How Much Does Morality Demand? — Singer's Drowning Child and the Limits of Obligation — Epoche C2
場面設定: 効果的利他主義と地球規模の貧困を主題とした公開講演のあとの講堂。富裕な者は実際よりはるかに多くを与える義務があるというシンガーの論証を受け入れるヴェイル教授と、その論証は証明しすぎており擁護に値する道徳は行為者に自身の生を残さねばならないと考えるリード博士が、聴衆の退場したのちようやく互いに詰め寄る。 導入: 道徳は私たちにどれだけを求めてよいのか。シンガーの「飢えと豊かさと道徳」は、浅い池で溺れる子を、衣服を泥で汚す代償を払ってでも救う義務があるところから出発する。比肩しうる重要性をもつ何ものをも犠牲にせずきわめて悪い事態を防げるなら、そうすべきであり、距離は道徳的に無関連だというのである。これに対し道徳の要求過多という反論が立てられる。ウルフの「道徳的聖人」、ウィリアムズの「一つ多い思考」、シェフラーの行為者中心特権、そして超義務という範疇が、その諸道具立てをなす。鍵となる対立は、不偏的な善の最大化と、行為者自身の生・愛着・諸計画の地位とのあいだにある。争点はこうだ。相当量の寄付という基盤を超えたところで、残りは義務なのか称賛に値する余剰なのか、そして行為者の生は道徳が尊重すべき要求なのか、費やしてよい資源なのか。 この論証はほとんど気恥ずかしくなるほど単純だが、まさにそれゆえに身をかわすのがこれほど難しい。あなたは浅い池のそばを歩いていて、小さな子がそこで溺れている。衣服を泥で汚し午後を台無しにする代償を払えば、あなたは水に入ってその子を引き上げられる。あなたはそうする義務がある――そしてそのまま素通りする者は道徳的な怪物だろう。さてシンガーの問いだ。比肩しうる道徳的重要性をもつ何ものをも犠牲にすることなく、きわめて悪い事態が生じるのを防げるのなら、あなたはそうすべきである。距離は道徳的に何も変えない。予防可能な病で海の向こうで死にゆく子は、あなたの足元の子に少しも劣らず一人の子である。だから贅沢品に費やす金で人命を救えるはずの富裕な者は、日々ひとつ残らず、池のそばを素通りしているのだ。 池は鮮烈であり、たしかに現実の働きをしている――だがそれが証明するのは見かけよりはるかに少ない。なぜならそれは一回限りの緊急事態なのに、あなたはそれをひそかに終身刑へと変えてしまったからだ。溺れる子を救う代償は午後ひとときにすぎない。シンガーの原理は、少しでも誠実に適用するなら、午後を求めはしない。それが求めるのはすべて――生存ぎりぎりを超える金のことごとく、空いた時間のことごとく――であり、それはあなた自身の限界的な犠牲が見知らぬ者に対してなしうる善とつり合うまで続く。それは礼節への要求ではない。あなた自身を善を生産するための道具へと解消せよという要求だ。そして自分自身の生のための余地――友情、仕事、あなたを単なる救援物資の分配弁ではなく一人の誰かにしているもの――をまったく残さぬ道徳は、私に言わせれば、自らを価値の全体と取り違えているのである。 あなたはそれを自分を解消することと呼ぶ。私はそれを、自分の贅沢が他人の生命で支払われていることにようやく気づくことと呼ぶ。あなたが求める「自分自身の生のための余地」とは、あなたが見ないと決めた池を望む部屋なのだ。そしてあなたの反論の形に注目してほしい。それは結論が要求しすぎだというものだ。だが「要求が強すぎる」はそれが偽だという論証ではない――それが導く先をあなたが好まないという報告にすぎない。前提はあなたがすでに受け入れているものばかりだ。苦しみは悪いこと、距離は道徳的に無関連であること、あなたへの代償が善に比べて小さいなら悪い事態を防ぐべきこと。これらが真なら要求は帰結する。それを逃れるにはどれかを退けねばならない――だからどれを退けるのか言ってほしい。 三つ目――「代償が善に比べて小さいとき」――よ。なぜならそこには論点のすり替えが潜んでいるからだ。最初の寄付の代償は、たしかにそれがなす善に比べて小さい。だが原理の代償は最初の寄付ではない。それは終わりのない系列全体であり、その累積的な代償はあなたの生まるごとなのだ。これはウルフが「道徳的聖人」で述べた論点でもある。不偏的な善の最大化を中心に自らの存在まるごとを組み立てる者は、冷静に熟慮すれば称賛に値する理想ではない。彼らには午後を一冊の小説に費やす時間も、それ自体のために下手なチェロを学ぶ時間も、見知らぬ者よりも特定の一人をより深く愛する時間もない。私たちは実のところ道徳的聖人が最も優れた種類の人間だとは信じていない――そして理想的行為者を私たちがひそかに不快に感じる理論は、理論のどこかが狂っていることを告げているのだ。 