The Fourteenth of July, and Danton: Two Plays of the French Revolution — Romain Rolland
いずれの国の人たるを問わず、 苦しみ、闘い、ついには勝つべき、 あらゆる自由なる魂に、 捧 ( ささ ) ぐ。 ロマン・ローラン [#改ページ] 昼告ぐる 曙 ( あけぼの ) の色ほのかにて、 汝 ( な ) が魂は身内に眠れる時…… ――神曲、煉獄の巻、第九章―― [#改ページ] 一 うち湿りたる濃き 靄 ( もや ) の 薄らぎそめて、日の光 おぼろに透し来るごとくに…… ――神曲、煉獄の巻、第十七章―― 河の水音は家の後ろに高まっている。雨は朝から一日窓に降り注いでいる。窓ガラスの 亀裂 ( ひび ) のはいった片隅には、水の 滴 ( したた ) りが流れている。昼間の黄ばんだ明るみが消えていって、室内はなま温くどんよりとしている。 赤児 ( あかご ) は 揺籃 ( ゆりかご ) の中でうごめいている。老人は戸口に木靴を脱ぎすててはいって来たが、歩く拍子に 床板 ( ゆかいた ) が 軋 ( きし ) ったので、赤児はむずかり出す。母親は寝台の外に身をのり出して、それを 賺 ( すか ) そうとする。祖父は赤児が夜の暗がりを 恐 ( こわ ) がるといけないと思って、手探りでランプをつける。その光で、祖父ジャン・ミシェル老人の赤ら顔や、硬い 白髯 ( しろひげ ) や、気むずかしい様子や、鋭い眼付などが、照らし出される。老人は揺籃のそばに寄ってゆく。その 外套 ( がいとう ) は雨にぬれた匂いがしている。彼は大きな青い 上靴 ( うわぐつ ) を引きずるようにして足を運ぶ。ルイザは近寄ってはいけないと彼に手 真似 ( まね ) をする。彼女は白いといってもいいほどの金髪で、顔立はやつれていて、羊のようなやさしい顔には 赤痣 ( あかあざ ) があり、 唇 ( くちびる ) は 蒼 ( あお ) ざめて厚ぼったく、めったにあわさらず、浮べる微笑もおずおずとしている。彼女は赤児を見守っている――ごく青いぼんやりした眼で、その 瞳 ( ひとみ ) はきわめて小さいがいたって物優しい。 赤児は眼を覚して泣く。その定かならぬ 目差 ( まなざ ) しは乱される。なんという恐ろしさだろう! 深い 闇 ( やみ ) 、ランプの荒々しい光、 渾沌 ( こんとん ) のなかから出てきたばかりの頭脳の幻覚、周囲にたちこめている息苦しいざわめく夜、底知れぬ影、その影の中からは、まぶしい光線のように強く浮かび出してくる、強烈な感覚が、苦悩が、幻影が、こちらをのぞきこんでるそれらの巨大な顔が、自分を貫き自分のうちにはいり込む意味の分らないそれらの眼が!……赤児は声をたてる力もない。彼は身動きもせず、眼を見開き、口を開け、 喉 ( のど ) の奥で息をしながら、恐怖のために 釘付 ( くぎづけ ) にされる。その 膨 ( ふく ) れた大きな顔には 皺 ( しわ ) が寄って、痛ましい奇怪な 渋面 ( じゅうめん ) になる。顔と両手との皮膚は、栗色で紫がかっており、黄っぽい斑点がついている……。 「いやはや、なんて醜い奴だ!」と老人は思い込んだ調子で言った。 彼はランプをテーブルの上に置きに行った。 ルイザは 叱 ( しか ) られた小娘のように口をとがらした。ジャン・ミシェルは横目で彼女を 眺 ( なが ) めて、そして笑った。 「きれいな奴だと言ってもらおうとは、お前も望んでやすまい。お前にだってきれいだとは思えまい。だがいいさ、お前のせいじゃない。赤ん坊てものはみんなこんなものだ。」 子供はランプの炎と老人の 目差 ( まなざ ) しとに驚き、ただ 惘然 ( ぼうぜん ) として身動きもしなかったが、やがて声をたて始めた。おそらく彼は母親の眼の中に、苦情を言うがいいと勧めるような 愛撫 ( あいぶ ) を、本能的に感じたのであろう。彼女は彼の方へ両腕を差出して言った。 「私にかしてください。」 老人はいつもの癖で、まず理屈を並べたてた。 「泣くからといって子供の言うままになってはいけない。勝手に泣かせることだ。」 しかし彼は子供のところへ来て、それを抱き上げ、そしてつぶやいた。 「こんな醜い奴は見たことがない。」 ルイザはわなわなしてる手で子供を受取り、胸深く抱いた。彼女はきまり悪げなまた喜びにたえないような微笑を浮べて、子供を見守った。 「おう、かわいそうに、」と彼女はたいそう恥ずかしそうにして言った、「坊やはなんて醜いでしょう、なんて醜いでしょう、ほんとにかわいいこと!」 ジャン・ミシェルは暖炉のそばにもどった。彼は不機嫌な様子で、火をかきたて始めた。しかしその顔に装ってる陰鬱なしかつめらしさは、軽い微笑の影で裏切られていた。 