智恵子抄 — 高村光太郎
人に いやなんです あなたのいつてしまふのが―― 花よりさきに実のなるやうな 種子 ( たね ) よりさきに芽の出るやうな 夏から春のすぐ来るやうな そんな理窟に合はない不自然を どうかしないでゐて下さい 型のやうな旦那さまと まるい字をかくそのあなたと かう考へてさへなぜか私は泣かれます 小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて いやなんです あなたのいつてしまふのが―― なぜさうたやすく さあ何といひませう――まあ言はば その身を売る気になれるんでせう あなたはその身を売るんです 一人の世界から 万人の世界へ そして男に負けて 無意味に負けて ああ何といふ醜悪事でせう まるでさう チシアンの画いた絵が 鶴巻町へ買物に出るのです 私は淋しい かなしい 何といふ気はないけれど ちやうどあなたの下すつた あのグロキシニヤの 大きな花の腐つてゆくのを見る様な 私を棄てて腐つてゆくのを見る様な 空を旅してゆく鳥の ゆくへをぢつとみてゐる様な 浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ はかない 淋しい 焼けつく様な ――それでも恋とはちがひます サンタマリア ちがひます ちがひます 何がどうとはもとより知らねど いやなんです あなたのいつてしまふのが―― おまけにお嫁にゆくなんて よその男のこころのままになるなんて 明治四五・七 [#改ページ] 或る夜のこころ 七月の夜の月は 見よ、ポプラアの林に熱を病めり かすかに漂ふシクラメンの香りは 言葉なき君が唇にすすり泣けり 森も、道も、草も、遠き 街 ( ちまた ) も いはれなきかなしみにもだえて ほのかに白き溜息を吐けり ならびゆくわかき二人は 手を取りて黒き土を踏めり みえざる魔神はあまき酒を傾け 地にとどろく終列車のひびきは人の運命をあざわらふに似たり 魂はしのびやかに痙攣をおこし 印度 更紗 ( サラサ ) の帯はやや汗ばみて 拝火教徒の忍黙をつづけむとす こころよ、こころよ わがこころよ、めざめよ 君がこころよ、めざめよ こはなに事を意味するならむ 断ちがたく、苦しく、のがれまほしく 又あまく、去りがたく、堪へがたく―― こころよ、こころよ 病の床を起き出でよ そのアツシシユの仮睡をふりすてよ されど眼に見ゆるもの今はみな狂ほしきなり 七月の夜の月も 見よ、ポプラアの林に熱を病めり やみがたき病よ わがこころは温室の草の上 うつくしき毒虫の為にさいなまる こころよ、こころよ ――あはれ何を呼びたまふや 今は無言の領する夜半なるものを―― 大正元・八 [#改ページ] 涙 世は今、いみじき事に悩み 人は日比谷に近く夜ごとに集ひ泣けり われら心の底に涙を満たして さりげなく笑みかはし 松本楼の庭前に氷菓を味へば 人はみな、いみじき事の噂に眉をひそめ かすかに耳なれたる鈴の音す われら僅かに語り 痛く、するどく、つよく、是非なき 夏の夜の氷菓のこころを嘆き つめたき銀器をみつめて 君の小さき扇をわれ奪へり 君は暗き路傍に立ちてすすり泣き われは物言はむとして物言はず 路ゆく人はわれらを見て かのいみじき事に祈りするものとなせり あはれ、あはれ これもまた或るいみじき歎きの為めなれば よしや姿は艶に過ぎたりとも 人よ、われらが涙をゆるしたまへ 大正元・八 [#改ページ] おそれ いけない、いけない 静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない まして石を投げ込んではいけない 一滴の水の微顫も 無益な千万の波動をつひやすのだ 水の静けさを貴んで 静寂の 価 ( あたひ ) を量らなければいけない あなたは其のさきを私に話してはいけない あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ 口から外へ出さなければいい 出せば 則 ( すなは ) ち雷火である あなたは女だ 男のやうだと言はれても矢張女だ あの蒼黒い空に汗ばんでゐる円い月だ 世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ それでいい、それでいい その夢を 現 ( うつつ ) にかへし 永遠を刹那にふり戻してはいけない その上 この澄みきつた水の中へ そんなあぶないものを投げ込んではいけない 私の心の静寂は血で買つた宝である あなたには解りやうのない血を犠牲にした宝である この静寂は私の 生命 ( いのち ) であり この静寂は私の神である しかも気むつかしい神である 夏の夜の食慾にさへも 尚ほ烈しい 擾乱 ( じようらん ) を惹き起すのである あなたはその一点に手を触れようとするのか いけない、いけない あなたは静寂の価を量らなければいけない さもなければ 非常な覚悟をしてかからなければいけない