Taiheiki — Anonymous
太平記 太平記 書誌情報 姉妹プロジェクト:Wikipediaの記事, 引用集, データ項目 『太平記』(たいへいき)は、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。全40巻。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。— ウィキペディア日本語版「太平記」より。 巻第一 巻第二 巻第三 巻第四 巻第五 巻第六 巻第七 巻第八 巻第九 巻第十 巻第十一 巻第十二 巻第十三 巻第十四 巻第十五 巻第十六 巻第十七 巻第十八 巻第十九 巻第二十 巻第二十一 巻第二十二 巻第二十三 巻第二十四 巻第二十五 巻第二十六 巻第二十七 巻第二十八 巻第二十九 巻第三十 巻第三十一 巻第三十二 巻第三十三 巻第三十四 巻第三十五 巻第三十六 巻第三十七 巻第三十八 巻第三十九 巻第四十 巻第一 巻第二 → 太平記 巻第一 巻第一 序 蒙窃採古今之変化、察安危之来由、覆而無外天之徳也。明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。其道違則雖有威不久。曾聴趙高刑咸陽、禄山亡鳳翔。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。 1 後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事 爰に本朝人皇の始、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇に当て、武臣相摸守平高時と云者あり。此時上乖君之徳、下失臣之礼。従之四海大に乱て、一日も未安。狼煙翳天、鯢波動地、至今四十余年。一人而不得富春秋。万民無所措手足。倩尋其濫觴者、匪啻禍一朝一夕之故。元暦年中に鎌倉の右大将頼朝卿、追討平家而有其功之時、後白河院叡感之余に、被補六十六箇国之総追補使。従是武家始て諸国に守護を立、庄園に地頭を置。彼頼朝の長男左衛門督頼家、次男右大臣実朝公、相続で皆征夷将軍の武将に備る。是を号三代将軍。然を頼家卿は為実朝討れ、実朝は頼家の子為悪禅師公暁討れて、父子三代僅に四十二年にして而尽ぬ。其後頼朝卿の舅、遠江守平時政子息、前陸奥守義時、自然に執天下権柄勢漸欲覆四海。此時の大上天皇は、後鳥羽院也。武威振下、朝憲廃上事歎思召て、義時を亡さんとし給しに、承久の乱出来て、天下暫も静ならず。遂に旌旗日に掠て、宇治・勢多にして相戦ふ。其戦未終一日、官軍忽に敗北せしかば、後鳥羽院は隠岐国へ遷されさせ給て、義時弥八荒を掌に握る。其より後武蔵守泰時・修理亮時氏・武蔵守経時・相摸守時頼・左馬権頭時宗・相摸守貞時、相続で七代、政武家より出で、徳窮民を撫するに足り、威万人の上に被といへ共、位四品の際を不越、謙に居て仁恩を施し、己を責て礼義を正す。是を以て高しと云ども危からず、盈りと云ども溢れず。承久より以来、儲王摂家の間に、理世安民の器に相当り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉て、征夷将軍と仰で、武臣皆拝趨の礼を事とす。同三年に、始て洛中に両人の一族を居て、両六波羅と号して、西国の沙汰を執行せ、京都の警衛に備らる。又永仁元年より、鎮西に一人の探題を下し、九州の成敗を司しめ、異賊襲来の守を堅す。されば一天下、普彼下知に不随と云処もなく、四海の外も、均く其権勢に服せずと云者は無りけり。