「お前、」と彼は言った、「ねえ、苦にしちゃいけない。まだまだこれから顔付は変わるものだ。それに、醜いったってそれがなんだ? この子に求むることはただ一つきりだ、りっぱな者になってくれということだ。」 子供は母親の温かい身体に 触 ( さわ ) って心が和らいでいた。息を押えて 貪 ( むさぼ ) るように乳を吸ってる音が聞えていた。ジャン・ミシェルは 椅子 ( いす ) の上で軽く身をそらして、おごそかにくり返した。 「正直な男ほどりっぱなものはない。」 彼はちょっと黙って、その思想を 敷衍 ( ふえん ) したものかどうか考えた。しかしそれ以上言うべきことを見出さなかった。そしてしばらく黙った後、激した調子で言い出した。 「夫がいないとは、どうしたことだ?」 「芝居に行ってるのでしょう。」とルイザはおずおず言った。「 下稽古 ( したげいこ ) がありますから。」 「芝居小屋は閉まっている。わしは今その前を通って来たんだ。それもまた 彼奴 ( あいつ ) の 嘘 ( うそ ) だ。」 「いいえ、あの人ばかりをいつもおとがめなすってはいけません。私の思い違いかもしれませんから。では出稽古に手間取ってるのでしょう。」 「もう帰って来られるはずだ。」と老人は満足しないで言った。 彼はちょっと 躊躇 ( ちゅうちょ ) して、それから少し気恥しげに声を低めて尋ねた。 「 彼奴 ( あいつ ) は……また……?」 「いいえ、お 父 ( とう ) 様、いいえ。」とルイザは 急 ( せ ) き込んで言った。 老人は彼女を眺めた。彼女はその前に顔をそらした。 「ほんとうじゃない、お前は嘘をついてるな。」 彼女は黙って涙を流した。 「ああ!」と老人は大声を出しながら、暖炉を一つ 蹴 ( け ) った。 火掻 ( ひかき ) 棒が落ちて大きな音をたてた。 母親と子供とはふるえあがった。 「お父様、どうぞ、」とルイザは言った、「坊やが泣き出しますから。」 子供は泣声をたてたものかそれともやはり静かにしていようかと、しばらく 躊躇 ( ちゅうちょ ) した。しかし両方を同時にすることができないので、やはり静かにしていた。 ジャン・ミシェルは腹立ちまぎれにいっそう太い声で言いつづけた。 「わしはどんなことをした 報 ( むく ) いで、あんな 酔漢 ( よいどれ ) を息子に持ったのか! わしのような生活をし、万事に不自由な目を忍んだのも、むだな骨折りだったのか!……だがお前は、お前は 彼奴 ( あいつ ) を制することができないというのか。なぜかって、そりゃあお前の役目じゃないか。お前が彼奴を家に引留めさえしたら……。」 ルイザはなお激しく涙を流していた。 「このうえ私を 叱 ( しか ) ってくださいますな、私もうたいへん不仕合せですもの。私はできるだけのことはしました。ああ一人でいるとどんなに恐ろしい思いをしていますか、それを察してくださいましたら! いつでも階段にあの人の足音が聞えるような気がします。すると私は 扉 ( とびら ) が開くのを待ちます。まああの人はどんな様子で出てくるかしらと考えます。……それを思ってみるだけでも気がふさいできます。」 彼女はすすり泣きに身をふるわしていた。老人は気をもんだ。彼は彼女のそばにやって来、その震えてる両肩に乱れた 蒲団 ( ふとん ) をかけてやり、大きな手でその頭をなでてやった。 「さあ、さあ、心配することはない。わしがついてる。」 彼女は子供のことを思ってむりに気を 鎮 ( しず ) め、そして 微笑 ( ほほえ ) もうとした。 「あんなことを申しましたのは、私が悪うございました。」 老人は頭をうち振りながら彼女を眺めた。 「かわいそうに、わしがお前にやった贈物はりっぱなものではなかった。」 「私の方が悪いんです。」と彼女は言った。「あの人は私みたいな者と結婚なさるのではありませんでした。自分のしたことを後悔なすっています。」 「何を後悔しているって?」 「それはあなたがよく御存じでございましょう。私があの人の妻になりましたのを、あなた御自身でも気を悪くしていらっしゃいました。」 「もうそんな話をするもんじゃない。なるほどわしは多少不満だった。あのような青年――こう言ったって何もお前の気にさわりはすまい――わしが注意して育て上げた青年、すぐれた音楽家で、ほんとうの芸術家で――まったく彼は、お前のように貧乏で、身分が違い、なんの技能もない者より、もっとほかの女を選むこともできたはずだ。クラフト家の者が音楽家でもない娘と結婚するなんてことは、もう百年あまりこの方 例 ( ためし ) がないんだ!――それでも、お前もよく知ってるとおり、わしはお前を恨んだこともないし、お前と知り合ってからはいつも好意をもっていた。それに、一度こうときまってしまえば、もう後もどりはできない。