赤い手 — 国枝史郎
まだ真夜中にはなっていなかった。 が、豪奢なウッドワードのアパートに 漲 ( みなぎ ) る深々たる夜の静寂は、泥棒猫のようにこっそり忍び込んだスパイダー・マッコイの亢奮した神経を針のように尖らせた。ゴム底の靴は歩く 度 ( たび ) に高価な絨氈の中に深々と沈み、彼の熟練した眼には夜目にも素晴しい調度品が感じられた。室から室を忍び歩く足の感じと時折照す懐中電燈の光だけで、スパイダーは 家 ( うち ) の中の様子をあらまし頭の 裡 ( なか ) にたたみ込んだ。 総 ( す ) べては彼が想像した通りだった。いや、サディが彼に知らせた通りだと云った方がいいかも知れない。サディはウッドワード夫人がフロリダ地方へ出立する以前、一ヶ月 許 ( ばか ) り女中として住み込んでいた。そして彼女は室々の詳細の様子をスパイダーに知らせて 寄 ( よこ ) したのだ。今その正確だったことが分ると、彼は舌を巻いて驚いた。 「サディは利口な奴さ」と彼は 呟 ( つぶや ) いた。「その上、気が利いていやがる。あれでスラッグ・ドルガンに気がなければなあ」 彼はそう思うとスラッグが 無上 ( むしょう ) に憎くなって来た。奴は 此 ( こ ) の数ヶ月と云うもの 幾度 ( いくたび ) 仕事の邪魔をしたか知れやしない。だが 何 ( ど ) うして仕事を予め感付いたろう。誰か密告してる奴がいるんだ――事情を詳しく知ってる奴が。スパイダーは今までついぞサディを疑った事はなかった――が、あの女にも用心しないと 不可 ( いけ ) ないな、と彼は思った。 その時、 幽 ( かす ) かな物音がしたので、彼は蜂に神経を刺された様に、はっと我に返った。彼は全身の神経を緊張させて油断なく 暗 ( やみ ) の中に佇んだ。が、やがて、気の 精 ( せい ) だったかも知れない、と独りで 極 ( き ) めてしまった。 家 ( うち ) の中には 眠 ( ねむり ) に 就 ( つ ) いている二人の召使の外には誰もいない筈だった。夫人はフロリダ地方へ行っているし、主人は土曜日の夜はいつも日曜版が刷上るまで新聞社にいる 習 ( ならわ ) しだった。スパイダーは前々から念を入れて今日の準備を怠らなかった。そして宵の 中 ( うち ) から家に眼をつけておいて、ウッドワードが自動車で事務所へ出掛けた後も、召使達が 燈火 ( あかり ) を消して室へ退くのを待っていたのだった。 懐中電燈の光は床から壁を這い廻った。 時間はたっぷりあったから、決して急ぐ必要はなかった。彼は安心して仕事に取掛ることが出来た。窓には日除が下され、その上都合のよい事にはどっしりした窓掛けさえ下されてあった。彼は電燈のスイッチを 捻 ( ひね ) った。すると眼の前に突然華麗な室が現われたので思わず眼を 瞠 ( つむ ) った。が、今はそんな事に暇をつぶしている時ではなかった。やがて今宵の目的物が眼に映った。それはサディが云った通り室の 端 ( はず ) れに――グロテスクなチーク材の彫像が立っていた。 その彫像を 予 ( かね ) てから欲しがっていた 胡買者 ( けいすがい ) のシモン・スヌッドはスパイダーに話を持ち掛けた。 「手に入ったら、お前には五千 弗 ( ドル ) 出すぜ」とスヌッドは約束した。 スパイダーに取ってはそれだけでも充分だった。 併 ( しか ) し巧くゆけばもう少し位出させることは出来るかも知れないし、スヌッドにしても 愈 ( いよいよ ) 現実に手に入るとなれば分前の高を増して 呉 ( く ) れるかも知れない。