The Tale of Genji, Chapter 40: 夕霧(二) — Murasaki Shikibu
源氏物語 帰りこし都の家に音無しの滝はおちね ど涙流るる (晶子) 恋しさのおさえられない大将はまたも 小野 ( おの ) の山荘に宮をお 訪 ( たず ) ねしようとした。四十九日の 忌 ( いみ ) も過ごしてから静かに事の運ぶようにするのがいいのであるとも知っているのであるが、それまでにまだあまりに時日があり過ぎる、もう 噂 ( うわさ ) を恐れる必要もない、この際はどの男性でも取る方法で進みさえすれば成り立ってしまう結合であろうとこんな気になっているのであるから、夫人の 嫉妬 ( しっと ) も眼中に置かなかった。宮のお心はまだ自分へ傾くことはなくても、「一夜ばかりの」といって長い契りを望んだ 御息所 ( みやすどころ ) の手紙が自分の所にある以上は、もうこの運命からお脱しになることはできないはずであると 恃 ( たの ) むところがあった。九月の十幾日であって、野山の色はあさはかな人間をさえもしみじみと悲しませているころであった。山おろしに木の葉も峰の 葛 ( くず ) の葉も争って立てる音の中から、僧の念仏の声だけが聞こえる山荘の内には人げも少なく、 蕭条 ( しょうじょう ) とした庭の 垣 ( かき ) のすぐ外には 鹿 ( しか ) が出て来たりして、山の田に百姓の鳴らす 鳴子 ( なるこ ) の音にも逃げずに、黄になった稲の中で 啼 ( な ) く声にも 愁 ( うれ ) いがあるようであった。滝の水は物思いをする人に 威嚇 ( いかく ) を与えるようにもとどろいていた。 叢 ( くさむら ) の中の虫だけが鳴き弱った 音 ( ね ) で悲しみを訴えている。枯れた草の中から 竜胆 ( りんどう ) が悠長に出て咲いているのが寒そうであることなども皆このごろの 景色 ( けしき ) として珍しくはないのであるが、 折 ( おり ) と所とが人を寂しがらせ、悲しがらせるのであった。 夕霧は例の西の妻戸の前で中へものを言い入れたのであるが、そのまま立って物思わしそうにあたりをながめていた。柔らかな気のする程度に着 馴 ( な ) らした 直衣 ( のうし ) の下に濃い紫のきれいな 擣目 ( うちめ ) の服が重なって、もう光の弱った夕日が無遠慮にさしてくるのを、まぶしそうに、そしてわざとらしくなく扇をかざして避けている手つきは女にこれだけの美しさがあればよいと思われるほどで、それでさえこうはゆかぬものをなどと思って女房たちはのぞいていた。寂しい人たちにとってはよい慰安になるであろうと思われる美しい様子で、特に名ざして少将を呼び出した。狭い縁側ではあるが、他の女がまたその後ろに聞いているかもしれぬ不安があるために、声高には話しえない大将であった。 「もう少し近くへ寄ってください。好意を持ってくれませんか、この遠方へまで御訪問して来る私の誠意を認めてくだすったら、最も親密なお取り扱いがあってしかるべきだと思いますよ。霧がとても深くおりてきますよ」 と言って、ちょっと山のほうをながめてから大将がぜひもっと近くへ来てくれと言うので、余儀なく 鈍 ( にび ) 色の 几帳 ( きちょう ) を 簾 ( すだれ ) から少し押し出すほどにして、 裾 ( すそ ) を細く巻くようにした少将は近くへ身を置いた。この人は 大和守 ( やまとのかみ ) の妹で、 御息所 ( みやすどころ ) の 姪 ( めい ) であるというほかにも、子供の時から御息所のそばで世話になっていた人であったから喪服の色は濃かった。黒を重ねた上に黒の 小袿 ( こうちぎ ) を着ていた。 「御息所のお 亡 ( かく ) れになったのを悲しむことと宮様のいつまでも御冷淡であらせられるのをお恨みするのが私の心の全部になって、ほかのことは頭にありませんから、だれからも私は怪しまれてしかたがありません。もう私に忍耐の力というものがなくなりましたよ」 これを初めにして、夕霧はいろいろと恋の苦しみを訴えた。御息所の最後の手紙に書かれてあったことも言って非常に泣く。少将もまして非常に泣く。 「その時のことでございますがね、あなた様がおいでにならぬばかりか、御自身のお返事もおもらいになれないままで暗くなってまいりますのに悲観をあそばしましてとうとう意識をお失いになりましたのに 物怪 ( もののけ ) がつけこんで、そのまま 蘇生 ( そせい ) がおできにならなかったのだと私は拝見いたしました。以前の御不幸のございました時にも、もうそんなふうにおなりになるのでないかと私どもがお案じいたしましたようなことがおりおりございましたが、宮様がお悲しみになってめいっておいであそばすのをおなだめになりたいとお思いになるお心の強さから、御健康をお持ち直しになったのでございます。