Ōkagami — Anonymous
大鏡 (國文大觀) 他の版の作品については、大鏡をご覧ください。 大鏡 (國文大觀) 國文大觀 歷史部壹 四鏡 底本: 丸岡桂, 松下大三郎 共編『国文大観』歴史部1 四鏡,板倉屋書房,明治36. 国立国会図書館デジタルコレクション :info:ndljp/pid/991359 大鏡 大鏡卷之一 五十五 文德天皇 五十六 淸和天皇 五十七 陽成院 五十八 光孝天皇 五十九 宇多院 六十 醍醐天皇 六十一 朱雀院 六十二 村上天皇 六十三 冷泉院 六十四 圓融院 六十五 花山院 六十六 一條院 六十七 三條院 六十八 後一條院 さいつころ雲林院の菩提講にまうでゝ侍りしかば、例の人よりはこよなく年老いうたてげなる翁二人おんなときあひて同じところにゐぬめり。哀に同じやうなるものゝさまかなと見侍りしに、これらうち笑ひ見かはしていふやう「「年ごろむかしの人に對面していかで世の中の見聞く事どもをきこえあはせむ、この唯今の入道殿下の御有樣をも申しあはせばやとおもひしに、あはれに嬉しくも逢ひ申したるかな。今ぞ心やすくよみぢもまかるべき。おぼしき事いはぬはげにぞ腹ふくるゝ心ちしける。かゝればこそ昔の人は物いはまほしくなれ ば穴を堀りてはいひいれ侍りけめとおぼえ侍る。返す返す嬉しく對面したるかな。さてもいくつにかなり給ひぬる」」といへば、今一人の翁、「「いくつといふことも更に覺え侍らず。たゞしおのれは故太政のおとゞ貞信公の、藏人の少將と申しゝ折の小舍人わらは大犬丸ぞかし。ぬしはその御時の母の后の宮の御方のめしつかひ、かう名のおほやけのよつぎとぞいひ侍りしかしな。さればぬしのみとしはおのれにはこよなくまさり奉らむかし。みづからはこわらはにてありし時、ぬしは廿五六ばかりのをのこにてこそはいませ 〈如元〉 しか」」といふめれば、世繼「「しかしか、さ侍りしことなり。さてもぬしのみ名はいかにぞや」」といふめれば、「「故太政大臣殿にて元服仕うまつりし時、きんぢが姓は何ぞと仰せられしかば夏山となむ申すと申しゝを、やがてしげきとなむつけさせ給へりし」」などいふに、いとあさましくなりぬ。誰も少しよろしきものどもは見おこせゐよりなどしけり。年二十ばかりなるなまさぶらひめきたるものゝ、せちに近く寄りて、「「いでいと興ある事いふらうざたちよな。更にこそ信ぜられね」」といへば、翁二人見かはしてあざわらふ。繁樹となのるがかたざまに見やりて、「「ぬしはいくつといふ事覺えずといふめり。この翁どもは覺え給ふや」」と問へば「「更にもあらず。一百五十歲にぞ今年はなり侍りぬる。されば繁樹は百四十には及びさふらふらめ 〈如元〉 」」とやさしく申すなり。「「おのれは水の尾の御門の坐します年のむつきのもちの日生れて侍れば十三代にあひ奉りて侍るなり。けしうはさふらはぬ年なりな。まことゝ人おぼさじ。されど父がなまがくしやうにつかはれ奉りて、げらうなれどもみやこほとりといふ事も侍れば目 〈如元〉 を見たまへて うぶきぬに書きおきて侍りけるいまだ侍り。丙申の年に侍り」」といふもげにときこゆ。今ひとりに「「猶もおきなの年こそ聞かまほしけれ。生れけむ年はしりたりや。それにていとやすく數へてむ」」といふめれば、「「これはまことの親にもそひ侍らず。こと人のもとにやしなはれて十二三までそひて侍りしかば、はかばかしうも申さず。唯我は子產むわざもしらざりしに、しうの御使にいちへまかりしに、又わたくしにもぜに十貫を持ちて侍りけるに、にくげもなきちごを抱きたる女の、これ人にはなたむとおもふ、子を十人までうみて、これはし十たりの子にて、いとゞさつきにさへ生れてむづかしきなりといひ侍りければ、この持ちたる錢にかへてきにしなりと。