Death Was Never the Enemy — A Night in the Corridor — Epoche C2
場面設定: 夜の病院、死にゆく旧友ダニエルの病室の前の廊下。集中治療室への移送を命じたばかりの集中治療医ヴェラと、緩和ケアを担う医師アデイェミ。二人とも、その患者を四十年来の友として知っている。当直の看護師が、二人の決断を待っている。 集中治療室の病床は、もう押さえた。班も呼んである——二十分後に、ダニエルを移す。腎臓は落ちかけているが、透析(とうせき)で時間は稼げる。敗血症の先回りさえできれば、活路はあるんだよ。そんな目で、私を見ないでおくれ、アデイェミ。私だって、彼とは四十年の付き合いだ。愛する男が、手を尽くしもされずに、指の間からこぼれ落ちていくのを、廊下で能書きを垂れながら、ただ突っ立って見ている気は、ないんだ。まだ、できることが、ある。だから、やる。 できることなら、いつだって、ある、ヴェラ。それが問いだったことは、一度もない——それが、罠なんだ。機械の打つ手が尽きる地点なんて、ありはしない。あるのは、私たちが手を打つのを、やめるべき地点だけだ。透析で時間は稼げる、ああ——人工呼吸器につながれ、鎮静をかけられ、管を抜かぬよう両手を縛られて、自分がそこにいることも知らぬ部屋で、死んでいく時間が、な。君が問うているのは、『できるか』じゃない。『やめる勇気があるか』だ。そして君は、その、もっと辛い問いを聞かずに済むよう、病床を押さえることで、答えてしまった。ダニエルは、自分の人生の終わりを、何であってほしいと、思っているんだ? ダニエルは、生きたいのさ——それが、死にゆく者の望みだ。死がまだ机上の空論だった、穏やかな昼食の席で、何と言っていようとね。君は、その場にいなかった。私の父が、『大げさな延命は要らん』と手を振っておきながら、いざその時が来ると、私の手首を握りしめて、『何でもしてくれ』と、すがったときに。人は、実際に溺れはじめるまで、安らかな死を、美化する。そして溺れはじめれば、体じゅうの細胞が、もう一日を、と叫ぶんだ。私の仕事は、その一日を、与えること。希望は、贅沢品じゃない、酸素なんだよ。君の『手放しなさい』は、病床の足元からは、実に穏やかに聞こえる。失いつつある体の、内側からは、穏やかじゃ、ないんだ。 君は今、最も深いことを、自分自身に逆らって、口にしたよ。ああ——体は、もう一日を、と叫ぶ。だが、問いは、私たちがその叫びに仕えるのか、それとも、その人に仕えるのか、だ。溺れる者は、助ける者によじ登って、二人もろとも沈める。私たちは、それを、愛を尊ぶこととは、呼ばない。ダニエルは、この春、はっきりした目で、私たち二人に告げた——管は要らない、集中治療室は要らない、叶うなら、家で、と。君はそれを、健やかな者の、世間知らずな言葉として、扱っている——だが彼は、五十年、医者だったんだ。まさにこの廊下を、千回、見てきた人だ。彼は、死を美化していたんじゃない。この病院で、君がこれから彼に何をしようとしているかを、寸分たがわず知っていた、ただ一人の人間だった。そして彼は、君に、そうしないでくれ、と頼んだのさ。 では、もし、彼が間違っていたら? 私たちは、患者が拒むのを、認める。ああ——だが、私たちは、こうも知っている。昼に死にたいという意志は、真夜中に死にたいという意志とは、別物だ。事前指示書というのは、まだ痛んでいない自己が、これから痛むことになる自己に代わって、書くものなんだ。私は、まさにこの瀬戸際から、引き戻した人々を、見てきた——孫の結婚式に、最後の良い夏に、涙を流して感謝した人々をね。もし私が、彼の春の手紙に、一字一句従って、それでいて彼が、あの夏を望んだはずだったなら——私は、彼自身の署名で、彼を殺したことに、なる。君は、私の病床を、逃避と呼ぶ。私は、君のその確信を、取り返しのつかぬ唯一のものを賭けた、博打(ばくち)と呼ぶよ。 それは、本当の重みだ。軽いふりは、しない——時に、その救命が、良い一年を、買うこともある。そして、どちらの時になるかは、前もっては、分からない。だが、今夜、現に卓上にあるものを、ごらん——良い一年では、ない。班自身の数字が、彼に与えるのは、数日だ。人工呼吸器につながれ、意識もなく、そして、彼がどんな代償を払っても要らないと告げた人生へ、その治療室から生きて出られる見込みは、何分の一かの、細い細い糸。君が秤(はかり)にかけているのは、夏と、春の手紙じゃない。管につながれた、目の見えぬ数日と——彼が、自分の病床で、今宵まだ、娘に別れを告げられるほど、頭のはっきりしたまま死ねる機会とを、秤にかけているんだ。その上乗せの治療は、彼に、命を買ってやるんじゃない。より惨めな死を買い、この、たった一つの良い夜を、奪うのさ。 