ロシア文学と憂愁 — Epoche C2
場面設定: サンクトペテルブルク、フォンタンカ運河沿いのカフェ。氷点下20度の厳冬、湯気の立つお茶を挟んで、ロシア人文学者アンドレイと日本人翻訳家の涼子が、ドストエフスキー新訳について長話を始める。 涼子さん、あなたの『カラマーゾフの兄弟』新訳、興味深く拝読しました。ただ一点、最大の関心事は「魂(душа)」の訳語をどう揺らがせるか、ということでしてね。日本語の「魂」では届かない、宗教的な実体感がございます。 アンドレイさん、まさに翻訳家の急所を突かれました。「魂」「心」「精神」と訳し分けても、ロシア語の「душа」が持つ大地と肉体の重みは消えてしまう、と申しましょうか。私はあえて場面ごとに訳語を変え、読者の中で揺らぎを起こす方針を取りました。 賢明な戦略です。ドストエフスキーにとって魂は概念ではなく、苦しむ器官でしたから。アリョーシャが地に身を投げて泣く場面――あれは魂が肉体になる瞬間、と言わざるを得ません。 あの場面、訳しながら3時間止まりました。日本語にすると神秘主義になり、英語にすると感傷になる。原文の素朴な激しさをどちらにも逃さない訳語を、結局見つけられませんでした。逃げられない、というのが翻訳の宿命ようにも思えます。 逃げられないのはまさにロシア文学の核心です。「toska(тоска)」――これも訳せない言葉ですね。憂愁、倦怠、郷愁、漠然とした絶望、そのどれでもあって、どれでもない。ナボコフは「魂が何かを切望しているが、その何かが何かを知らない状態」と定義しました。 ナボコフのその定義、私は座右に置いております。チェーホフの『犬を連れた奥さん』の終盤、グーロフが鏡に映る自分の老いを見る場面、あれは「toska」の純粋な結晶ですね。何かを失いながら、何を失ったのか自分でも分からない、あの静かな崩壊。 チェーホフの諦念は、ドストエフスキーの叫びと対をなしますね。両者とも宗教的構造を持っていますが、ドストエフスキーは贖罪を声高に求め、チェーホフは贖罪不可能性を静かに受け入れる。同じ大地の二つの応答、と申しましょうか。 大地という比喩、よく出ますね。ロシア文学を読んでいると、登場人物の足元に常に大地がへばりついているような重さを感じます。日本文学の主人公はどこか宙に浮いている、と言わざるを得ません。風土の差が文学の体重に直結する、というわけですね。 体重、面白い表現です。ベリンスキーは「ロシア文学は痛みから生まれる」と書きましたが、それは大地の痛み、農奴の痛み、宗教的な原罪の痛みが、文学者個人の痛みと地続きだったからでしょう。私的な憂愁が常に集合的な憂愁に拡張する、という構造です。 その拡張機能こそ、海外読者が惹かれる理由ではないでしょうか。自分の小さな悩みを、シベリアと農奴と神の名のもとに大きくしてもらえる。ロシア文学は読者の苦悩のスケールを底上げする装置、とも言えます。 底上げ装置、痛い表現ですな。ただ正直に申しますと、私自身がこれだけドストエフスキーを読み続けてきたのは……いえ、正直に申し上げてもよろしいでしょうか。ロシア文学を読むのは、自分の不幸を相対化したいだけ、なのかもしれません。 ……アンドレイさん、それは本音ですね。私もそうかもしれません。離婚の年に『罪と罰』を訳したのですが、ラスコーリニコフの苦悩に比べれば自分の離婚など些事だ、と思えて救われた節がございます。文学が私の代わりに苦しんでくれていた、というほかありません。 ……お互い、似たような卑しさを抱えてきたわけです。他人の苦悩で慰められる、これはロシア文学の最大の読者効果でして、文学者本人もそれに加担しているのでしょう。トルストイが農民の苦しみを書きながら自身は領地で安楽な生活を送っていた矛盾、あれと地続きでございます。 地続き、その通りでございますね。ただ、その卑しさを自覚すること自体が、ロシア文学を読み続けるべき唯一の理由かもしれません。チェーホフが「人間は自らの卑小を意識した時にのみ少し大きくなる」と書いた通り、と申しましょうか。 そう、その通りです。我々は他人の苦悩で慰められる卑しさを共有している。それを互いに告白できたという一点で、今日の対話はチェーホフ的な小さな救済の場になったかもしれません。次のお茶を頼みましょう、外はまだマイナス20度です。 頂きます。窓の外の運河の凍り具合を見ていると、『白夜』の冒頭を訳していた頃を思い出します。あの孤独はロシア人にしか書けない、と当時は思っておりましたが、今は違います。私たちが共有しているのは、孤独そのものではなく、孤独を飼いならす作法、なのでございますね。 解説: ドストエフスキー、チェーホフ、トルストイの「魂」「toska」「贖罪」を巡る本音の文学談義。落ちは13ターン目の文学者の告白――「自分の不幸を相対化するためにロシア文学を読む」――を翻訳家が受けて「他人の苦悩で慰められる卑しさを共有している」と互いに認める静かな合意。