姓は何とかいふと問ひ侍りければ夏山とは申しける。さて十二三にてぞおほき大殿には參り侍りし」」などいひて、「「さてもうれしく對面したるかな。佛の御しるしなんめり。年頃こゝ彼處の說經とのゝしれど何かはとて參ることもし侍らず、かしこくも思ひたちて參り侍りにけるが嬉しき事」」とて「「そこにおはするはそのをりの女人にやみえますらむ」」といふめれば、繁樹がいらへ、「「いでさも侍らず。それははやうせ侍りにしかば、これはその後相添ひて侍るわらはべなり。さては閣下はいかに」」といふめれば、世繼がいらへ「「それは侍りし時のなり。今日も諸共にまゐらむと出でたち侍りつれど、わらはやみをしてあたり日に侍りつれば口をしうもえ參り侍らずなりぬる」」などあはれにいひ語らひ泣くめれど、淚落つとも見えず。かくて講師侍つほどに我も人も久しうつれづれなるに、この翁どものいふやう「「いでさうざうしきにいざたまへ、むかしの物語してこのおはさふ人々に、さはいに しへの世はかくこそはありけれと聞かせ奉らむ」」といふめれば、今一人「「しかしか、いと興ある事なり。いでおぼえたまへ。時々さるべき事のさしいらへ繁樹もうちおぼえ侍らむかし」」といひて、いはむいはむと思ひたる氣色どもいつかと聞かまほしく奧ゆかしき心ちするに、そこらの人おほかりしかどものはかばかしく聞きわき、耳とゞむるもあらめど、人めにあらはれてはこのさぶらひぞよく聞かむとあとうつめりし。世繼がいふやう「「世はいかに興あるものぞや。さりとも翁こそ少々の事はおぼえ侍らめ。昔さかしき御門の御まつりごとのをりは國の內に年老いたる翁おんなやあると召したづねて、いにしへのおきての有樣を尋ね問はしめ給ひてこそは奏する事を聞し召し合せて世の政は行はしめ給ひけれ。されば老いたる身はいとかしこきものに侍り。若き人だち覺しなあなづりそ」」とて黑がいの骨の九つあるに黃なる紙はりたる扇をさし隱して、けしきだち笑ふほどもさすがにをかし。「「まめやかには世繼が申さむと思ふ事はことごとかは。唯今の入道殿下の御ありさまの世にすぐれておはしますことを道俗男女の御前にて申さむと思ふが、いと事多くなりて、あまたの御門きさきまた大臣公卿の御上をつゞくべきなり。その中に、さいはひ人におはしますこの御有樣申さむと思ふほどに、世の中の事のかくれなくあらはるべきなり。つてにうけたまはれば、法華經一部を說き奉らむとてこそまづ四經をば說きたまひけれ。それをなづけて五時敎とはいふにこそはあなれ。しかのごとくに入道殿の御さかえを申さむと思ふほどに、よきやうの說かるゝといひつべし」」などいふもわざわざしうことごとしう聞ゆれど、いでやさりとも何ば かりの事をかと思ふに、いみじうこそいひ續け侍りしか。「「世の中の攝政關白と申し、大臣公卿と聞ゆる、いにしへ今の時の入道殿の御有樣のやうにこそはおはしますらめとぞ今やうのちごどもは思ふらむかし。されどそれさもあらぬ事なり。いひもていけば同じ種一つすぢにぞおはすめれど、かどわかれぬれば、人々の御心もちゐも又それにしたがひてことごとになりぬ。この世はじまりて後、みかどはまづ神のよ七代をおき奉りて、神武天皇を始め奉りて、當帝まで六十八代にぞならせ給ひにける。すべからくは神武天皇を始め奉りてつぎつぎの御門の御次第をおぼえ申すべきなり。しかりといへども、それはいときゝ耳遠ければ唯近きほどより申さむと思ふに侍り。文德天皇と申す御門おはしましき。