表現の自由の限界 — Epoche C2
場面設定: モスクワ・アルバート通りのカフェ、冬の夕方。新作小説に検閲圧力を受けたロシア人作家イーゴリと、その案件を担当した元検察官ナタリアが向き合う。法と表現の境界を巡る激論は、終盤で意外な告白に至る。 ナタリアさん、あなたが現役の検察官だった頃、私の前作『沈黙の鐘』に名誉毀損の容疑で内偵が入ったとうかがっています。表現の自由は民主主義の根幹であり、いかなる名目であれ、作家の創作に司法が介入することは許されまじき行為だと、私は信じております。 イーゴリさん、お久しぶりです。表現の自由が根幹であることに異論はございません。ただ、内偵という事実関係につきましては、現役時代の守秘義務の範囲がございますので、認否は控えさせてください。一般論としてお話しいたしましょう。 では一般論として伺います。法は何をもって「表現」と「煽動」を区別しているのですか。私の知る限りでは、その境界線は驚くほど曖昧で、検察官の裁量次第でどちらにも転びうる、というのが実態ではありませんか。 裁量があることは否定いたしません。判断基準は3点ございます。第1に、特定可能な対象への直接的な行動の呼びかけがあるか。第2に、公益性の有無。第3に、文学的虚構性の度合い。これらを総合的に評価いたします。 「文学的虚構性の度合い」――これこそ最も恣意的な基準ではありませんか。文学を、法律家が「虚構性が低い」と判定したとあらば、それはもはや文学への評価を法廷が下すということです。シェイクスピアにせよドストエフスキーにせよ、現代の検察官の手にかかれば危険人物となりかねない。 シェイクスピアもドストエフスキーも、現代の名誉毀損法では起訴されない可能性が高いです。何故ならば、対象が一般化されているからです。問題となるのは、特定の存命の個人または団体を、虚構の体裁で攻撃する作品です。文学の鎧をまとった私的攻撃と、社会批判としての文学は、現実には別物だと申し上げざるを得ません。 「私的攻撃」と「社会批判」を司法が裁くことそのものに私は疑問を呈しているのです。読者こそが裁くべきではないか。売れない本は読者が裁き、書店から消える。それで足りるのではないでしょうか。 市場による裁定は、そう機能すれば理想的です。ただ、被害者の救済は本が売れたか売れないかとは別軸の問題です。誤った事実摘示で名誉を傷つけられた個人は、読者が買わなくなったから救われた、とはなりません。法的救済の道筋は維持される必要があるのです。 救済の必要は認めます。しかし、刑事処罰と民事救済は分けて考えるべきです。誤りに対する救済は民事訴訟と訂正報道で十分ではありませんか。刑事の網をかける限り、作家は自己検閲に陥り、書ける作品は薄まる。表現の自由が痩せる、というわけです。 刑事と民事の分離――その論点は、私も検察官時代から内心では同意していたところです。実務的には、過去5年で文学作品を巡る刑事案件のうち、確定有罪は3件、いずれも被害者が亡命作家の親族で民事的救済が事実上困難なケースです。残りは不起訴または無罪となっています。 3件のうち2件は、政治的に立場の弱い相手だったと記憶しております。検察の網は、結局のところ、抵抗できない側に重く落ちるものです。「権力者批判は無罪、亡命作家は有罪」という構造があるとすれば、それこそが司法への信頼を損ねる元凶です。 その指摘は、私が現役時代から繰り返し感じていた葛藤でございます。だからこそ、私は5年前に職を辞しました。今は法学部で「権力に抗する表現の保護」をテーマに研究をしております。建前ではなく、本心からの転身でしたの。 ……失礼いたしました、ナタリアさん。あなたを「権力の側」とのみ位置づけて議論しておりました。先ほどの3件のデータも、表に出にくい情報でしょう。私の前作も、その時期の案件として処理されていたのですか。 ええ、白状いたします。あなたの『沈黙の鐘』は、起訴相当の意見書が私の机に上がってまいりました。私は、起訴を見送りました。理由は単純です――続編が読みたかったから。検察官として恥ずべきだと申されますか?それとも、人間としては許されますか? ……権力の側にいた一人の人間が、続編が読みたいという理由で起訴を見送る。それは法治主義から見れば許されまじき判断ですが、文学から見れば、最も人間的な瞬間です。あなたが辞職された理由が、ようやく腑に落ちました。続編、書きます。あなたが最初の読者です。 光栄ですわ。ただし、続編を書かれるのであれば、ぜひ私のような元検察官を登場させてくださいね。「検察官にも読みたい本がある」、これを文学が描けばこそ、表現の自由は司法を内側から変えていく力になるのです。お代は私が。乾杯。 解説: 表現の自由を巡る論争が、権力側の元検察官の人間的告白で反転する例。「続編が読みたかったから起訴を見送った」という本音の漏れが、法と人間性の関係を一挙に開く。文学が法を内側から変える可能性を示唆する締めくくり。〜まじき・〜にせよ・〜限りでは・〜ばこそ等の上級表現が、論理と感情を架橋する。