戦争医学の汚辱にふれて — 平光吾一
運命の電話 古傷を抉られる――という言葉がある。恰も「文学界」誌上に発表された遠藤周作氏の『海と毒薬』という小説を読んだ時、私は全く自分等の古い傷痕を抉られたような心境だった。 というのは、この小説が戦争犯罪人というレッテルと、重労働二十五年という刑罰を私に下した、所謂九大生体解剖事件 (実際は相川事件という) を刻明に描写していたからである。 人間を生きたまま解剖する――平和な今日では想像も出来ぬような残酷にして戦慄すべき出来事がほんとうにあったのだろうか。日本の上下をあげて敗戦に追いつめられた時代相と異常な戦闘生態における人間心理が交錯して生れた悲しむべき戦争悪の一面を語る「事実」なのである。 生体解剖事件とは、昭和二十年五月から六月にかけて、本土空襲で捕縛せられたB 29 搭乗員若干名を、九大医学部の一部に於いて、西部軍監視の下に医学上の実験材料にした事件だった。 実験の主な目的は、多くの参考人の言から綜合すると、人間は血液をどの程度に失えば死ぬのか、血液の代用として生理的食塩水をどれ程注入することができるか、どれだけ肺を切りとることが可能か、人脳の切開はどこまでいけるか、心臓の手術は如何、というようなことらしかった。らしかった、というのは、この事件の主役として執刀した石山福次郎第一外科部長が、事件取調べ中に自決してしまったからである。死者に口なしである。その上残念なことには何一つの記録も残されなかった。また私自身、事件には連坐したものの、この手術に直接タッチしたわけではなかった。それ故、この手記はいわば、生体解剖事件傍役の弁ということになる。 日ははっきりと憶えていない。とにかく昭和二十年五月上旬、どんよりと重く曇った午後のことだった。 当時、九大医学部の解剖学主任教授をしていた私の研究室に、突然、石山教授から電話がかかってきた。石山氏から電話を受けたことの少かった私は、何事か、と思ってすぐ用向きを聞くと、彼は、西部軍の依頼命令で明日、米軍飛行士の捕虜負傷者を手術したいから、空いている大きい解剖室を貸してもらいたい、という。 「外科病棟の手術室を、何故使わないんだ?」 「いや、それには一寸わけがあってね。」 「しかし、きみ……」 電話は、私の声を待たずに切れてしまった。 私は奇異な感じを抱いたが、そこへ、ひょっこり当の石山氏がやってきた。真白い手術衣を着た彼は、度の強い近眼鏡の下で眼をパチパチさせ、部屋においてある私の標本を手にとっていじくりながら、低い声で言った。 「電話では言いにくいので出てきたんですが、実は、こちらの大きい解剖室が空いていると聞いたもので、それを貸してもらいたいんです。タイル張りで、窓も多く、水も温水も出るということですから、手術には間に合いますよ。このことは、いま病理の方へ廻って、大野君にも了解を得てきました。」 「軍のために解剖教室を使用することをですか?」 「そうです。大野君は軍の用なら仕方あるまい。一応平光君に話を通しておけば、いいだろうといってます。」 大野君というのは、当時九大の医学部長大野章三教授のことである。私はこの申出に対して、医学部全体を監理し、建物の使用及び保管の責任を負っている慎重居士の大野部長が既に許可を与えているのなら、間違いはあるまいと思った。 「いいだろう。使い給え。だが、あの空室には照明設備はあるが、外科手術に必要な消毒施設はないですよ。」 「いや、そのことでしたら心配しないで下さい。手術用の器材も人間も全部こちらで準備しますから……。」 「そうですか、しかし、何故解剖教室を今度に限って、使用するのかね?」 私は抱いている不審の答えを石山教授に求めた。彼はそれが癖らしい瞼を痙攣させながら、 「時がそうさせるんです。考えてもみて下さい。僕の病棟はB 29 で傷つけられた患者で溢れています。患者たちが揃って憎悪と敵愾心を抱いているB 29 搭乗員負傷者の手術を、その病棟内の手術室で行うことが、どれほど危険なことか、平光君にも解ってもらえると思うのです。とにかく明日はよろしくお願いします。」 それだけ言うと、彼は黙って出て行った。 異様な手術室の光景 しかし、翌日になると、石山教授は来ず、手術も行われなかった。 私は、何かの事情で手術は中止されたものと思い込み、それっきりそのことは忘れてしまった。 ところが、それから四、五日後のことであった。久留米医専への出張講義から帰ってきた私が一服していると、高田という小使が慌ただしく駈け込んできた。彼はさも大事件が起ったかの如く、 「先生、大変ですよ、教室に陸軍の将校が大勢きて、いまアメリカの捕虜を手術しています。」 これを聞いて私はびっくりした。約束した日に来ないで、留守中に突然やってきて勝手に教室を使用している、これでは空巣狙いと同じではないか、と思った。 