The Gossamer Years — Fujiwara no Michitsuna no Haha
蜻蛉日記 (國文大觀) 他の版の作品については、蜻蛉日記をご覧ください。 蜻蛉日記 (國文大觀) 國文大觀 日記草子部 作者:藤原道綱母 天延三年 975年 蜻蛉日記 蜻蛉日記卷上 かくありし時過ぎて 〈村上御時天曆八年〉 世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで世に經る人ありけり。かたちとても人にも似ずこ 〈ころイ有〉 たましひもあるにもあらで、かうものゝやうにもあらであるもことはりと思ひつゝ唯臥し起き明し暮すまゝに、世の中におほかた 〈るイ〉 ふる物語のはしなどを見れば世に多かるそらごとだにあり。人にもあらぬ身の上までう 〈かイ〉 き日記して珍しきさまにもありなむ。天下の人のしなたり 〈がイ〉 きやととはむためしにもせよかしと覺ゆるも過ぎにし年月ごろの事もおぼつかなかりければ、さてもありぬべき事なむ多かりける。さてあのけ 〈二字ふなイ〉 かりしすきごとゞもの、それはそれとしてかしはぎの木高きわたり 〈藤原兼家〉 よりかくいはせむと思ふ事ありけり。例の人はあないする便もしはなま女などしていはする事こそあれ。此は親 〈藤原倫寧〉 とおぼしき人にたはぶれにもまめやかにもほのめかしゝに、ひけきことし 〈びなきことゝイ〉 いひつぎをも知らずかほに、馬にはひ乘りたる人して打ちたゝかす。たれなどいはするはおぼつかなからず騷いたれば、もて煩ひ取り入れてもて騷ぐ。みな 〈れカ〉 ばか 〈ふカ〉 みなども例のやうにもあらず、いたらぬ所なしと聞きふるしたる手もあらじと覺ゆるさ 〈まカ〉 であしければ、いとぞあやしき。ありける事は、 「音にのみ聞けばかなしなほとゝぎすことかたらむと思ふこゝろあり」 〈兼家〉 とばかりぞある。いかにかへり事はすべて 〈くイ〉 やあるなどさだむるほどに、かたゐなかなる人ありて猶とかしこさ 〈まカ〉 りてこら 〈かゝカ〉 すれば、 「かたらはむ人なきさとにほとゝぎすかひなかるべきこゑなふるしそ」 〈道綱母著者〉 。 これを初めにて、またまたもおこすれどかへりごともせざりければ、 「おぼつかな音なき瀧のみづなれやゆき 〈くカ〉 へも知らぬ瀨をぞ尋ぬる」 これを今これよりといひたれば知れたるやうなり。やがてかくぞある、 「人知れずいまやいまやと待つほどにかへりこぬこそ侘しかりけれ」 とありければ、例の人 〈倫寧著者父〉 「かしこし。をさをさしきやうにも聞えむこそよからめ」とて、さるべき人してあるべきに書かせてやりつ。それをしもまめやかにうち喜びて繁う通はす。又そへたる文見れば、 「濱千鳥あともなぎさにふみ見ればわれをこす波うちやけつらむ」。 この度も例のまめやかなるかへりごとする人あれば紛はしつ。又もあり。「まめやかなるやうにてあるもいと思ふやうなれど、このたびさへ無うばいとつらうもあるべきかな」などまめや 〈か脫歟〉 文のはしに書きて添へけり。 「いづれともわかぬ心はそへたれどこたびはさきに見ぬ人のがり」 とあれば例の紛はしつ。かたればまめなる事にて月日は過ぐしつ。秋つ方になりにけり。そ へたる文に心さかしらついたるやうに見えつるうさ 〈うたイ〉 になむねんじつれどいかなるにかあらむ、 「しかの音も聞えぬ里に住みながらあやしく逢はぬ目 〈夢カを脫歟〉 もみるかな」 とあるかへりごと、 「高砂のをのへわたりにすまふともしかさめぬべきめとは聞かぬを」。 げにあやしのことやとばかりなむ。