君は『より惨めな死』と、まるでそれがはっきり見えるかのように言うが、君だって、当て推量だ。もしかすると、透析で頭が晴れて、目の見えぬ一日ではなく、頭のはっきりした一週間に、なるかもしれない。医療は、火曜に『死ぬはずだった』患者が、金曜に娘の誕生日カードに署名している話で、満ちている。それに、君が、その尊厳の話の中で、ずっと跨いでいくものがある、アデイェミ——家族だ。彼の娘は、今まさに、飛行機の中だ。もし私が、今夜、彼を逝かせて、彼女が着いたときには冷たくなった手しかなく、たった一言を告げる機会を祈りながら、空を半周してきたのだとしたら——私は、彼女がその場にいられなかった安らかな死を、私たちが選んだのだと、どう告げればいい? 時に、目の見えぬ数日は、彼のためじゃない。生きている者が、手放せるようになるための、橋なんだ。 さあ、君は、私が脇へ押しやれぬことを、言った。それは本当のことで、私たちが嘘をついている部分だからだ——終わりに際して私たちのすることの多くは、患者のためではなく、家族のためで、私たちはそれを『闘い』という言葉の裏に、隠している。だが、自分の言ったことを、よく聞け——君は今、被告人を、すり替えた。ついさっき、その管は、ダニエルの、生きる機会のためだった。今や、それは、娘の悲しみのための、橋だ。それは、別の手当てであって、別の、正直な形を、とるべきなんだ。もし、その数日が彼女のためなら、彼女に、そう言いなさい——『お父さまの体を、あなたが着くまで、呼吸させ続けることはできます。でも、彼は、旅立とうとしている。問題は、あなたが、鎮静された機械に会うのか、それとも、死にゆくことを許された一人の人間に、会うのか、です』と。彼女の飛行機のために、病床を空けておきたいなら、おき。だが、それは、闘いとしてではなく、看取(みと)りとして、だ。娘の別れを、人工呼吸器で着飾らせて、それを治療と、呼んではいけない。 そうかもしれない。だが、君は『死にゆくことを許される』を、さも優しげに響かせるが、ああいう夜の真実を、君は知っているはずだ。治療室なしで、君が彼に差し出すのは、正確には何だ——静かな部屋と、一筋のモルヒネと、私たちの手か。午前四時に、息苦しさが襲ってきて、彼が、怯えて、あえいでいるとき、君の尊厳に、答えはあるのか。より多い投与量、以外に——そしてそれは、私たちが声に出して言わない、それ自体が一つの、緩慢な幕引きだ。少なくとも、私の機械は、その苦しみに対して、何かをする。君は、私が分別を越えて死と闘っている、と責める。私は、君を、降伏を安らぎと着飾らせて、怯えた男に、機会の代わりに、鎮静剤を手渡している、と責めることもできるんだよ。なぜ、君のモルヒネは正直で、私の透析は、虚栄なんだ? それは、二つが、別の問いに答えているからだ。そこに、すべてがある。君の透析は、『どうやって体を、動かし続けるか』に答える。私のモルヒネは、『体が、すでに、取り返しなく、やりつつあることを、やり遂げる間、どうやってその苦しみを、堪えられるものにするか』に答える。私は、機会の代わりに、鎮静剤を渡しているんじゃない——機会は、もう、ない。班自身の数字が、そう言っている——そして、残されたただ一つの決めごとは、彼の最後の時間が、恐怖と拘束の中で過ごされるのか、それとも、安らぎと、寄り添いの中でか、だけなんだ。死を和らげることが、死を早めることへと、滲(にじ)みうる、という君は、正しい。そして、その一線は、恐れとともに歩まれねばならず、都合のために、決して越えてはならない。だが、溺れる男に、溺れるのをやめさせるモルヒネを、ただ溺れを長びかせるだけの透析と、取り違えては、いけない。一方は、彼に仕える。もう一方は、私たちが、やめられないことに、仕えているのさ。 君は『数字が』と、言い続ける。まるで、図表の傾きが、一つの魂を、決着させるかのように。私は五十年、まさにその確信を、疑ってきたんだ——外れると分かる、なめらかな予後。一人の人間だった、その百分率。医療が、ある命が守る価値を失う、その瞬間を読める、と決め込む日は、私が、自分自身の病床のそばに、もう医療を信じなくなる日さ。今日は、ダニエルの、目の見えぬ数日に、金を出さない。だが、同じ算術が、より冷たい年には、認知症の人は金がかかりすぎる、障害のある人は見込みが薄すぎる、と決める。私は、ただ彼のために、闘っているんじゃない。一人の男を見て、その残りの日々を、手間をかける値打ちがない、と裁いた医者には、ならないと、拒んでいるんだ。君は、いったいどこから、その一線を引く、肝(きも)を、持ってくるんだ? 君が、それを越える肝を持ってくる、まさに同じ場所からさ——そして、私はそれを、毎度、恐れとともに引く。自分が間違っているかもしれない、と知りながらね。