「私たちは聖人を称賛しない」――だが称賛していないのが誰なのかをよく見てほしい。瀕死の子の要求に抗して二台目の車を守っている飽食の者は、当然ながら聖人を思い描くのを居心地悪く感じるだろう。彼らの不快は、答えに利害をもっていること以外の何の証拠でもない。そしてチェロや小説は天から降ってくる無償の財ではない――現にあるこの世界では、それらは他人の生存という測定可能な代償で購われている。私はそれをあなたの怪物性だと言っているのではない。それは状況の怪物性であり、あなたが作り出したものではない。だがあなたは要求を「不快だ」と宣告することで代償を洗い流すことはできない。あなたが後ずさりする聖人とは、ただ日々池を真剣に受けとめた人にすぎない――そしておそらくその後ずさりは、理論にではなく世界に対する正しい応答なのだ。 私の論点にはもっと鋭い形があり、それは快適さの話ではまったくない――ウィリアムズの「一つ多い思考」よ。二人の溺れる者のうち一人しか救えず、そのうちの一人が自分の妻だという男を思い描いてほしい。もし彼が立ち止まって「彼女は私の妻だ、それに不偏的な道徳もまた自分の身内へのわずかな優先を許している」と理由づけするなら、彼はまさしく一つ多い思考をしてしまったことになる。正しい応答――妻を妻であるがゆえに救うこと――は不偏的な計算の産物ではなく、それによって損なわれてしまう。これは道徳が重要な唯一のものではなく、つねに最高のものでもないことを示している。個人的なもの――愛、忠誠、現に自己を構成する諸計画――には、不偏的な最大化がそれを破壊することなしには吸収しえない地位があるのだ。 「一つ多い思考」は美しい事例であり、たしかに現実の何かを立証している――だがあなたが必要とするよりはるかに少ない。それは救助の瞬間に不偏的に熟議することが心理的に、そして道徳的にさえ、腐食的だと示している。まったくそのとおり、認めよう。だがそれは動機の心理についての主張であって、生涯を通じて資源をどう用いる義務があるかについての主張ではない。シンガーは妻と見知らぬ者を等しく愛せとも、救助の途中で凍りついて計算せよとも、決して言っていない。彼が言うのは、落ち着いて腰を据え、三度目の休暇に使うはずだった金をどう使うか決めるとき、死にゆく見知らぬ者にはそれへの真正な要求があるということだ。妻をより深く愛するのは結構。台所を改装するために子を死なせるのが、いま論じている事例なのだ――そして「一つ多い思考」はそれについて何ひとつ語っていない。 ならば、それにきちんと噛み合う構造化された中間項を取りなさい――シェフラーの行為者中心特権を。シンガーの根本的な誤りは、行為者を、不偏的な善が摩擦なく流れねばならぬ中立的な水路として扱う点にある。だが私たちはそれぞれ自分の生を内側から生きている。私の計画はその不偏的な重みとはおよそ釣り合わぬほど私にとって重要であり、正気の道徳は私にそれらへ余分な重みを――無限ではないが現実の重みを――与える特権を認める。だから私は、たとえ不偏的な帳簿が増分のほうが大きい量だと告げるときでも、自分の生涯の仕事を一般的福祉への限界的な増分の付加に注ぎ込むことを拒んでよい。それは原理の衣装をまとった利己心ではない。単に結果を宿すのではなく生を営む存在にふさわしい道徳は、行為者に自分のものである真正な空間をいくらか残さねばならない、という認識なのだ。 特権か――よろしい、だがそれがどれほど多くを譲り、どれほど少なくしか決着をつけないかに注目してほしい。あなたが、行為者は自分の計画にその不偏的価値以上の重みを置いてよいと認めた瞬間、あなたは私の枠組み全体を承認したのであり、いまや私たちは交換比率を値切り合っているにすぎない。問いはこうなる――どれだけの余分な重みか、と。そしてここで道徳の要求過多という反論は気力を失う。意味ある生――あなたの人間関係、いくつかの本物の計画、ささやかな快適さ――に十分なだけを手元に残すことを許しつつ、なおいまほとんど誰もが与えている量よりはるかに多くを与えさせる特権なら、私は明日にでも署名しよう。その反論がふつう持ち出されるのは、現状を追認するためだ――形ばかりを与え、残りを取っておき、それで気分よくいる、というわけだ。誠実な特権でも、あなたは結局、収入の大きな割合を寄付して終わる。不誠実な特権だと、あなたはすでにいた場所にきっかり留まって終わる。 その挑戦を受けよう――というのも、あなたはたったいま特権の原理を認めたのであり、私たちはその大きさを争っているのだから、これは現実の前進であり、特権をいっさい認めなかった当初の池の修辞にとっては静かな敗北なのだ。だが「どれだけ」は些末事ではない。それこそ道徳の真理が現に宿る場所なのだ。