朝陽不犯ども、残星光を奪る、習なれば、必しも、武家より公家を蔑し奉としもは無れども、所には地頭強して、領家は弱、国には守護重して、国司は軽。此故に朝廷は年々に衰、武家は日々に盛也。因茲代々の聖主、遠くは承久の宸襟を休めんが為、近くは朝議の陵廃を歎き思食て、東夷を亡さばやと、常に叡慮を回されしかども、或は勢微にして不叶、或は時未到して、黙止給ひける処に、時政九代の後胤、前相摸守平高時入道崇鑒が代に至て、天地命を革むべき危機云顕れたり。倩古を引て今を視に、行跡甚軽して人の嘲を不顧、政道不正して民の弊を不思、唯日夜に逸遊を事として、前烈を地下に羞しめ、朝暮に奇物を翫て、傾廃を生前に致さんとす。衛の懿公が鶴を乗せし楽早尽き、秦の李斯が犬を牽し恨今に来なんとす。見人眉を顰め、聴人唇を翻す。此時の帝後醍醐天王と申せしは、後宇多院の第二の皇子、談天門院の御腹にて御座せしを、相摸守が計として、御年三十一の時、御位に即奉る。御在位之間、内には三綱五常の儀を正して、周公孔子の道に順、外には万機百司の政不怠給、延喜天暦の跡を追れしかば、四海風を望で悦び、万民徳に帰して楽む。凡諸道の廃たるを興し、一事の善をも被賞しかば、寺社禅律の繁昌、爰に時を得、顕密儒道の碩才も、皆望を達せり。誠に天に受たる聖主、地に奉ぜる明君也と、其徳を称じ、其化に誇らぬ者は無りけり。 2 関所停止事 夫四境七道の関所は、国の大禁を知しめ、時の非常を誡んが為也。然に今壟断の利に依て、商売往来の弊、年貢運送の煩ありとて、大津・葛葉の外は、悉く所々の新関を止らる。又元亨元年の夏、大旱地を枯て、田服の外百里の間、空く赤土のみ有て、青苗無し。餓■野に満て、飢人地に倒る。此年銭三百を以て、粟一斗を買。君遥に天下の飢饉を聞召て、朕不徳あらば、天予一人を罪すべし。黎民何の咎有てか、此災に逢ると、自帝徳の天に背ける事を歎き思召て、朝餉の供御を止られて、飢人窮民の施行に引れけるこそ難有けれ。是も猶万民の飢を助くべきに非ずとて、検非違使の別当に仰て、当時富祐の輩が、利倍の為に畜積る米穀を点検して、二条町に仮屋を建られ、検使自断て、直を定て売せらる。されば商買共に利を得て、人皆九年の畜有が如し。訴訟の人出来の時、若下情上に達せざる事もやあらんとて、記録所へ出御成て、直に訴を聞召明め、理非を決断せられしかば、虞■の訴忽に停て、刑鞭も朽はて、諌鼓も撃人無りけり。誠に理世安民の政、若機巧に付て是を見ば、命世亜聖の才とも称じつべし。惟恨らくは斉桓覇を行、楚人弓を遺しに、叡慮少き似たる事を。是則所以草創雖合一天守文不越三載也。 3 立后事付三位殿御局事 文保二年八月三日、後西園寺大政大臣実兼公の御女、后妃の位に備て、弘徽殿に入せ給ふ。此家に女御を立られたる事已に五代、是も承久以後、相摸守代々西園寺の家を尊崇せしかば、一家の繁昌恰天下の耳目を驚せり。君も関東の聞へ可然と思食て、取分立后の御沙汰も有けるにや。御齢已に二八にして、金鶏障の下に傅れて、玉楼殿の内に入給へば、夭桃の春を傷る粧ひ、垂柳の風を含る御形、毛■・西施も面を恥、絳樹・青琴も鏡を掩ふ程なれば、君の御覚も定て類あらじと覚へしに、君恩葉よりも薄かりしかば、一生空く玉顔に近かせ給はず。深宮の中に向て、春の日の暮難き事を歎き、秋の夜の長恨に沈ませ給ふ。金屋に人無して、皎々たる残燈の壁に背ける影、薫篭に香消て、蕭々たる暗雨の窓を打声、物毎に皆御泪を添る媒と成れり。「人生勿作婦人身、百年苦楽因他人。」と、白楽天が書たりしも、理也と覚たり。其比安野中将公廉の女に、三位殿の局と申ける女房、中宮の御方に候れけるを、君一度御覧ぜられて、他に異なる御覚あり。三千の寵愛一身に在しかば、六宮の粉黛は、顔色無が如也。