その一個の石の起す波動は あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもしれない 百千倍の打撃をあなたに与へるかも知れない あなたは女だ これに堪へられるだけの力を作らなければならない それが出来ようか あなたは其のさきを私に話してはいけない いけない、いけない 御覧なさい 煤烟 ( ばいえん ) と油じみの停車場も 今は此の月と少し暑くるしい 靄 ( もや ) との中に 何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか あの青と赤とのシグナルの明りは 無言と送目との間に絶大な役目を果たし はるかに月夜の情調に歌をあはせてゐる 私は今何かに囲まれてゐる 或る雰囲気に 或る不思議な調節を 司 ( つかさど ) る無形な力に そして最も貴重な平衡を得てゐる 私の魂は永遠をおもひ 私の肉眼は万物に無限の価値を見る しづかに、しづかに 私は今或る力に絶えず触れながら 言葉を忘れてゐる いけない、いけない 静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない まして石を投げ込んではいけない 大正元・八 [#改ページ] からくりうた (覗きからくりの絵の極めてをさなきをめづ) 国はみちのく、二本松のええ 赤の煉瓦の 酒倉越えて 酒の泡からひよつこり生れた 酒のやうなる よいそれ、女が逃げたええ 逃げたそのさきや吉祥寺 どうせ火になる吉祥寺 阿武隈 ( あぶくま ) 川のええ 水も此の火は消せなんだとねえ 酒と水とは、つんつれ ほんに 敵 ( かたき ) 同志ぢやええ 酒とねえ、水とはねえ 大正元・八 [#改ページ] 或る宵 瓦斯 ( ガス ) の暖炉に火が燃える ウウロン茶、風、細い夕月 ――それだ、それだ、それが世の中だ 彼等の欲する真面目とは礼服の事だ 人工を天然に加へる事だ 直立不動の姿勢の事だ 彼等は自分等のこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた 曾 ( かつ ) て裸体のままでゐた冷暖自知の心を―― あなたは 此 ( これ ) を見て何も不思議がる事はない それが世の中といふものだ 心に多くの俗念を抱いて 眼前 咫尺 ( しせき ) の間を見つめてゐる厭な冷酷な人間の集りだ それ故、真実に生きようとする者は ――むかしから、今でも、このさきも―― 却て 真摯 ( しんし ) でないとせられる あなたの受けたやうな迫害をうける 卑怯 ( ひきよう ) な彼等は 又誠意のない彼等は 初め驚異の声を発して我等を眺め ありとある雑言を唄つて彼等の 閑 ( ひま ) な時間をつぶさうとする 誠意のない彼等は事件の人間をさし置いて 唯 ( ただ ) 事件の当体をいぢくるばかりだ いやしむべきは世の中だ 愧 ( は ) づべきは其の渦中の 矮人 ( わいじん ) だ 我等は 為 ( な ) すべき事を為し 進むべき道を進み 自然の 掟 ( おきて ) を尊んで 行住坐臥我等の思ふ所と自然の定律と相もとらない境地に到らなければならない 最善の力は自分等を信ずる所にのみある 蛙のやうな醜い彼等の姿に驚いてはいけない むしろ其の姿にグロテスクの美を御覧なさい 我等はただ愛する心を味へばいい あらゆる紛糾を破つて 自然と自由とに生きねばならない 風のふくやうに、雲の飛ぶやうに 必然の理法と、内心の要求と、 叡智 ( えいち ) の暗示とに嘘がなければいい 自然は賢明である 自然は細心である 半端物のやうな彼等のために心を悩ますのはお 止 ( よ ) しなさい さあ、又銀座で質素な 飯 ( めし ) でも喰ひませう 大正元・一〇 [#改ページ] 梟の族 ――聞いたか、聞いたか ぼろすけぼうぼう―― 軽くして責なき人の口の端 森のくらやみに住む 梟 ( ふくろふ ) の黒き毒に染みたるこゑ 街 ( ちまた ) と 木木 ( きぎ ) とにひびき わが耳を襲ひて堪へがたし わが耳は夜陰に痛みて 心にうつる君が影像を悲しみ 窺 ( うかが ) ふ かろくして責なきは あしき鳥の 性 ( さが ) なり ――きいたか、きいたか ぼろすけぼうぼう―― おのが声のかしましき反響によろこび 友より友に伝説をつたへてほこる 梟の族、あしきともがら われは彼等よりも強しとおもへど 彼等はわれよりも多弁にして 暗示に富みたる眼と、物を蔵する言語とを有せり さればかろくして責なき その声のひびきのなやましさよ 聞くに堪へざる俗調は 君とわれとの心を取りて不倫と滑稽との境に擬せむとす のろはれたるもの 梟の族、あしきともがらよ されどわが心を狂ほしむるは むしろかかるおろかしきなやましさなり 声は又も来る、又も来る ――きいたか、きいたか ぼろすけぼうぼう―― 大正元・一〇 [#改ページ] 郊外の人に わがこころはいま 大風 ( おほかぜ ) の如く君にむかへり 愛人よ いまは青き 魚 ( さかな ) の肌にしみたる寒き夜もふけ渡りたり されば安らかに郊外の家に眠れかし をさな児のまことこそ君のすべてなれ あまり清く透きとほりたれば これを見るもの皆あしきこころをすてけり また善きと悪しきとは 被 ( おほ ) ふ所なくその前にあらはれたり 君こそは 実 ( げ ) にこよなき 審判官 ( さばきのつかさ ) なれ 汚れ果てたる我がかずかずの姿の中に をさな児のまこともて 君はたふとき吾がわれをこそ見出でつれ 君の見いでつるものをわれは知らず ただ我は君をこよなき 審判官 ( さばきのつかさ ) とすれば 君によりてこころよろこび わがしらぬわれの わがあたたかき肉のうちに 籠 ( こも ) れるを信ずるなり 冬なれば 欅 ( けやき ) の葉も落ちつくしたり 音もなき夜なり わがこころはいま大風の如く君に向へり そは地の底より湧きいづる貴くやはらかき 温泉 ( いでゆ ) にして 君が清き肌のくまぐまを残りなくひたすなり わがこころは君の動くがままに はね をどり 飛びさわげども つねに君をまもることを忘れず 愛人よ こは 比 ( たぐ ) ひなき命の霊泉なり されば君は安らかに眠れかし 悪人のごとき寒き冬の夜なれば いまは安らかに郊外の家に眠れかし をさな児の如く眠れかし 大正元・一一 [#改ページ] 冬の朝のめざめ 冬の朝なれば ヨルダンの川も薄く氷りたる 可 ( べ ) し われは白き毛布に包まれて我が 寝室 ( ねべや ) の内にあり 基督 ( キリスト ) に洗礼を施すヨハネの心を ヨハネの首を抱きたるサロオメの心を 我はわがこころの中に求めむとす 冬の朝なれば 街 ( ちまた ) より つつましくからころと下駄の音も響くなり 大きなる自然こそはわが全身の所有なれ しづかに運る天行のごとく われも歩む可し するどきモツカの香りは よみがへりたる精霊の如く眼をみはり いづこよりか室の内にしのび入る われは此の時 むしろ数理学者の冷静をもて 世人の 形 ( かたちづ ) くる社会の波動にあやしき因律のめぐるを知る 起きよ我が愛人よ 冬の朝なれば 郊外の家にも 鵯 ( ひよどり ) は 夙 ( つと ) に来鳴く可し わが愛人は今くろき眼を 開 ( あ ) きたらむ をさな児のごとく手を伸ばし 朝の光りを喜び 小鳥の声を笑ふならむ かく思ふとき 我は堪へがたき力の為めに動かされ 白き毛布を打ちて 愛の 頌歌 ( ほめうた ) をうたふなり 冬の朝なれば こころいそいそと励み また高くさけび 清らかにしてつよき生活をおもふ 青き 琥珀 ( こはく ) の空に 見えざる金粉ぞただよふなる ポインタアの吠ゆる声とほく 来 ( きた ) れば ものを求むる我が習癖はふるひ立ち たちまちに又わが愛人を恋ふるなり 冬の朝なれば ヨルダンの川に氷を 噛 ( か ) まむ 大正元・一一 [#改ページ] 深夜の雪 あたたかいガスだんろの火は ほのかな音を立て しめきつた書斎の電燈は しづかに、やや疲れ気味の二人を照す 宵からの曇り空が雪にかはり さつき ※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68) ( まど ) から見れば もう一面に白かつたが ただ音もなく降りつもる雪の重さを 地上と屋根と二人のこころとに感じ むしろ楽みを包んで軟かいその重さに 世界は息をひそめて子供心の眼をみはる 「これみや、もうこんなに積つたぜ」 と、にじんだ声が遠くに聞え やがてぽんぽんと下駄の歯をはたく音 あとはだんまりの夜も十一時となれば 話の種さへ切れ 紅茶もものうく ただ二人手をとつて 声の無い此の世の中の深い心に耳を傾け 流れわたる時間の姿をみつめ ほんのり汗ばんだ顔は安らかさに満ちて ありとある人の感情をも 容易 ( たやす ) くうけいれようとする 又ぽんぽんぽんとはたく音の後から 車らしい何かの響き―― 「ああ、御覧なさい、あの雪」 と、私が言へば 答へる人は忽ち童話の中に生き始め かすかに口を開いて 雪をよろこぶ 雪も深夜をよろこんで 数限りもなく降りつもる あたたかい雪 しんしんと身に迫つて重たい雪が―― 大正二・二 [#改ページ] 人に 遊びぢやない 暇つぶしぢやない あなたが私に会ひに来る ――画もかかず、本も読まず、仕事もせず―― そして二日でも、三日でも 笑ひ、戯れ、飛びはね、又抱き さんざ時間をちぢめ 数日を一瞬に果す ああ、けれども それは遊びぢやない 暇つぶしぢやない 充ちあふれた我等の余儀ない命である 生である 力である 浪費に過ぎ過多に走るものの様に見える 八月の自然の豊富さを あの山の奥に花さき朽ちる草草や 声を発する日の光や 無限に動く雲のむれや ありあまる 雷霆 ( らいてい ) や 雨や水や 緑や赤や青や黄や 世界にふき出る勢力を 無駄づかひと 何 ( ど ) うして言へよう あなたは私