本当に善き人間の生を許すほど寛大な特権――愛が要求する身内への偏りとともに、意味が要求する諸計画への没頭とともに――は、純粋な不偏性が禁じる多くのものを許すだろう。そして決定的に、それは大きな贈与を超義務的なものにする。称賛に値し、聖人的でさえあるが、それを下回れば怪物だという最低限の基盤ではない。あなたがひそかに消し続けている範疇――義務を超えたところにある善――こそ、まさにあなたの見解が表現しえないものであり、義務的なものの上に英雄的なものの余地をもたない道徳は、道徳の地形まるごとを単一の陰鬱な平面へと押しつぶしてしまっているのだ。 超義務こそが本当の核心だ――そのとおり――善いが要求されてはいない行為があるのかという問いだ。そしてそれがあなたの手札のなかで最も強い切り札だと認めよう。なぜなら私たちの大半は、礼節にかなったものと英雄的なものとのあいだに違いを感じるからだ。だが、その範疇が現にこの世界でどんな働きをしてきたかを問うてほしい。歴史的に「超義務的」とは、富者が、死にゆく者を助けることはチップを置くように愛らしくも任意の追加だと感じさせる、あのビロードのロープであった。たしかに、ある種の犠牲は真に義務を超えているかもしれない――手榴弾に身を投げ出すこと。だが豊かな国の収入の意味ある割合を人命を救うために与えることが――その代わりに使えば覚えてすらいないものに費やすときに――そのロープの任意の側に落ちるという主張、その特定の主張は、まさにそれが放免する当の人々のために、疑わしいほど好都合な道徳的働きをしているのだ。 そしてそれが義務的な側に落ちるという主張は、これまで徴用したがらない人間の生など一度も出会ったことのない理論のために、疑わしいほど好都合な働きをしている。いいかしら――好都合さは双方向に働くと認めよう。私の見解は安逸を合理化しうるし、あなたの見解は、それを真剣に受けとめる者すべてを燃え尽きさせる道徳的専制を合理化しうる。だからこそ、ゼミでシンガーの論証を受け入れる者の多くが、一度だけ与え、目を背け、ひそかに押しつぶされていくのだ。その誠実な信奉者が生きられぬほど高く設定された要求は、より道徳的なのではない。それはより効果が乏しく、あなた自身の帰結主義の見地からして、おそらく自己破綻的だ。特権は怠け者のための抜け穴ではない。それは要求の強い道徳を生き延びられるものにするものであり――そして人々が現に満たす生き延びられる要求は、人々が逃げ出す不可能な要求よりも、この世界でより多くの善をなすのだ。 その論点はきちんと届く、私はそれをかわしはしない――人々が生きられぬ要求は、帰結の点で、人々が現に満たすより小さな要求よりしばしば悪い。帰結主義者シンガーこそ真っ先にそれを認めるべきだろう。だから見解を最も擁護に値する形で言い直そう。あなたが助ける者と同じくらい貧窮するまで与えよ、ではない。そうではなく、富裕な者には現実の、継続的で重い義務がある――慈善的な選択肢ではなく――慣習が求めるよりはるかに多くを与えるという義務が。そして予防可能な死をただ放置させるいかなる支出にも、正当化の責任が降りかかる。特権は最大量をやわらげるかもしれないが、義務を贈与へと変質させることはできない。あなたは生きるに値する生を手元に残してよい。残してはならないのは、あなたが与えるものが寛大さなのだという心地よい虚構だ――それは大部分、すでに支払期限の過ぎたものなのである。 私はほぼそこに立てる――そして私たち二人が出発点からどれほど遠くまで来たかに注目してほしい。あなたは、ほぼ全面的な犠牲に満たないものは怪物にするという池の含意を手放した。私は、助けることは純粋に任意だという心地よい考えを手放した。義務は現実で重いこと、豊かな国の大半の人があまりに少なくしか与えていないこと、距離と特定可能性は人々が言い訳に用いるようなものではないこと――これらで私たちは一致する。なお分かれるのは上限だ――相当量の寄付という基盤を超えたところで、残りは義務なのか称賛に値する余剰なのか――そして行為者自身の生は道徳が尊重せねばならぬ要求なのか、それとも費やしてよい資源なのか。これらは小さな不一致ではない。だが一度くらいは、争うにふさわしいまさに正しい問いなのだ。 そのとおりだ――そして今夜どれだけ評決を叩き出そうと、それ以上にこの事柄の形が重要なのだ。ウィリアムズとウルフは正しい。不偏的義務のみからなる自己はおよそ自己ではなく、それを言えぬ道徳は、導くために存在する当の人格を見失っている。シンガーは正しい。池は、子が足元にいようと大洋の向こうにいようと同じ池であり、距離にひそかに義務を溶かさせる道徳は、その子を見失っている。誠実な立場は両方を同時に保持せねばならない。個人的な視点は現実で重く、見知らぬ者の生もまた現実で重い。そして倫理学の現実の仕事は