あなた様についての御息所のこのお悲しみ方を宮様はただ 呆然 ( ぼうぜん ) として見ておいでになりました」 あきらめられぬようにこんなことを少将は言っていて、まだ頭はかなり混乱しているふうであった。 「そうではあっても、宮様はもう常態にお復しになってしかるべきだと思う。私に対してあまりな知らず顔をお作りになるのは、思いやりのないことではありませんか。もったいないことですが、孤独におなりになった宮様にだれがお力になるとお思いになるのだろう。法皇様はいっさい 塵界 ( じんかい ) と交渉を絶っておいでになる御生活ぶりですから、御相談事などは申し上げられないでしょう。あなたがたが熱心になって宮様の私に対する御冷酷さをお改めになるようによくお話し申し上げてください。皆宿命があって、一生孤独でいようとあそばしても、そうなって行かないということもお話し申すといい。人生が望みどおりに皆なるものであれば、この悲しい死別はなされなくてもよかったわけではありませんか」 などと夕霧は多く言うのであるが、少将は返事もできずに 歎息 ( たんそく ) ばかりしていた。 鹿 ( しか ) がひどく 啼 ( な ) くのを聞いていて、「われ劣らめや」(秋なれば山とよむまで啼く鹿にわれ劣らめや 独 ( ひと ) り 寝 ( ね ) る夜は)と 吐息 ( といき ) をついたあとで、 里遠み小野の 篠原 ( しのはら ) 分けて来てわれもしかこそ声も惜しまね と大将が言うと、 ふぢ衣露けき秋の山人は鹿のなく 音 ( ね ) に 音 ( ね ) をぞ添へつる 少将のこの返歌はよろしくもないが、低く忍んで言う 声 ( こわ ) づかいなどを優美に感じる夕霧であった。宮へいろいろとお取り次ぎもさせたが、 「この悲しみの中から自分を取りもどす日がございましたら、始終お心にかけてお尋ねくださいますお礼も申し上げられるかと思います」 と礼儀としてだけのことより宮からはお返辞がない。大将は失望して 歎 ( なげ ) きながら帰って行くのであった。途中も車の中から身にしむ秋の終わりがたの空をながめていると、十三日の月が出て暗い気持ちなどにはふさわしくないはなやかな光を地上に投げかけた。それにも誘われて一条の宮の前で車をしばらくとどめさせた。以前よりもまた荒れた気のするお 邸 ( やしき ) であった。南側の 土塀 ( どべい ) のくずれた所から中をのぞくと、大きな建物の戸は皆おろされてあって人影も見えない。月だけが前の流れに浮かんでいるのを見て、 柏木 ( かしわぎ ) がよくここで音楽の遊びなどをしたその当時のことが思い出された。 見し人の影すみはてぬ池水にひとり宿 守 ( も ) る秋の夜の月 こう口ずさみながら家へ帰って来た大将は、そのまま縁に近い座敷で月にながめ入りながら恋人の冷たさばかりを歎いていた。 「あんなふうにしていらっしゃることは以前になかったことですね。およしになればいいのに」 と言って女房らは 譏 ( そし ) った。夫人は痛切に 良人 ( おっと ) のこの変わりようを悲しんでいた。これは心がほかへ飛んで行っているという状態なのであろう、そうしたことに 馴 ( な ) らされた六条院の夫人たちを何かといえばよい例に引いて、自分をがさつな、思いやりのない女のように言う良人は無理である、自分も結婚した初めからそう馴らされて来たのであったなら、穏健なあきらめができていて、こんな時の 辛抱 ( しんぼう ) もしよいに違いない、珍しく忠実な良人を持つ妻として親兄弟をはじめとして世間からあやかり者のように言われて来た自分が、最後にみじめな捨てられた女になるのであろうかと歎いているのである。夜も明けがた近くなるのであるが、夫婦はどちらも離れた気持ちで身をそむけたまま何を言おうともしなかった。 起きるとまたすぐに、朝霧の晴れ間も待たれぬようにして大将は山荘への手紙に筆を取っていた。不愉快に思いながらも夫人はもういつかのように奪おうとはしなかった。書いてしばらくそれをながめながら読んで見ているのが、低い声ではあったが、一部だけは夫人の耳にもはいって来た。 いつとかは驚かすべきあけぬ夜の夢さめてとか言ひし一言 「上よりおつる」(いかにしていかによからん小野山の上よりおつる音無しの滝)と書かれたものらしい。巻いて上包みをしたあとでも「いかによからん」などと夕霧は口にしていた。侍を呼んで手紙の使いはすぐに小野へ出された。内容の全部はよくわからなかったが、返事だけは手に入れて読みたいものである、それによって真相が明らかになるであろうと夫人は思っていた。 朝おそくなってから小野の返事が来た。濃い紫色の、堅苦しい紙へ例の少将が書いたものであった。