君が、その見張りを立てるのは、正しい。制度が、ある命を、費用や都合で『守る価値があるか』と決めはじめた瞬間、それは、一つの戦慄(せんりつ)になる。そして、それを試みる者があれば、私は、その壁のところで、君と並んで、立つよ。だが、よく見てくれ——私は、ダニエルの日々を、無価値だと裁いては、いない。彼が、そう裁いたんだ。それが、君の恐れる深淵から、私たち二人を救う、違いなんだよ。その一線は、私が図表を読んで引くのでも、君が自分の恐怖を読んで引くのでもない——それは、彼が、まだ自分の声を持っているうちに、その声で、引くんだ。私の仕事のすべては、いつ命が守る価値を持つかを、決めることじゃない。それが、もはや救えなくなったとき、その命の持ち主が、なお、その終わりを、自分で書けるように、することなのさ。 (長い沈黙)……彼は、はっきり、そう言った、ね。大げさな延命を、漠然と手で払ったんじゃない——人工呼吸器を、名指しした。この病棟を、名指しした。あの拘束を、名指しした。私は、彼を失うまいとするのに、あまりに必死で——自分が、ダニエルのために闘っているのか、それとも、自分自身の悲しみに抗って闘っているのか、ついぞ、問わなかった。私が押さえた、あの病床——あれは、私のために、押さえたんだと、思う。私が、何もかもやり尽くした、と思えるように。彼の娘と、そして鏡に向かって、もう試せることは何も残っていなかった、と言えるように。あれは、酸素じゃ、ない。あれは、私が、自分の、堪えがたいものを、なんとかするために、彼の体を、使っているんだ。 そして、それが、今夜この廊下で語られた、最も正直なことだ。最も勇気のあることで、私は、そのために、君を、愛(いと)おしく思うよ。私たちは、彼らを失うように、出来ちゃいない。私たちの修業のすべてが、この時に対する、戦(いくさ)であって、それは私たちに、降伏のための祈祷文(きとうぶん)を、機械のほかには、何一つ、遺してくれなかった。だが、もう一つ、できることがある。病床より難しく、そして、より真実なことが。私たちは、入っていける——彼を四十年、愛してきた、二人で。そして、一時間だけ、彼の医者であるのを、やめて、彼の友人で、いられる。手袋を外して、彼の両手を握り、こう告げられる——あなたを、心地よく、怖くないように、保ちます。娘さんは、向かっています。そして、あなたは、逝っていいんですよ、と。それは、無では、ない、ヴェラ。それは、私たちの持つ、最後の、そして最良の薬であって、私たちにしか、与えられない。なぜなら、この建物の中で、彼が患者になる前の彼を知っていたのは、私たちだけ、だからだ。 なら、病床を、取り消す——私自身の手で、やる。私の指示を解くのは、私の声でなければ、ならない。でも、あの中で、私と一緒に、いておくれ、アデイェミ。私は、一生をかけて、機能しなくなった腎臓に何をすべきかは、知り尽くしたが、死にゆく友に何をすべきかは、ほとんど何も、知らないんだ。そして私は、突然、七十にして、まったきの、初心者だ。一つだけ、教えておくれ、入っていく前に。君が、終わりに、彼らと座るとき——救えない者たちと——どうやって、夜ごと、それに堪えるんだ? 自分が、すっかり、うつろに、なってしまわずに。 私はかつて、勝つことで、それに堪えねばならない、と思っていた。そして、どの死も、敗北で、君が恐れる、まさにその通りに、私を、うつろにした——敵を、取り違えていた、と気づくまでは。死は、決して敵ではなかったんだよ、ヴェラ。それは、誰のもとへも、訪れる。そして、それが医療の失敗でないのは、夕暮れが、午後の失敗でないのと、同じことだ。敵は、悪い死さ——怯えて、独りで、痛みの中で、見知らぬ者たちに囲まれ、やめられぬ人々によって、体が、分別の限りを越えて、鞭打たれる。それなら、私たちは、闘える。そして、その闘いは、勝てる。そして今夜、私たちは、病床を命じる代わりに、あの扉をくぐることで、それに勝つんだ。私は、彼らを、死から救うことで、堪えているんじゃない。彼らを、悪い死から、救うことで——そして、まさに最期に、彼らに、それがどうなされるものかを、教えてもらうことで、堪えているのさ。おいで。ダニエルは、友人たちが、言い争うのをやめて、手を握りはじめるのを、もう、十分すぎるほど、待ったよ。 解説: 死すべき定めと現代医療をめぐるC2の弁証法。死にゆく旧友の病室の前で、四十年来の友である二人の老医師が争う。正(集中治療医ヴェラ):医療の務めは命のために闘うこと。『できることは、いつだってある』、希望は贅沢品ではなく酸素だ。昼に死にたい意志は真夜中のそれとは別物で、事前指示書はまだ痛んでいない自己が書く。救命の拒絶は、取り返しのつかぬものを賭けた博打であり、どの命が守る価値を持つかを費用で裁く