だが、そんな事は後で何うにでもなる、それより今は代物を手に入れることが肝心だ、とスパイダーは考えた。 彫像が楽に持運びが出来る程の大きさなのを見てとると、彼は安心してにやりと微笑した。それは床から五 呎 ( フィート ) 許 ( ばか ) りの壁に設えた 龕 ( ずし ) の中に納められてあった。淡い間接照明の光は、奥深い洞穴の様な感じを与えていた。所が龕の 直 ( す ) ぐ前には長楕円形の金魚鉢があったので、スパイダーは 先 ( ま ) ずこの鉢を除けてからでなければ彫像に手を触れることは出来なかった。 よく見ると鉢の中の金魚は拵え物だった。 「ちぇッ」彼は忌々しそうに舌打した「だが器用に出来てるなあ。俺は 真物 ( ほんもの ) とばかり思っていた」そして彼は鉢を調べた。「随分と厚い硝子だ。これなら少し位の事では 毀 ( こわ ) れっこない。けれど、こんなに水が一ぱい入ってるんじゃ、 溢 ( こぼ ) さずに動かすのは一寸 六ヶ敷 ( むずかし ) いな」さて、問題は鉢を動かすことだった。鉢の縁を持てば何うしても手袋を濡らしてしまう。かと云って、手袋なしでやれば指紋がついてしまう。そこで 遂 ( つい ) に片方だけ手袋をとり、指紋がつくのを防ぐ 為 ( た ) めにはハンカチを用うることにした。そしてハンカチを巻きつけた手で金魚鉢の縁を掴み、一方の手で底を支えながら邪魔にならない所で置き換えた。それから水のついた指先を拭うと、その濡れたハンカチを 衣嚢 ( かくし ) に収めた。 仕事は余りに楽過ぎて彼の器用な小手先を使う機会のないのは 如何 ( いか ) にも残念だった、でも宵から今に至るまで 手筈 ( てはず ) は万事好都合に運んでいた。彼は割合に目方のある彫像をカンバス製の袋に入れると、それを紐でしっかりと結え付けた。 「これで五千弗とはすまねえな」彼の顔には満足そうな微笑が漂った。 彼は 扉 ( ドア ) の方に向直って電燈のスイッチを捻ろうとした。と、その時、みしッと云う幽かな音がしたので彼は思わずぎょっとなった。彼は全身を緊張させて、その音を確かめようと耳をそばだてた。再び忍び足のような音がぼんやりと聞えて来た。彼の醜悪な容貌は恐しい事を予想しているらしく妙に 強張 ( こわば ) った。そして音を立てない様に袋を床に置くと突然電燈を消してしまった。室が真暗になるとスパイダーは元気付いて来た。此の際誰か扉口から入って来るとすれば場所は彼の方が遥かに有利だったから。 足音は又聞えた。彼の 顳 ※(「需+頁」、第3水準1-94-6) ( こめかみ ) は動悸を打ち出した。彼は混乱した頭を敏捷に働かして、何処で失策をやったか夕方からの行動をじっくり考えて見た。それにしてもウッドワードは 未 ( ま ) だ帰らない筈だ。 然 ( しか ) し何者か 扉 ( ドア ) に近づいてくる。 彼は何とかしなければならなかった。けれど足音は彼が今来た道筋を辿って来る以上、後退は 殆 ( ほと ) んど不可能に等しかった。 然 ( し ) かも出口としては、その 扉 ( ドア ) 以外にない。残る手段は――彼は衣嚢から棍棒を取出した。 そして 凝 ( じ ) っと待っていた。時間の経過は実に 遅 ( のろ ) く彼には何時間か経った様な気がした――と、その時 扉 ( ドア ) がそっと開かれた。スパイダーは棍棒を握りしめ、 扉 ( ドア ) の近くに身を寄せて息を凝らしていた。