あとはただ義務を尽すことばかりだ、正直に。」 彼は元の席へもどって腰掛け、ちょっと間をおいて、それから、いつも自分の格言を口にする時のような 厳 ( いかめ ) しさで言った。 「人生で第一のことは、おのれの義務を尽くすことだ。」 彼は抗議を待ち受け、火の上に 唾 ( つば ) をした。それから、母親も子供もなんら異論をもち出さなかったので、なお言葉をつづけたく思った――が、口をつぐんだ。 彼らはもう一言も口をきかなかった。ジャン・ミシェルは暖炉のそばで、ルイザは寝床にすわって、二人とも悲しげに夢想していた。老人はああは言ったものの、息子の結婚のことを 苦々 ( にがにが ) しげに考えていた。ルイザの方も同じくそのことを考えていた、そしてみずから非難すべき点は何もなかったけれど、それでも気がとがめていた。 ジャン・ミシェルの子メルキオル・クラフトと結婚した時、彼女は女中であった。でその結婚にはだれも驚いたが、とくに彼女自身が驚いた。クラフト家には財産はなかったが、約半世紀前に老人が居を定めたそのライン河畔の小さな町では、かなり尊敬されていた。彼らは父子代々の音楽家で、その地方、ケルンとマンハイム間では、音楽家仲間に名が知れわたっていた。メルキオルは宮廷劇場のヴァイオリニストであった。ジャン・ミシェルは近頃まで大公爵の演奏会を指揮していた。でこの老人はメルキオルの結婚に深い屈辱を感じた。彼は息子に大きな希望をかけていて、自分自身ではなれなかったけれども、息子の方は高名な人物になしたいと思っていた。ところがこの無謀な結婚は、その望みを打ち 壊 ( こわ ) してしまった。それで最初のうちは盛んに怒鳴りたて、メルキオルとルイザとをののしりちらした。しかし根が正直な人だけに、嫁の気心をよく知ってくると、すぐに彼女を許してやった。そして父親としての愛情をさえ心にいだくようになった。がその愛情はたいてい冷たい素振りとなって現われていた。 メルキオルが何に 駆 ( か ) られてそういう結婚をしたのか、だれも了解することができなかった――だれよりもメルキオル自身に訳が分らなかった。確かにルイザの 美貌 ( びぼう ) のせいではなかった。彼女は少しも人を惑わすような点をもってはいなかった。背が低く、 蒼 ( あお ) ざめて、虚弱だった。ところがメルキオルとジャン・ミシェルとは二人とも、背が高く、でっぷりして、赤ら顔の、たくましい 拳 ( こぶし ) をし、よく食い、よく飲み、笑い事の好きな、騒ぎやの大男だったので、彼女とおかしな対照をなしていた。彼女はまるで彼らに圧倒されてるかと思われた。だれも彼女へはほとんど注意を向けなかったが、それでも彼女はなおいっそう 隅 ( すみ ) っこに引込んでばかりいようとしていた。もしメルキオルがやさしい心をもってるのだったら、彼は他のあらゆる利益をうち捨ててルイザの純良な気質を選んだのだとも、考えられないことはなかった。しかし彼は最も浮薄な男だった。で結局、かなりの好男子で、自分でもそれを知らないではなく、またごく 見栄坊 ( みえぼう ) で、そのうえ多少の才能もあり、金持ちの娘に眼をつけることもでき、また彼がみずから自慢してたように、中流市民の女弟子のどれかを夢中にならせることさえもできる――たれかいずくんぞ知らんやではあるが――という、彼のような一個の青年が、財産も教育も容色もない 賤 ( いや ) しい娘を、しかも向うからもちかけても来なかった娘を、突然妻に選ぼうとは、まったく 賭事 ( かけごと ) みたいな 沙汰 ( さた ) らしく見えるのであった。 しかしメルキオルは、他人が期待してることやまた自分みずからが期待してることとは、常に反対のことを行なうような 類 ( たぐい ) の男であった。かかる人たちは目先のきかないわけではない――目先のきく者は二人前の分別があるそうだが……。彼らは何事にも 欺 ( あざむ ) かれることがないと高言し、一定の目的の方へ自分の舟を確実に 操 ( あやつ ) ってゆけると高言している。しかし彼らは自分自身を勘定に入れていない、なぜなら自分自身を知らないから。いつも彼らにありがちなその空虚な瞬間には、彼らは 舵 ( かじ ) を打ち拾てておく。そして物事は勝手に放任さるると、主人の意に反することに意地悪い楽しみを見出すものである。自由に解き放された舟は、まっすぐに暗礁を目がけて進んでゆく。かくて野心家のメルキオルは女中 風情 ( ふぜい ) と結婚した。とは言え、彼女と生涯の約を結んだ時、彼は酔っ払ってもいなければぼんやりしてもいなかった。また彼は情熱の 誘 ( いざな ) いをも感じてはいなかった。そんなものは非常に欠けていた。しかしわれわれのうちには、情意以外の他の力が、感覚より