A Perfect Map and an Unknown Territory — What Is Quantum Mechanics Saying? — Epoche C2
場面設定: 夜更けの、量子計算機の実験室。室内は薄暗く、計器の表示が、緑と橙に、点々と光っている。部屋の中央には、天井から吊られた、金色の段々の構造体——希釈冷凍機の中身——が、絶対零度近くまで冷えた量子プロセッサを、抱いて、低く、絶え間なく、唸りを上げている。机には、走り終えた計算の出力と、冷めたコーヒー。量子ビットを操り、誤り訂正を組み上げてきた若き量子計算の技術者タン博士(三十代、フリースの上に研究所のIDを提げ、成功の高揚で、声が弾んでいる)と、半世紀にわたり、量子力学の基礎——その『意味』——を問うてきた理論物理学者のヴェントリス教授(七十代、くたびれたカーディガン、節くれだった手、機械ではなく、その向こうの、見えない問いのほうを、見ている)。冷凍機の唸りだけが、二人のあいだに、絶え間なく、満ちている。 今しがた、走り切ったんですよ、教授。プロセッサが、アルゴリズムを実行し、誤りは訂正され、量子ビットは、状態を保った。動くんです——小数点以下九桁まで、方程式が予測する、まさにそのとおりに。(と、唸りを上げる希釈冷凍機を、誇らしげに撫でて、ヴェントリスのほうを向く)そして、あなたがた、基礎論の人々は、いまだに、それが何を『意味するか』を、論じ合っている。教授、失礼ながら——この機械は、それが何を意味するか、気にしちゃいません。ただ、計算する。黙って、計算しろ——あとは、神学です。 一台、見事な機械です、タン博士、そして、それが気にかけない、という点では、あなたは正しい。けれど、『あなた』は、気にかけるべきで、そして、これが、なぜ神学でないかを、お話ししましょう。あなたが、たった今、讃えたその機械について、一つだけ、教えてください。量子ビットが、重ね合わせの中にあったとき——二つの状態が、同時に——そして、あなたが、それを測定して、一つの、確定した答えを得たとき。あの一瞬に、物理的に、何が『起きた』のですか。確率を、言わないでください。出来事を、言ってください。 収縮したんです。波動関数が、一つの結果へと、収縮した。それは、教科書どおりです。 『収縮した』。では、あなたが、小数点以下九桁まで信頼する、その方程式の中で、その収縮を、為す項を、私に、お見せなさい。できません。なぜなら、そんな項は、ないからです。シュレーディンガー方程式が記述するのは、滑らかで、決定論的な進展——重ね合わせは、ただ、永遠に、広がっていくだけで、数学のどこにも、収縮など、ありはしない。そして、そこへ、教科書が、手作業で、第二の規則を、付け加える——『ただし、測定したときは、別で、そのときは、跳ぶ』、と。互いに矛盾する、二つの法則、そして、その理論が、決して定義しない、魔法の言葉——『測定』。測定は、いつ、起きるのです? 人間が、見たとき? ガイガー計数管が、鳴ったとき? 一個の原子が、別の原子に、触れたとき? あなたの完璧な機械は、文字どおりに受け取れば、自己矛盾する理論の上で、動いていて、その継ぎ目が、どこにあるのか、誰にも、言えないのですよ。 でも、その継ぎ目が、どこにあるかは、『重要では』ないんです。なぜなら、予測は、寸分たがわず、同じに、出てくるから。量子ビットで、『本当に』何が起ころうと、私の誤り率は、現にこうなっている。あなたは、本物の謎を、描写している、それは認めましょう——けれど、それは、観測可能な帰結を、持たぬ謎であって、何の違いも生まぬ違いは、物理学では、ない。それは、形而上学です。ゆえに——黙って、計算しろ。 ああ——けれど、『観測可能な帰結を持たぬ』というのが、まさに、偽だと判明した、その主張であり、そして、それこそが、あなたの標語が、あなたに、見落とさせたであろう、この物語の、その部分なのです。三十年のあいだ、人々は、諸解釈は、無益だ、と言った——同じ予測、好みで選べ、と。それから、ベルが、一九六四年に、不可能を、やってのけた——彼は、諸解釈が、自然が何をするかについて、『食い違う』、ある場合を、見つけた——その結果が、一群の解釈を、丸ごと、排除する、ある実験を。アインシュタインは、答えが、私たちがまだ測っていない、局所的な変数の中に、隠れていることを、望んだ。ベルは、そういう、心安らぐ種類の理論が、ただの一つも、量子の予測に、合致しえないことを、証明し、そして、実験は、決定的に、アインシュタインに、不利に、出た。『単なる哲学』は、検証可能だと判明し、そして、それは、私たちに、実在についての、驚くべきことを、告げた——それは、非局所的だ、と。どれだけ黙って計算しても、決して、明かされることのなかった、何かを。 (と、間をおいて)……ベルの定理。ええ。私も、教えています。私は、どういうわけか、それを『計算する』の項目に、しまい込んで、『これは、世界が、奇妙だということだ』の項目には、決して、入れていなかった。けれど、これは、認めてください。ベルは、一つの、心安らぐ描像を、排除した。それは、生き残ったもののうち、どれが、真か、までは、告げなかった。コペンハーゲン、多世界、ボーム——それらは、依然、すべて、同じ数値を、出す。だから、私は、自分の論点に、戻るんです——生き残ったものの間では、その選択は、神学だ、と。 今、現に生き残っているものの間では、今日のところは、そうです——そして、それが、正直な限界で、私は、誇張は、しません。けれど、その生き残りが、実際に、何を主張しているかを、ごらんなさい。なぜなら、それらは、一つの考えの、味付けの違いでは、ないからです。それらは、とんでもなく、異なる宇宙なのです。コペンハーゲンは、波動関数は、ただ、私たちの知識であり、実在は、私たちが見るまで、確定した状態を、持たない、と言う——それは、観測者を、不可解にも、特別にし、そして、観測者が『何か』を、決して、言わない。エヴェレットは、収縮など、一切ない、と言う——あらゆる結果が、起き、宇宙は、分岐し、そして今、あなたの、無数の写しがいて、その一人ひとりが、まさにあの量子ビットで、異なる結果を、測定した。ボームは、粒子は、つねに、確定した位置を持ち、実在する、非局所的な波に、導かれていた、と言う。それらは、三つの気分では、ない。そのうちの一つが、真か、あるいは、どれも、真ではない、そして、それらは、完全に、異なるものが、存在していると、記述する。その選択を、『神学』と呼ぶことは、あなたの機械が走るたびに、宇宙が、ひそかに、自身の、一兆の写しを、生み出すかどうかは、どうでもいい、と言うことです。私には、それは、どうでもよくは、ないのですよ。 (落ち着かなげに)……そう言われると。けれど、多世界——私の、無数の写し——それは、科学では、ない、小説です。私には、ほかの分岐は、見えない。それらは、私にとって、何の違いも、生まない。 それでいて、多世界は、ある明白な意味で、あなた自身の方程式の、『最も正直な』読み方なのです——それは、シュレーディンガー方程式を、完全に真剣に受け取り、ただ、手作業の、魔法の収縮を、付け加えることを、拒んだら、得られるものです。あなたが、後ずさりしている、その『小説』は、ただ、あなたの機械自身の数学を、底の底まで、信じたもの。それは、間違っているかもしれません。けれど、お気づきなさい——あなたは、その描像を、不条理と呼びながら、文字どおりに読めば『その描像そのもの』である、当の方程式を、信頼している。あなたは、その平明な意味を、自分が拒んでいる理論で、計算してきて、そして、その拒絶を、『常識』と、呼んでいるのです。 つまり、私は、自分が、その取扱説明書を、信じていない道具を、使う、という、奇妙な立場に、いるわけですか。 それが、物理学の、正確で、前例のない、状況であり、だからこそ、これは、神学では、ないのです。それ以前の、あらゆる理論は、あなたは、『思い描く』ことが、できました——ニュートンの粒子、マクスウェルの場、アインシュタインの曲がった時空でさえ。あなたは、その理論が、世界を、どんなものだと言っているかを、知り、それから、計算した。量子力学は、科学の歴史で、完璧に動き、そして、誰一人、思い描けない、最初の理論であり、世界の指折りの頭脳が、一世紀を経てなお、それが、何を『言っている』のかさえ、合意できずにいる。ファインマンは、ひるまずに、それを、言いました——誰も、量子力学を、理解していない、と。彼は、難しい、と言ったのでは、ない。私たちは、それを、完璧に計算できて、それでもなお、それが、何を、実在だと、主張しているのかを、知らない、と言ったのです。そんなことは、かつて、一度も、なかった。『黙って計算しろ』は、哲学では、ない。それは、白旗で、あまりに長く掲げてきたので、私たちが、それを、旗竿だと、取り違えただけなのですよ。 けれど、それが、ただ、この理論に対する、人間の条件、なのかもしれません——おそらく、『描像など、ない』のであって、それを要求するのは、想像力の失敗、量子力学が、ただ、そうではない、古典的な世界からの、二日酔いなのかもしれない。 おそらくは。それは、現実の可能性で、正直な道具主義者の、最も強い一手です——おそらく、底のところでは、実在は、ただ、描けないものであって、『それは、何をしているのか?』は、不適切な問いなのだ、と。けれど、それでもなお、私が、問いつづける理由は、これです。物理学の歴史の、まるごとが、こうなのです——誰もが、『単なる形而上学だ』と合意した問いが、扉だと、判明した。