やがて 丈 ( せい ) の低い、ずんぐりした人影が室の中へこっそり 這入 ( はい ) って来た。彼は最早躊躇しなかった。満身に漲る衝動は彼を一気に活躍させた。そして、ありっ 丈 ( た ) けの力をこめて相手の頭上に恐しい一撃を加えた。鈍い骨の砕ける様な音と共に闖入者は 蹌 ( よろ ) めくと、そのまま床に倒れてしまった。 スパイダーは電燈のスイッチを捻った。彼の心臓は早鐘のように動悸を打ち、息は 烈 ( はげ ) しく喘いでいた。そして瞳を 凝 ( こら ) して被害者の顔を覗き込むと、思わず驚愕の叫びをあげて、死体の上に蔽いかぶさる様に 踞 ( うずくま ) った。 「ドルガン! スラッグ・ドルガンだ!」 だが、ドルガンは何のために此処へ来たのだろう? 若 ( も ) し彼がスパイダーの後をつけて来たとすれば、一体誰が彼に知らせたのだろう? 今日の仕事を知っている者はサディの外には一人もない。ではサディか? スパイダーはサディのアパートの裏手にある 自動車庫 ( ガレイジ ) の道具箱に 贓品 ( ぞうひん ) を仕舞い込んだ。 斯 ( こ ) うして置けばシモン・スヌッドに渡すまでは先ず安全だった。間もなくサディが 扉 ( ドア ) を開いたので彼は中に這入って行った。 「何うかしたの? スパイダー」 「何あに」と云いながら彼女の方に眼をやると、思いなしかその可愛い顔には不安と疑惑の影が漂っていた。何か胸に心配事を持っている――スラッグ・ドルガンの身を案じているのではあるまいか。いや確かにスラッグの事を懸念しているのだ。果して彼女は彼を裏切ったのだろうか――此の点は是非とも確かめる必要がある、と彼は考えた。 「それで、仕事の方は何うだったの?」 「うん、今夜は止めたよ。チャーリーの所でつい歌留多をやり過ぎちゃったからね――それじゃいけないかい?」 「だって――ウッドワードの仕事は今夜だって事をあなたから聞いていたから」 「そりぁ、計画はそうだったさ。だが来週まで延ばすことにしたんだ」 彼女は不審な様子でスパイダーの顔を凝っと見詰めた。女と云うものは堅い殼を [#「堅い殼を」はママ] 透して皮の下まで見抜く不思議な力を持っているものだ。彼は彼女に凝視されていると何だか気味悪くなって来た。 「ええ、よくってよ」彼女は皮肉に云った。 「そんな嘘なんか、聞きたくないわ。ほんとに仕事は何うだったの? 妾 ( あたし ) だって、 此 ( これ ) には関係してるんじゃありませんか」 「しらばっくれなくてもいいだろう」彼は不機嫌な声で云いながら巻煙草に火を点けた。 「お前達は、皆んな知ってるんじゃないか――」 「お前達ですって――あんた今夜何うかしてるわ」 彼女の冷静な態度はスパイダーを余計苛立たせた。けれどドルガンの事だけは、何うあっても彼女の口から聞き出さなければならなかった。彼は口先では到底彼女の敵でないことを知っていた。が、同時に彼女が彼の疑いに気付いて、スラッグに対する話を 切 ( しき ) りに誤魔化そうとしている様子も彼には感付かれていた。 「今夜スラッグに会ったろう」彼は不意に訊ねた。 「何ですって?」 「今夜スラッグに会ったかと聞いているんだ」スパイダーは繰返して云った。 「あなたが 真実 ( ほんと ) の事を云って 呉 ( く ) れなきゃ、妾だって云わないわ――誰に会おうと妾の勝手じゃありませんか」 スパイダーは椅子から身を起した。 「おい、冗談に云ってるんじゃないぜ、俺は何うあってもお前から聞き出すよ」 「出来るなら、やって見るがいいわ」彼女は冷かす様に云った。