今日もまた自分たちの力で宮をお動かしすることのできなかったことが書かれてあって、 お気の毒に存じますものですから、あなた様のお手紙へむだ書きをあそばしたのを盗んでまいりました。 と書いて、中へその所だけを破ったのが入れてあった。読んでだけはもらえたのであるということでうれしくなる大将の心もみじめなものである。むだ書きふうにお書きになったお歌は、骨を折って読んでみると、 朝夕に泣く 音 ( ね ) を立つる小野山はたえぬ涙や音無しの滝 と解すべきものらしい。また寂しいお心に合いそうな古歌などの書かれてある宮のお字は美しかった。他人のことで、こんなことを夢中になるまでの関心をもって楽しんだり、悲しんだりしているのを、歯がゆく病的なことに思っていたが、自分のことになると恋する心は堪えがたいものである、どうしてこうまでになったのかと反省をしようとするのであるが、それもできないことであった。 六条院も大将の恋愛問題をお聞きになって、この人がなんらの浮いたこともせず、批難のしようもない堅実な人物であることに満足しておいでになって、御自身の青春時代に好色な評判を多少お取りになった不面目をこの人がつぐなってくれるもののように思っておいでになったことが裏切られていくような寂しさをお感じになった。この事件の気の毒な影響から双方で犠牲を払う結果になるのであろう、全然関係のないところの女性ではなくて、妻の兄の未亡人の宮との問題であるから、 舅 ( しゅうと ) の大臣などもどう思うことであろう、それほどの思慮を持たないのではあるまいが、宿命というものから人はのがれられずに起こってきたことであろう、ともかくも自分の干渉すべきことでないと院はお考えになった。結局双方とも婦人の損になることで気の毒であると歎いておいでになるのであった。御自身の経験されたことに照らして見、また大将のこの現状によって、 亡 ( な ) きのちの世が不安になったことを紫夫人にお言いになると 女王 ( にょおう ) は顔を赤くして自分があとに残らねばならぬほど、早くこの世から去っておしまいになる心でおいでになるのであろうかと恨めしく思うふうであった。 「女ほど窮屈なものはありませんね。心の 惹 ( ひ ) かれることも、恋しい感情も皆おさえて知らぬふうをしておとなしくしていなければならないのでは生きがいもなし、人生の退屈さと悲哀とを紛らすことができないではありませんか。そうかといって感情に乏しい女になっては無価値だし、どうしてこんなふうに育ったのかと親さえも 軽蔑 ( けいべつ ) したくなりますからね。ただ心でだけ思って、お坊様が気の毒がる無言太子のようになって、細かな感情も動きながら黙っていなければならない人にするのも無慈悲な親になる。こうであればああであり、それであればこうになる、どうして中庸を得るようにすればいいかと、そんなことを私が考えるのも、他の女性のためではなく 女一 ( にょいち ) の 宮 ( みや ) を完全な女性にしたいからですよ」 と院は言っておいでになった。 夕霧が六条院へ来た時に、実状を知りたく 思召 ( おぼしめ ) す心から、院が、 「 御息所 ( みやすどころ ) の 忌 ( いみ ) がもう済んだだろうね。時はずんずんとたつからね。私が 遁世 ( とんせい ) の望みを持ち始めた時からももう三十年たっている。味気ないことだ。夕べの露にも異ならない命を持って安んじていられるわけはないのだからね。どうかして髪を 剃 ( そ ) り落としたいと望みながらのんきなふうを装っている。これはいけないことだね」 こんな話をおしかけになった。 「不幸ばかりで、もうこの世に未練はなかろうと思われます人でも、さて遁世はなかなかできないものらしいのでございますから、あなた様などは御無理もございません」 などと言って、また大将は、 「御息所の四十九日の仏事のことなども 大和守 ( やまとのかみ ) 一人の手でやっております。気の毒なことでございます。よい身寄りのない人は自身についた幸福だけで生きている間はよろしゅうございますが、死んだあとになってみますと気の毒なものです」 とも言った。 「御息所の仏事は院からもお世話をあそばすだろうよ。 女二 ( にょに ) の 宮 ( みや ) はどんなに悲しんでおいでになることだろう。その当時はよくわからなかったが、近年になって事に触れて私の見たところではあの御息所は相当にりっぱな人らしい。院の後宮の才女には違いなかった。そんな人の 亡 ( な ) くなっていくことは惜しい。生きておればよいと思う人がそんなふうに皆死んでゆくではないか。院もお悲しみになったということだ。あの宮さんはここに来ておられる宮さんに次いでの御愛子だったのだよ。きっとごりっぱだろう」