その御門よりこなた、今の御門まで十四代にぞならせ給ひにける。世をかぞへ侍れば、その御門位に即かせ給ふ嘉祥三年庚午の年よりことしまでは一百七十六年ばかりにやなりぬらむ。かけまくもかしこき君の御名を申すは忝なくさふらへども」」とていひつゞけはべりき。 五十五代 〈或る本に云ふ、田邑帝と申す。〉 「「文德天皇と申しける御門は仁明天皇の御第一の皇子なり。御諱は道康、御母は太皇太后藤原順子と申しき。その后左大臣贈正一位太政大臣冬嗣のおとゞの御むすめなり。この御門天長四年丁未八月に生れ給ひて、み心あきらかに、よく人をしろしめせり。承和九年壬戌二月廿六日御元服、同年八月四日東宮に立たせたまふ。御年十六。仁明天皇、もとおはする東宮をとりてこの御門を承和九年八月四日東宮に奉らせ給へるなり。いかに安からずおぼしけむ とこそ覺え侍れ。嘉祥三年庚午三月廿一日位に即かせ給ふ。御年二十四。さて世を保たせ給ふ事九年。天安二戊刁の歲八月廿七日にうせさせ給ひぬ。御年三十二。陵、田村にあり。御母の后十九にてぞこの御門を產み奉りたまふ。嘉祥三年庚午の歲四月に后に立たせたまふ。御年四十三。齊衡元年甲戌皇太后宮にあがりゐ給ふ。貞觀三年辛巳二月廿九日御出家。 〈灌頂せさせ給へり。〉 同八年丙戌正月七日、太皇太后宮にあがりゐ給ふ。これを五條の后と申す。伊勢物語に業平の中將、「よひよひごとにうちもねなゝむ」とよみ給ひたるはこの宮の御事のやうにさふらふめる。いかなる事にか、二條の后に通ひ申されけるあひだの事とぞうけたまはり及ぶや。「春やむかしの」なども五條の后の御家と侍るは、わかぬ御中にてその宮にやしなはれ給へれば同じ所におはしけるにや。 五十六代 〈この御門御かたちめでたく御心いつくし。〉 つぎのみかど、淸和天皇と申しける。御諱惟仁、文德天皇の第四のみこなり。御母は明子 〈皇太后宮〉 とまうしき。太政大臣良房のおとゞの御むすめなり。このみかどは嘉祥三年庚午三月二十五日、母がたの御おほぢおほきおとゞの小一條の家にて、父みかどの位に即かせ給ひて五日といふ日生れ給へりけむこそいかに折さへ華やかにめでたかりけむと覺え侍れ。惟喬のみこの東宮あらそひし給へりけむもこの御事とこそ覺ゆれ。やがて生れ給へる年の十一月廿五日東宮に立ち給ひて、天安二年戊刁八月廿七日御年九歲にて位に即かせ給ふなり。貞觀六年正月七日御元服。 〈元日御元服なり。〉 御年十五なり。世をしらせ給ふ事十八年。 〈貞觀十八年十一月廿九日、染殿院にておりさせ給ふ。元慶四年十二 月四日うせさせたまふ。御歲三十一。〉 元慶三年五月八日御出家なり。水の尾の御門と申す。この御すゑぞかし、今の世に源氏の武者のぞうは。これもおほやけの御かためとこそはなるめれ。御母二十三にて此の御門をうみ奉り給へり。貞觀六年甲申正月七日、皇后宮にあがりゐ給ふ。きさいのくらいにて四十一年おはします。そめどのゝきさきとまうす。その御ときの護持僧は智證大師におはします。 〈天安二年つちのえ〉 とらの年八月廿七日にぞうせさせたまふ。みさゝきたむらといふところにあり。 〈天安以下四十二文字イ無衍歟〉 御ものゝけのかなはざりけるこそ心うくは。今生寇なり。天安二年に唐よりかへりたまへり。 五十七代 〈この御門ものぐるほしくおはしましたりといへる本あり。〉 次の御門、陽成天皇と申しき。御諱さだあきら。淸和天皇第一の皇子なり。御母は皇太后宮高子とまうしき。贈太政大臣長良のおとゞの御むすめなり。この御門、貞觀十年つちのえね十二月十六日、染殿院にて生れたまへり。同十一年つちのとのうし二月一日、二歲にて東宮に立たせ給ひて、同十八年丙申十一月廿九日に位に即かせ給ふ。