彼らの顔を見るのも好ましくなかったが、教室の責任者としてはそうもいかず、私は手術室の様子を見に行った。 すると、廊下に一人の兵隊が立っていた。銃剣を下げ、一見して手術現場付近に外部の者を立入らせない警固兵であることがわかった。仰々しいな、と思いながらも、私は自分の職責から無雑作に、手術室のドアを開けた。 室内は異様な光景だった。中央におかれてある手術台を、顔の半ばをマスクで覆った白衣の外科医たちが囲んでいるのは、いつもの手術のそれと少しも変ってはいなかったが、そのまわりを数人の将校がとり巻いて、何か不思議な見世物でも見学しているような好奇心の瞳を光らし、執刀者の手元を注視している。然しまた窓際にぼんやり立っている者もいる。彼らのなかには金モールの参謀肩章をつけた将校も二、三人いた。 捕虜負傷者の手術を行うのに、これだけ大勢の軍人が立会うのは、どういうわけかと私はふたゝび不審な気を起した。しかし人垣の後から肩ごしに見るだけでは、委しいことはわからず、また私自身、基礎医学の専攻者であった故か、その頃臨床的な外科手術には興味もなかったので、一瞥したのみで引き上げようとした。 その時、執刀中の石山教授は、私の姿に気づいたのか、他の者に手術を任せてやってきた。そして血に汚れた手を差出すと、立会っていた参謀将校の一人を私に紹介した。 「こちらが西部軍の佐藤吉直大佐です。」 見ると、眼の鋭い堂々たる偉丈夫だった。後で述べるが、彼は生体解剖事件の中心人物であったのだ。しかし、そんなこととは少しも知らぬ私は、「平光ですが……」と簡単に挨拶すると、そのまま立ち去ってしまった。 生体解剖の全貌 石山教授による米軍飛行士捕虜の手術はその後も三回解剖教室で行われそのいずれにも西部軍参謀将校が立会ったということだ。確か二回目の手術の時だったかと思う。頭蓋の切開手術をしていた石山氏は突然私にこう質問したことがあった。 「黒質(Substantia nigra)の位置はどの辺にあったのですか?」 これは、癲癇の発作が、間脳の下にある脳の黒質細胞に刺戟を加えると起るという学説があったので、石山氏がそこを手術すれば癲癇治療に役立つと思い、私に相談をしたわけであったらしい。 私は口で説明したが、彼は解らないという。そこで、脳の固定標本を持参して指示したことがあった。 この時の私の行動が、私を石山氏の顧問(Adviser)として検事に重く認められ、逃れられぬ罪状の一面に加えられたのだった。しかし、これは後日裁判が始まってから知ったことである。 私が手術に助言したのは、この時一回きりであり、私が見た範囲ではいつの時でも患者は生きていた。患者が死ぬまで、検事の言によれば殺されるまで見ていたら、私の感概と印象はもっと別なものであったに違いない。私には石山氏が日常普通の手術をやっていたというより他に記憶はなかった。横浜の法廷に出て初めて、この手術が生体解剖(Vivisection)であったと検事の口から聞かされ愕然としたのだった。 石山教授が如何なる「手術」を米軍捕虜に行ったのか、私の見た限りでは第二回目に脳の手術を行っていたということ位である。石山教授自身も僅かに第一回目には右肺切除の手術を行ったという口供書しか残していない。それ以外の「手術」の内容は、前述した如く本人が米軍に逮捕されてから間もなく自殺したため、他の参考人たちの口供書から推察するよりほかに知る由がなかった。 検事の論告では「彼は外科学の大家として更に自分の技倆と学術を誇示せんがために世紀の大手術を計画し、遂行した」と断じ、「八名の捕虜に前もって麻酔をかけた上、手術台にのせ、肺、脳、胃、心臓に関して手術が行われ、一人の犠牲者に二回以上の手術が行われたこともある。また血漿の代りに塩水の注射が可能かどうかの実験も一回行われた」と述べている。 さらに、解剖学助教授だった田中克己氏の口供書によれば、「第一回の手術は、二十三才位の背の高い赤毛の捕虜一名に対して行われた。彼はエーテル麻酔をかけられた時、治療されるものと信じ、執刀する石山教授に『ありがとう』と礼をいっていた。が、肺臓切開が約三十分行われて、死亡した。私は標本が欲しかったので、腸、肝臓などを切り取った。第二回は三人だった。第三回は二人、四回目も二人で、計八名が手術解剖された。また捕虜のうち一名は塩水注射で死亡したということだ。」と語っている。 この他、生体解剖現場を目撃した数多くの立会人の証言を私は法廷で聞かされたが、大体以上のような手術、実験以外のものは行われなかったことを知った。 「世紀の手術」の目的 この結果、私は石山教授の「手術」が恐らく二つの目的から行われたのではなかろうか、と考えた。