又程經て、 「あふ坂の關やなになり近けれど越えわびぬればなげきてぞ經る」 かへし、 「越えわぶるあふ坂よりも音に聞くなこそを 〈新千作は〉 かたき關としらなむ」 〈道綱母〉 などいふ。まめ文かよひかよひて、いかなるあしたにかありけむ、 「夕ぐれの流れくるまをまつほどになみだおほゐの川とこそなれ」。 かへりごと、 「思ふこと大井の川の夕ぐれはころも 〈こゝろイ〉 にもあらずなかれこそすれ」。 又三日ばかりのあしたに、 「しのゝめにおきけるそらにおもほえで怪しく露と消えかへりつる」 かへし、 「さだめなく消えかへりつる露よりもそらだのめするわれは何よ 〈なカ〉 り」 かくてあるやうありてしばし旅なる所にあるにものしてつとめて「今日だにのどかにと思ひつるを、びなげなりつれば。いかにぞ身には山がくれとのみなむ」とあるかへりごとに、たゞ、 「思ほえぬかきはにをれは撫子のはなにぞつゆはたまらざりけり 〈るカ〉 」 などいふ程に九月になりぬ。つごもりたがにしきりて二夜ばかり見えぬほど文ばかりあるかへりたごとに、 「消えかへる露もまだひぬ釉の上に今朝はしぐるゝ空もわりなし」。 たちかへり、かへり事、 「おもひやる心の空になりぬれば今朝 〈は脫歟〉 時雨ると見ゆるなるらむ」 とて、かへり事書きあへぬほどに見えたり。又ほどへて見えをこたるほど、雨など降りたる日ぐれに「來む」などやありけむ、 「かしはぎの杜の下草くれごとになほたのめとやもるを見る見る」 〈道綱母〉 。 かへり事はみづから來て紛はしつ。かくて十月になりぬ。こゝにものいみなるはどを心もとなげにいひつゝ、 「なげきつゝかへす衣のつゆけきにいとゝ空さへしぐれ添ふらむ」 〈兼家〉 。 かへし、いとふるめきたり。 「思ひあらばひなましものをいかでかは返す衣のたれもぬるらむ」 とあるはどに、わがたのもしき人 〈倫寧長能著者父兄〉 みちのくにへ出で立ちぬ。時はいとあはれなるほどなり。人 〈兼家〉 はまだ見馴るといふべきほどにもあらず。見ゆることはたゞささ 〈一字衍歟〉 しくめるにのみあり。いと心細く悲しきことものに似ず。見る人もいと哀に忘るまじきさまにのみ語らふめれど、人の心はそれに從ふべきかはと思へば、唯ひとへに悲しう心ぼそき事をのみ思ふ。今はとて皆出で立つ日になりて行く人もせきあへぬまであり。き 〈止カ〉 まる人はた况いていふ方なく悲しきに、時違ひぬるといふに 〈まカ〉 でもえ出でやらず。又みなる硯に文をおし卷きてうち入れて、又ほろほろとうち泣きて出でぬ。しばしは見む心もなし。みいではてぬるにためらひてより 〈てイ有〉 何事ぞと見れば、 「君をのみたのむたつ 〈びカ〉 なるこゝろには行く末遠くおもほゆるかな」 〈父倫寧〉 とぞある。見るべき人 〈兼家〉 見よとなめりとさへ思ふにいみじう 〈かなしうイ有〉 て、ありつるやうにおきて、とばかりあるほどにものしたり。目も見合せず思ひいりてあれば「などかよのつねのとにこそあれ。いとかうしもあるはわれを賴まぬなめり」などあへしらひ硯なる文を見つけて「哀」といひて、門出の所に、 「我をのみたのむといへばゆくすゑのまつの千代をもきみこそは見め」 〈兼家〉 となむ。かくて日の經るまゝに旅の空を思ひやるだち 〈にカ〉 いとあはれなるに、人 〈兼家〉 の心もいとたのもしげには見らん 〈二字えカ〉 ずなむありける。しはすになりぬ。橫河にものすることありて上りぬ。人「雪に降りこめられていと哀れに戀しき事多くなむ」とあるにつけて、 「氷るらむよかはの水に降る雪もわがごと消えてものは思はじ」 〈道綱母〉 などいひてその年はかなく暮れぬ。』