御年九歲。元慶六年壬刁正月二日御元服。御年十五。世をしらせ給ふ事八年。 〈元慶八年二月四日、おりさせ給ふ。御年十七、二條院におはしましけるとぞ。〉 のかせ給ひて六十五年なれば、八十一にて天曆二年九月廿九日にかくれさせ給ふ。御法事の願文に釋迦如來の一年のこのかみとは作られたるなり。智惠深く思ひよりけむ程いとけうあれど、佛の御年よりは御年高しといふ心の後世のせめとなむなれるとこそ人の夢に見えけれ。御母后、淸和の御門よりは九年の御姉なり。廿七と申しゝとし、この陽成院をば產み奉り給へるなり。元 慶元年正月に后に立たせ給ひて中宮と申す。御年三十六。同六年壬寅正月七日、皇太后宮にあがり給ふ。御年四十一。この后の宮づかへしそめ給ひけむやうこそおぼつかなけれ。いまだよごもりておはしける時、在中將のしのびてゐてかくし奉りたりけるを御せうとの君たち、基經の大臣、國經の大納言などの若く坐しけむほどのことなりけむかし、とりかへしにおはしたりけるをり、「つまもこもれり我もこもれり」とよみ給ひたるはこの御事なれば「末の世に神代のことも」とは申しいで給ひけるぞかし。されば世のつねの御かしづきにては御覽じそめられ給はずやおはしましけむと覺え侍る。若し離れぬ御中にて染殿の宮に參り通ひなどし給ひけむほどの事にやとぞおしはからるゝ。及ばぬ身にかやうの事をさへ申すはいとかたじけなき事なれど、これは皆人のしろしめしたる事なり。いかなる人かはこの頃古今伊勢物語など覺えさせ給はぬはあらむずる。「見もせぬ人のこひしきは」など申す事もこの御中らひの程とこそはうけたまはれ。末の世まで書きおき給ひけむ、おそろしきすきものなりかしな。いかに昔はなかなかにけしきある事もをかしき事もありけるものとて」」とうち笑ふけしきことになりていとやさしげなめり。「二條の后と申すはこの御事なり。業平の中將の「よひよひごとにうちもねなゝむ」とよみ給ひたるも「春やむかしの」などもこの御事なめり。 五十八代 次の御門、光孝天皇と申しき。御諱は時康、仁明天皇の第三の王子なり。御母贈皇太后宮澤子 とまうしき。贈太政大臣總繼の大臣の御むすめなり。このみかど淳和天皇の御とき天長八年辛亥東六條の家にて生れ給ふ。御親の深草のみかどの御時、承和十三年丙寅正月七日四品し給ふ。御年十六。嘉祥三年庚午五月中務卿になりたまふ。御年二十。仁壽元年辛未十一月十一日三品にのぼり給ふ。御年二十二。貞觀六年甲申正月十六日、上野の大守かけさせたまふ。御年三十四。同八年丙戌正月十三日太宰帥に遷兼す。御年三十六。同十二年庚寅二月七日二品に昇りたまふ。御年四十。同年上野大守、同十八年丙申十二月廿六日式部卿にならせ給ふ。御年四十六。元慶六年壬刁正月七日一品にのぼらせ給ふ。御年五十二。同八年甲辰二月四日位に即きたまふ。御年五十四。世をしらせたまふこと四年。小松のみかどと申す。この御ときにふぢつぼのうへの御つぼねのくろどはあきたると聞きはべるはまことにや。 〈或本に仁和三年八月廿六日うせさせ給ふ。御とし五十八。〉 五十九代 〈この御門業平の中將と相撲とりたまひて、負けてかうらん破れたることあり。おもひ人の時なり。〉 次の御門、亭子の御門と申しき。小松の御門の第三の王子なり。御諱さだみ、御母皇太后宮いみな班子と申しき。二品式部卿贈一品太政大臣中野親王の御むすめたり。この御門、貞觀九年丁亥五月五日生れたまふ。元慶八年甲辰四月十三日源氏になり給ふ。御年十八。王侍從など聞えて、殿上人にておはしける時、殿上のごいしの前にて業平の中將とすまひとらせ給ひけ