一つは軍陣医学を進めるためのものであり、他の一つは在来の外科医学では研究未到達な面を解明することにおいたということである。 血漿の代りに塩水の注射が可能かどうかとの実験を行ったということだが、これは戦争医学にどうしても欠くことの出来ない要請なのである。戦争医学の課題は輸血面の解決にあるといってもよいと思う。血漿の無い、または、不足がちの戦場で、輸血を必要とする患者にどの程度まで、代用血漿に当てられた塩水を注入することができるか、これは人体の場合、約二リットル位までは可能だろうという極めて瞹昧な答えしか、当時は得られていなかった。 また、心臓、脳、全肺切除手術などは、今日でこそ各方面の外科医が行っているが、十数年前の当時では、検事の論告通り「世紀の大手術」であった。と同時に、この三点は外科医学の最大の研究課題でもあった。たとえば、肺手術だ。成形手術より更に望ましい肺の切除方法を、より効果的に進めるための人体手術は、外科医ならどうしてもやって見たい問題だったと思う。 検事は、法廷で「この事件は何も学問的に価値あることは行っておらず、徒らに捕虜を虐殺した」と論じている。しかし事実は、肺臓全摘出とか、現在行われている方法の心臓手術の研究、さらに癲癇療法のための脳切開など、当時の外科医が願望した外科療法の課題に、石山教授は文字通り世紀のメスを振ったのである。彼のとった手段はやり過ぎだったとしても、決して捕虜を徒殺したわけではなかった。たゞ惜しむらくは、この手術に関する記録を全く残しておかなかったことである。第二次大戦中ドイツのブラントという博士は、石山氏と同じく捕虜に対する実験手術を行い、その助手と共に絞首刑に処せられたが、彼はその時の研究記録一切を残していた。そのため、戦後のドイツ外科医学は、それによって大いに向上したという例があるからである。また、古い話だが動脈の中には空気、静脈には血液が流れているという定説に対して、動脈にも血液が流れていることを発見して一六二八年に発表したイギリス人、ウィリアム・ハーヴェーも家畜の生体解剖から始めて、矢張り敵側の捕虜負傷者を戦争中に生体解剖したらしいのである。 医学の進歩は、その歴史を省みる時、このような戦争中の機会を利用してなされていることが多いのだ。生体解剖それ自体の行為は勿論許されるべきものではない。しかし、その許されざる手術を敢えて犯した勇気ある石山教授が、自殺前せめて一片の研究記録なりとも遺しておいてくれたら、医学の進歩にどれ程役立ったことだろうか。犠牲者の霊も幾分なりと浮ばれたであろう。 石山教授の人物観 余談に走ったが、ここで私は何故このような事件が九大医学部を舞台にして起ったかに話を進めようと思うが、その前に石山教授の人物に触れておきたい。 石山氏は当時五十余才であったが、胆石の研究家として知られていた。胆石の手術はどの外科医でもやることだが、彼は胆嚢の中にたまる石を化学分析したり、レントゲン分析して、どうして石が固まるのか、また石が胆管を通して腸内に出てくる生理的な問題に取組んでいた。石山外科の若い医師たちは「オヤジの機嫌がいい時は、必ず変った石を取り出して、いじっている時だからね。オヤジにすりゃ胆石はダイヤみたいなものなんだ」と他の医局員によく話していた。 難しい手術は全部自ら執刀するので、教授間ではワンマンとか横暴だという声もあったが、それだけに研究心の強い人だった。 私が石山教授は偉い男だったと沁々思うのは、彼に直属する助教授、助手といった弟子たちが、いずれも事件に関与したため戦犯となり、私同様巣鴨獄中の人となったが、入所中私はその誰からも一度として彼を恨む声を聞かなかったことである。とかく人間というものは、不幸の場におかれると、つい愚痴や恨み言を吐きたがるものだが、彼の弟子たちは獄中に入ってもなお揃って石山氏を尊敬し、愛している言動に接したことを私は今も強く印象に残している。 石山教授が自殺したのは、昭和二十一年七月十六日の夜であった。そのころ事件関係者は全部福岡の土手町刑務所に入られていたが、彼はその一室で縊死したのである。服のポケットから皺くちゃの塵紙に鉛筆で書かれた遺書が発見された。おそらく自決当夜にしたゝめたものらしい。 一切は軍の命令 責任は余にあり 鳥巣森 森本 仙波 筒井 余の命令にて動く 願わくば速やかに釈放され度 十二時 平光君すまぬ (原文のまゝ) 遺書に誌された人名は石山氏の「手術」を補佐した彼の弟子と、看護婦 (筒井) たちである。彼は全部の責任を自分が負う意志を示したが、米軍事法廷は遺書に証言の価値なしと断じた。そして、彼の遺志は無視され、却って他の連累者に彼の罪が配分される結果になってしまった。 ところで、遺書にある如く生体解剖の軍命令が石山教授の許にきたのは、どういうこと