正月 〈天曆九年〉 ばかりに二三日見ぬ程にものへ渡らむとて「人こば取らせよ」とて書き置きたる、 「知られねば身を鶯のふりいでつゝなきてこそ行け野にもやまにも」。 かへりごとあり、 「うぐひすのあたにて行かむ山く 〈べカ〉 にもなく聲聞かば尋ぬばかりぞ」 などいふうちよりなほもあらぬことありて春夏なやみ暮して、八月つごもりにとかうものしつ 〈道綱誕生〉 。その程の心ばへしも懇なるやうなりけり。さて九月ばかりになりていでにたるほどに箱のあるを手まさぐりにあけて見れば、人のもとにやらむとしける文あり。あさましさに見てけりとだにしられむと思ひて書きつく。 「うたがはしほかに渡せるふみ見ればこゝやとだえにならむとすらむ」 など思ふほどに、心えなう十月つごもり方に三よしきりて見えぬ時あり。つれなうてしばし試みるほどになどけしきあり。これより夕さりつかた「うちのかたるまじかりけり」とて出へ 〈づカ〉 るに心を 〈えカ〉 て人をつけて見すれば「まちの小路なるそこそこになむとまり給ひぬる」とて來たり。さればよといみじう心憂しと思へどもいはむやうも知らである程に、二三日ばかりありてあかつきがたに門も叩く時あり。さなめりしと思ふに、憂くてあけさせねば、例の家とおぼしき所にものしたり。つとめて猶もあらじと思ひて、 「歎きつゝ一人ぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る」 〈道綱母〉 と例よりはひきつくろひて書きて、うつろひたる菊にさしたり。かへりを明くるまでも試みむとしつれど、とみなるめし使の來あひたりつればなむ。いとことわりなりつるは、 「げにやげに冬の夜ならぬ眞木の戶に遲くあくるは陀しかりけり。 さてもいとあやしかりつるほどにことなしびたる、しばしは忍びたるさまにこうぢに」などいひつゝぞあるべきをいとしう心つきなく思ふ事ぞ限りなきや。』年かへりて三月 〈天曆十年〉 ばかりにもなりぬ。桃の花などやとり設けたりけむ。待つに見えず。今一かたも例は立ちさらぬ心ちに今日ぞ見えぬ。さて四日のつとめてぞ皆見えたる。「夜べより待ちくらしたるものども猶あるよりは」とて、こなたかなたとり出でたり。志ありし花を 〈如元〉 おも 〈二字折りてカ〉 うちの方よりあるを見れば、心たゞにしもあらで手ならひにしたり。 「待つほどのきのふ過ぎにし花のえは今日折る事ぞかひなかりける」 と書きて、よしやにくきにと思ひてかくしつるけしきを見て、ばひとりて返ししたり。 「みちとせをみつべきみには年每にすくにもあらぬ花と知らせむ」 とあるを今一夜だにも聞きて、 「花によりすくてふ事のゆゝしきによそながらにて暮してしなり」。 かくて今はこのまちの小路にわざと色に出でにたり。本は人をだにあやし悔しと思ひげなる時がちなり。いふ方なうころ 〈二字心カ〉 憂しと思へどもなにわざをかせむ。この今一かた 〈道綱母妹〉 のいで 入りするを見つゝあるに、今は心安かるべき所へとてゐてわたす。とまる人まして心ぼそし。影も見えがたかべい事などまめやかに悲しうなりて、車寄するほどにかくいひやる、 「などかゝる歎きはしげさまさりつゝ人のみかゝる宿となるらむ」 かへりごとは男ぞしたる、 「思ふてふ我が言の葉をあだびとのしげきなげきにそへてうらむな」 などいひ置きて皆わたりぬ。思ひしもしるく只ひとり臥し起きず大ひ 〈かイ〉 たの世のうちあはぬことはなければ唯人の心の思はすなるを、我のみならず、年ごろの所にも絕えにたなりと聞きて、文など通ふ事ありければ五月三四日のほどにかくいひやりぬ、 「底にさへよ 〈かイ〉 るといふなるまこも草いかなるさと 〈はカ〉 に根をとゞむらむ」 〈道綱母〉 。 