「あなたは少し気が小さ過るわ。そんなこと取越苦労と云うものよ。スパイダーともあろう者が、そんな子供染みた真似をするなんてみっともないわ。一体何うしたと云うの?」 「うん、もういいよ」彼は急に機嫌をとる様に声を 和 ( やわ ) らげた。「酒でも飲もう。ほんとに今夜は何うかしているよ」 彼女は隣室に酒壜を取りに行った。スパイダーは椅子に深く腰を下していたが、彼女が不安な面持で戻って来るのを見ると突然立ち上った。 「スパイダー。ちょっと」 彼は猫の様に敏捷に窓際へ跳んで行った。 「ほら」と彼女は囁いた。「変な人がいるのよ」 向側の歩道に、 丈 ( せい ) の低い頑丈な、その癖 服装 ( みなり ) の小綺麗な男が立っていた。彼は薄暗い街燈の光を身に浴びながら時々それとなく 此方 ( こっち ) の窓を見上げて、切りにパイプを 燻 ( くゆ ) らしていた。 「ありゃマシュースだ」スパイダーの顔には 在々 ( ありあり ) と恐怖の色が現われた。 併しサディには何の事か分らなかった。 「マシュースというと――あの、探偵のマシュース? 落付かなけりゃ駄目よ。そして皆んな話して頂戴。あんたは今夜仕事をしたのでしょう」 だが、スパイダーはサディの言葉には耳を貸さなかった。彼は強い酒を立て続けにあおった。然し酒は彼の憤怒を強めたに過ぎなかった。彼は顎を突出し眼に嫌悪の表情を浮べて平気を装おうとしたが、全身の 顫 ( ふる ) えを打消すことは出来なかった。 「奴はあそこで何をしてやがんだろう?」彼は壜を棚に置こうとして危く落す所だった。 「マシュースは何も知ってやしない。あんな奴に捕ってたまるもんか。おい、サディ。お前、まさか俺を売りやしないだろうな」 「 莫迦 ( ばか ) なことを云っちゃ嫌だわ。そんな事誰がするもんですか。妾には何の 為 ( た ) めか分らないけれど、あんた今夜は嘘をついてるわね。だけど若しマシュースが来ると困るから、打合せだけはして置きましょうよ。妾は何と云ったらいいの? さあ元気を出して――もう 直 ( じ ) きに此処へ来ることよ」 「まあ、いいさ。俺には考えがある――」と彼は云った「マシュースは俺が巧くやるよ。 兎 ( と ) に 角 ( かく ) もう一杯ついでくれ。奴が変にからんで来たって、俺にぁ――」 その時 扉 ( ドア ) を叩く音がしたのでスパイダーは言葉を途切らせた。彼は 坐勢 ( いずまい ) を正し 昂奮 ( たかぶ ) った神経を静めようとした。そして 漸 ( ようや ) くのことで平静に返った時、サディの開いた扉からマシュース探偵が這入って来た。 「よう、スパイダー。丁度前を通り掛ったから、少しお喋りしようと思って寄ったよ」 マシュースは自分で椅子を引寄せると悠々とパイプに煙草をつめ眼尻に皺をよせてにっと笑って見せた。 スパイダーは濛々たる紫煙の間から探偵を見詰めて神経質に巻煙草を吹かしていた。そして苦虫を噛みつぶした様な顔をして黙り込んでいた。 「マッチはないかね。このパイプはほんとにマッチ喰いだ」マシュースは然う云いながらも 周囲 ( ぐるり ) の物に鋭く眼を働かせていた。そしてスパイダーが渋々差出したマッチを受取ると、 「今夜は莫迦に御機嫌が悪いじゃないか。え、スパイダー」探偵はスパイダーの黙っているのには無頓着に、にやりとした「サディと喧嘩でもしたのかね。そんな事は早く仲直りした方がいいよ。こじらすと始末が悪いからね」 彼はくつくつと笑った。 「時に近頃はサディとドルガンのお揃いの所をよ