都て三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一女御・曁後宮の美人・楽府の妓女と云へども、天子顧眄の御心を付られず。只殊艶尤態の独能是を致のみに非ず、蓋し善巧便佞叡旨に先て、奇を争しかば、花の下の春の遊、月の前の秋の宴、駕すれば輦を共にし、幸すれば席を専にし給ふ。是より君王朝政をし給はず。忽に准后の宣旨を下されしかば、人皆皇后元妃の思をなせり。驚見る、光彩の始て門戸に生ることを。此時天の人、男を生む事を軽じて、女を生む事を重ぜり。されば御前の評定、雑訴の御沙汰までも、准后の御口入とだに云てげれば、上卿も忠なきに賞を与、奉行も理有を非とせり。関雎は楽而不淫、哀而不傷。詩人採て后妃の徳とす。奈何かせん、傾城傾国の乱今に有ぬと覚て、浅増かりし事共也。 4 儲王御事 螽斯の化行れて、皇后元妃の外、君恩に誇る官女、甚多かりければ、宮々次第に御誕生有て、十六人までぞ御座しける。中にも第一宮尊良親王は、御子左大納言為世卿女、贈従三位為子の御腹にて御坐しを、吉田内大臣定房公養君にし奉しかば、志学の歳の始より、六義の道に長じさせ給へり。されば富緒河の清き流を汲、浅香山の故き跡を蹈で、嘯風弄月に御心を傷め給ふ。第二宮も同御腹にてぞ御坐しける。総角の御時より妙法院の門跡に御入室有て、釈氏の教を受させ給ふ。是も瑜伽三密の間には、歌道数奇の御翫有しかば、高祖大師の旧業にも不恥、慈鎮和尚の風雅にも越たり。第三宮は民部卿三位殿の御腹也。御幼稚の時より、利根聡明に御坐せしかば、君御位をば此宮に社と思食したりしかども、御治世は大覚寺殿と持明院殿と、代々持せ給べしと、後嵯峨院の御時より被定しかば、今度の春宮をば持明院殿御方に立進せらる。天下の事小大となく、関東の計として、叡慮にも任られざりしかば、御元服の義を改られ、梨本の門跡に御入室有て、承鎮親王の御門弟と成せ給ひて、一を聞て十を悟る御器量、世に又類も無りしかば、一実円頓の花匂を、荊渓の風に薫じ、三諦即是の月の光を、玉泉の流に浸せり。されば消なんとする法燈を挑げ、絶なんとする恵命を継んこと、只此門主の御時なるべしと、一山掌を合せて悦、九院首を傾て仰奉る。第四の宮も同御腹にてぞをはしける。是は聖護院二品親王の御附弟にてをはせしかば、法水を三井の流に汲、記■を慈尊の暁に期し給ふ。此外儲君儲王の選、竹苑椒庭の備、誠に王業再興の運、福祚長久基、時を得たりとぞ見へたりける。 5 中宮御産御祈之事付俊基偽篭居事 元亨二年の春の比より、中宮懐姙の御祈とて、諸寺・諸山の貴僧・高僧に仰て様々の大法・秘法を行はせらる。中にも法勝寺の円観上人、小野文観僧正二人は、別勅を承て、金闕に壇を構、玉体に近き奉て、肝胆を砕てぞ祈られける。仏眼、金輪、五壇の法・一宿五反孔雀経・七仏薬師熾盛光・烏蒭沙摩、変成男子の法・五大虚空蔵・六観音・六字訶臨、訶利帝母・八字文殊、普賢延命、金剛童子の法、護摩煙は内苑に満、振鈴の声は掖殿に響て、何なる悪魔怨霊なりとも、障碍を難成とぞ見へたりける。加様に功を積、日を重て、御祈の精誠を尽されけれども、三年まで曾て御産の御事は無りけり。後に子細を尋れば、関東調伏の為に、事を中宮の御産に寄て、加様に秘法を修せられけると也。是程の重事を思食立事なれば、諸臣の異見をも窺ひ度思召けれども、事多聞に及ばゝ、武家に漏れ聞る事や有んと、憚り思召れける間、深慮智化の老臣、近侍の人々にも仰合らるゝ事もなし。只日野中納言資朝・蔵人右少弁俊基・四条中納言隆資・尹大納言師賢・平宰相成輔計に、潛に仰合られて、さりぬべき兵を召けるに、錦織の判官代、足助次郎重成、南都北嶺の衆徒、少々勅定に応じてげり。