認しながら実践的認識では主張するという点である。もう一つは、自由の主観としては自分をヌーメノンとし、同時に自然に関しては自分自身の経験的意識のうちで自分を現象とせよ、という逆説めいた要求である。道徳性と自由について規定された概念をまだ持たないうちは、一方では現象と称されるものの根底にヌーメノンとして何を置こうとするのか、他方ではそもそもヌーメノンの概念を作りうるのかどうかを、言い当てようがなかった。純粋悟性の概念をすべて、理論的使用においてもっぱら単なる現象へ割り当ててしまったあとでは、なおさらである。この誤読をすべて取り除き、批判の最大の長所にほかならない首尾一貫した考え方を明るみに出せるのは、実践理性の詳しい批判だけである。 すでに固有の批判を受けている純粋思弁的理性の概念と原則を、この著作で折にふれてもう一度吟味にかけるのはなぜか、その弁明はこれくらいにしておく。これは、これから打ち立てる学問の体系的な歩みから見れば本来ふさわしいことではない(裁定の済んだ事柄は引き合いに出すだけでよく、蒸し返すべきではないからである)。それでもここでは許され、いや必要でさえあった。理性がこれらの概念を携えて、あちらで与えたのとはまったく別の使用へ移っていく、その移行のうちで理性を見るからである。だがこうした移行があれば、新しい軌道を以前の軌道からはっきり区別し、同時に両者の連関に気づかせるために、古い使用と新しい使用との比較が必要になる。だからこの種の考察を、とりわけ自由の概念へ、しかも純粋理性の実践的使用のうちであらためて向けた考察を、挿入物のように見てはならない。思弁的理性の批判的体系に空いた穴を埋め(あの体系はその意図から見れば完結している)、急ごしらえの建物にありがちなように、あとから支柱や控え壁を付け足すためだけのものではない。そうではなく、これらの考察は、あちらでは蓋然的にしか思い描けなかった概念を、いまは実在的な叙述のうちで見て取らせるべく、体系の連関を目に見えるようにする真の項なのである。この注意はとりわけ自由の概念に関わるが、この概念については、自由を心理学的な関わりのうちでしか見ていないのに、自由をすっかり見通しその可能性まで説明できると誇る者がなお大勢いることを、奇妙に思いながら見て取るほかない。もし彼らが先に自由を超越論的な関わりのうちで精しく考量していたなら、蓋然的概念としての自由が思弁的理性を余さず使用するうえで欠かせないことも、自由がまったく捉えがたいものであることも認識したはずである。そのうえで自由を携えて実践的使用へ進んだなら、実践的使用の原則について、ふだんならなかなか認めたがらないまさに同じ規定へ、おのずと行き着いたはずである。自由の概念は、あらゆる経験論者にとってつまずきの石であるが、批判的な道徳論者にとっては最も崇高な実践的原則への鍵でもあり、彼らはこの鍵によって、自分たちが必然的に理性的な手続を取らねばならないと見て取る。それゆえ読者には、分析論の終わりでこの概念について述べることを、走り読みで見過ごさないよう請う。 ここで純粋実践理性の体系をその批判から展開するにあたり、とりわけ体系の全体を正しく描き出せる正しい視点を外さずにすむのに苦労が多かったか少なかったか、その判断はこうした仕事に通じた人々に委ねるほかない。この体系はたしかに『道徳形而上学の基礎づけ』を前提とするが、それはあの書が義務の原理をひとまず知らせ、その一定の定式を示して正当化する[3]、という限りにおいてであり、それ以外の点ではこの体系はそれ自体で成り立つ。思弁的理性の批判がしたように、完全を期して実践的な学問すべての区分を添えることはしなかったが、その正当な根拠もまた、実践理性というこの能力の性質のうちに見いだせる。というのも、義務を区分するために人間の義務として個別に規定することが可能になるのは、この規定の主観(人間)を、義務一般に関わる範囲で足りるとはいえ、その現にある性質に即してあらかじめ認識したときだけだからである。だがそうした認識は実践理性一般の批判には属さない。この批判は、人間の本性へ特に関わることなく、実践理性の可能性と範囲と限界の原理だけを余さず示すべきものだからである。だから区分はここでは学問の体系に属するのであって、批判の体系には属さない。 『道徳形而上学の基礎づけ』には、真理を愛する鋭い、それゆえつねに尊敬に値する評者がいた。あの書では善の概念を、彼の考えでは必要であったはずの仕方で道徳的原理より先に定めていない[4]、というのが彼の反論であり、これには分析論の第二章で応えたつもりである。同じように、真理を突き止めたいという意志をのぞかせる人々から私の手もとに届いた、ほかの幾つもの反論にも心を配った。自分の古い体系しか眼中になく、何を是とし何を非とするかを前もって決めている者は、自分の私的な意図の邪魔になりうる究明など、そもそも求めていないからである。今後も私はこの態度を守るつもりである。 人間の心がもつ特殊な能力を、その源泉と内容と限界に即して規定するのであれば、人間の認識の本性からして、その能力の諸部分から、しかもその精確で、(すでに得られた要素の現状が許すかぎり)完全な叙述から始めるほかない。だが、より哲学的で建築術的な、もう一つの注意すべき点がある。全体の理念を正しく捉え、純粋な理性能力のうちで全体の概念から諸部分を導き出すことによって、それらの部分を互いの関わりのうちに見て取ることである。この吟味と保証を果たしうるのは、体系に最も深く親しんだ者だけである。第一の探究にうんざりし、その親しみを得るだけの労を惜しんだ者は、第二の段階、すなわち先に分析的に与えられたものへ総合的に立ち返る見晴らしには届かない。そういう者がいたるところに不一貫を見つけても不思議はないが、その不一貫を疑わせる欠落は、体系そのものにではなく、ただ彼ら自身の脈絡を欠いた思考の歩みのうちにあるのである。 この著作については、新しい言葉づかいを持ち込もうとしているという非難をまったく心配していない。ここでは認識の仕方がおのずと通俗性へ近づくからである。先の批判についても、ざっと繰るだけでなく考え抜いて読んだ者なら、この非難は誰の頭