エーテルは、あるか?——形而上学的に聞こえ、マイケルソン・モーリーが、葬り、相対性理論を、開いた。空間は、絶対か?——形而上学的だった、アインシュタインが、それを、物理学にするまで。そのたびに、その分野の長老たちは、『それが何を意味するか、問うのは、やめろ、ただ、方程式を使え』と言い、そして、そのたびに、黙ることを、拒んだ人々こそが、その問いの中に、隠れている、次の理論を、見出した者たちだったのです。あなたの測定問題は、次の物理学が、待っている、その継ぎ目かもしれない。あなたは、自分が、壁だと、決めてしまった扉を、見つけることは、できないのですよ。 (と、唸る機械を、見つめて)……自分が、壁だと、決めてしまった扉を、見つけることは、できない。私は、十年かけて、この代物を、動かすことに、費やし、そして、それが、何で『ある』のかを、問うことには、きっかり、ゼロ秒を、費やしてきた。私は、自分に、それが、厳密さだ、と、言い聞かせてきた。あなたは、それが、正反対かもしれない、と仰っている——私は、典礼を、完璧に唱えながら、教会を、改革しうる、ただ一つの問いを、禁じてきた、祭司だったのだ、と。 (と、機械の、冷たい筐体に、片手を、置いて)計算を、つづけなさい、タン博士——神に誓って、私たちには、機械が要るし、あらゆるゲートの前で、波動関数を、思案しに立ち止まる者は、決して、一台も、作りはしない。『黙って計算しろ』という構えは、間違っては、いない。それは、不完全なのです——それは、『作る』ための、正しい道具で、『理解する』ための、間違った道具であり、そして、誤りは、その二つを、同じ仕事だと、思い込んだことに、あった。あなたの、美しい機械を、お作りなさい。けれど、たまには、夜更けに、こうして、それが、唸りを上げ、誰も見ていないときに、自分に、あの禁じられたことを、問うことを、許しなさい——『それは、動くか?』では、なく、『それは、いったい全体、何を、しているのか?』を。なぜなら、あなたが組み上げた、その箱についての、最も深い事実は、これだからです——それは、人類の歴史で、最も精確に検証された理論であり、私たちが、これまでに知ってきた、いかなるものよりも、多くの桁まで、確かめられていて——そして、私たちは、それが、私たちに、何を告げているのかを、知らない。私たちは、史上初めて、完璧な地図を、手にし、そして、領土が、何であるかを、まるで、分かっていない。それと、安んじて生きられる民は、神秘と、和解したのでは、ない。それを、見るのを、やめることを、覚えただけです。見るのを、やめないでください。機械は、あなたが、それを、理解しようがしまいが、計算します。それを、理解すること——その部分は、いまだに、目覚めている誰かを、必要としているのですよ。 解説: 夜更けの量子計算機実験室を舞台にした C2 級・十六ターンの弁証法。完璧に動くが誰も意味で一致できぬ機械そのものが、論証の生きた実例だ。正(道具主義):量子計算の技術者タンの立場——機械は意味を気にせず動く(小数点以下九桁)、解釈の選択は神学、黙って計算しろ。反(基礎論):理論物理学者ヴェントリスの立場——測定の瞬間に物理的に何が起きたか言えるか。波動関数の収縮を為す項は方程式に無く、教科書は手作業で矛盾する第二法則を足し『測定』を定義しない(継ぎ目はどこ?)。『観測可能な帰結を持たぬ』はベルの定理(一九六四)で偽と判明——諸解釈が食い違う実験で実在の非局所性が示された。生き残るコペンハーゲン/多世界/ボームは味付けでなく全く異なる宇宙(機械が走るたび宇宙が一兆の写しを生むか否か)。多世界はシュレーディンガー方程式を底まで信じた最も正直な読み=技術者は拒む平明な意味の理論で計算してきた。合:量子力学は完璧に動き誰も思い描けぬ史上初の理論(ファインマン『誰も理解していない』)で、道具主義は誤りでなく不完全=構築の道具で理解の道具でない。実在が描けない可能性は道具主義の最強手だが、エーテル・絶対空間のように『単なる形而上学』が次の物理への扉だった歴史ゆえ問い続ける——壁と決めた扉は見つからない。最後は『完璧な地図を手にしながら領土が何か分からぬ史上初/それと安んじて生きる民は神秘と和解したのでなく見るのをやめただけ/機械は理解せずとも計算するが理解には目覚めた誰かが要る』へ収束する。 参考文献 Bohr, N. (1928). 「The Quantum Postulate and the Recent Development of Atomic Theory」. Nature, 121, 580-590. Everett, H. (1957). 「'Relative State' Formulation of Quantum Mechanics