かへし、 「まこも草刈るとは淀のさはなれや根をとゞむてふ澤はそことか」 〈兼家〉 。 六月になりぬ。ついたちかけて長雨いたうす。見出して獨言に、 「我が宿のなげきのしたは色ふかく 〈秋またでイ〉 うつろひにけりながめふるまに」 などいふほどに七月になりぬ。絕えぬと見ましかばかりに來るには勝りなましなど思ひ續くるをりに、物したる日あり。物もいはねばさうざうしげなり。前なる人ありし下葉の事を物の序にいひ出でたれば聞きてかくいふ、 「をりならで色つきにけるもみぢ葉はときにあひてぞいろまさりける」 とぞ書きつくる書きつくる 〈五字恐衍〉 。かくあり續き絕えずはくれども、心のとくる夜なさに、荒れ勝りつゝ來ては氣色惡しければ、たふるゝ 〈ひたぶるカ〉 にたち山と立ち歸る時もあり。近き隣に心ばへ知れる人出づるに合せてかくいへり、 「藻鹽やく烟の空に立ちぬるはふすべやしつるくゆる思ひに」 などとなり。さかしらするさ 〈まカ〉 でふすべかはして、この頃は殊に久しう見えず、たゞなりし折はさしもあらざりしを、かくころ 〈二字心カ下間〉 あか 〈か恐衍〉 くがれていかなるものとうか 〈三字かそこイ〉 にうち置きたるものと 〈のカ〉 見えぬ癖なむありける。かくて止みぬらむそのものと思ひ出づべきたよりだになくぞありけるかしと思ふに、十日ばかりありて文あり。なにくれといひて「帳の柱にゆひつけたりし小弓の矢取りて」とあれば、これぞありけるかしと思ひて解きおろして、 「思ひ出づる時もあらじとおもへども 〈後拾作みえつれど〉 やといふにこそ驚かれぬる 〈れカ〉 」 とてやりつ。かくて絕えたるほど我が家はうちより參りまかづる道にして 〈もカ〉 あれば、夜なか曉とうちしはぶきてうち渡るも聞かじといへどもうちとけたるいも寢られず。夜長うしてねぶる事なければ、さながらと見聞く心ちは何にかは似たる。今にいかで見さ 〈きカ〉 かずだにありにしがなと思ふに「昔すきごとせし人も今はおはせずとか」など人につきて聞えごつを聞くを、ものしうのみ覺ゆれば、日くれば 〈か脫歟〉 なしうのみ覺ゆ。子供あまたありと聞く所もむげに絕えぬと聞くあはれましていかばかりと思ひてとぶらふ。九月ばかりの事なりけり。あはれなど 〈し脫歟〉 けく書きて、 「吹く風につけてもとはむさゝがにの通ひしみちは空に絕ゆとも」。 かへり、殊にこまやかに、 「色かはるこゝろと見ればつけてとふ風ゆゝしくも思ほゆるかな」 とぞある。かくて常にしもえいなな 〈びカ〉 はてゞ時々見えて冬にもなりぬ。臥し起きは唯幼き人ももて遊びて「いかにして網代の氷魚にこととはむ」とぞ心にもあらでうちいはるゝ。』年また越えて 〈天德元年〉 春にもなりぬ。この頃讀ん 〈むカ〉 とてもてありく文、取り忘れて 〈を脫カ〉 んなを取りにおこせたり。包みてやる紙に、 「ふみおきしうらも心もあれたればあとをとゞめぬ千鳥なりけり 〈道綱母〉 。 かへり事をさかしらに立ちかへり、 「心あるとふみかへすとも濱千鳥うらにのみこそあとはとゞめゝ」 〈兼家〉 。 つかひあれば、 「濱千鳥あとのとまりを尋ぬとてゆくへも知らぬうらみをやせむ」 などいひつゝ夏にもなりぬ。この時の所に子生むべきほどになりてよきかたはこひて、一つ車に這ひ乘りて、ひときやう響き續きていと開きにくきまでのゝしりて「このかどの前よりしもわたるものか。我は我にもあらず、物だにいはねば見る人仕ふより始めて、いと胸痛きわざか。世に道しもこそはあれ」などいひ罵るを聞くに、た 〈もカ〉 し死ぬるものにもがなと思へどころ 〈心カ〉 にしかなはねば今よりのち猛くはあらずとも絕えて見えずだに