彼俊基は累葉の儒業を継で、才学優長成しかば、顕職に召仕れて、官蘭台に至り、職々事を司れり。然る間出仕事繁して、籌策に隙無りければ、何にもして暫篭居して、謀叛の計畧を回さんと思ける処に、山門横川の衆徒、款状を捧て、禁庭に訴る事あり。俊基彼奏状を披て読申れけるが、読誤りたる体にて、楞厳院を慢厳院とぞ読たりける。座中の諸卿是を聞て目を合て、「相の字をば、篇に付ても作に付ても、もくとこそ読べかりける。」と、掌を拍てぞ笑はれける。俊基大に恥たる気色にて、面を赤て退出す。夫より恥辱に逢て、篭居すと披露して、半年計出仕を止、山臥の形に身を易て、大和・河内に行て、城郭に成ぬべき処々を見置、東国・西国に下て、国の風俗、人の分限をぞ窺見られける。 6 無礼講事付玄恵文談事 爰に美濃国住人、土岐伯耆十郎頼貞・多治見四郎次郎国長と云者あり。共に清和源氏の後胤として、武勇の聞へありければ、資朝卿様々の縁を尋て、眤び近かれ、朋友の交已に浅からざりけれども、是程の一大事を無左右知せん事、如何か有べからんと思はれければ、猶も能々其心を窺見ん為に、無礼講と云事をぞ始られける。其人数には、尹大納言師賢・四条中納言隆資・洞院左衛門督実世・蔵人右少弁俊基・伊達三位房游雅・聖護院庁の法眼玄基・足助次郎重成・多治見四郎次郎国長等也。其交会遊宴の体、見聞耳目を驚せり。献盃の次第、上下を云はず、男は烏帽子を脱で髻を放ち、法師は衣を不着して白衣になり、年十七八なる女の、盻形優に、膚殊に清らかなるをに十余人、褊の単へ計を着せて、酌を取せければ、雪の膚すき通て、大液の芙蓉新に水を出たるに異ならず。山海の珍物を尽し、旨酒泉の如くに湛て、遊戯舞歌ふ。其間には只東夷を可亡企の外は他事なし。其事と無く、常に会交せば、人の思咎むる事もや有んとて、事を文談に寄んが為に、其比才覚無双の聞へありける玄恵法印と云文者を請じて、昌黎文集の談義をぞ行せける。彼法印謀叛の企とは夢にも不知、会合の日毎に、其席に臨で玄を談じ理を折。彼文集の中に、「昌黎赴潮州」と云長篇有り。此処に至て、談義を聞人々、「是皆不吉の書なりけり。呉子・孫子・六韜・三略なんど社、可然当用の文なれ。」とて、昌黎文集の談義を止てげり。此韓昌黎と申は、晩唐の季に出て、文才優長の人なりけり。詩は杜子美・李太白に肩を双べ、文章は漢・魏・晋・宋の間に傑出せり。昌黎が猶子韓湘と云者あり。是は文字をも嗜ず、詩篇にも携らず、只道士の術を学で、無為を業とし、無事を事とす。或時昌黎韓湘に向て申けるは、「汝天地の中に化生して、仁義の外に逍遥す。是君子の恥処、小人の専とする処也。我常に汝が為に是を悲むこと切也。と教訓しければ、韓湘大にあざ笑て、「仁義は大道の廃たる処に出、学教は大偽の起時に盛也。吾無為の境に優遊して、是非の外に自得す。されば真宰の臂を掣て、壷中に天地を蔵し、造化の工を奪て、橘裡に山川を峙つ。却て悲らくは、公の只古人の糟粕を甘て、空く一生を区々の中に誤る事を。」と答ければ、昌黎重曰、「汝が所言我未信、今則造化の工を奪事を得てんや。」と問に、韓湘答事無して、前に置たる瑠璃の盆を打覆て、軈て又引仰向けたるを見れば、忽に碧玉の牡丹の花の嬋娟たる一枝あり。昌黎驚て是を見に、花中に金字に書る一聯の句有り。「雲横秦嶺家何在、雪擁藍関馬不前。云云。」昌黎不思儀の思を成して、是を読で一唱三嘆するに、句の優美遠長なる体製のみ有て、其趣向落着の所を難知。手に採て是を見んとすれば、忽然として消失ぬ。是よりしてこそ、韓湘仙術の道を得たりとは、天下の人に知られけれ。其後昌黎仏法を破て、儒教を貴べき由、奏状を奉