Spirit Teachings — Moses William Stainton
目次 解説 第一章 幽明の交通 [#「幽明の交通」は底本では「幽明交通」(本文は「幽明の交通」)] とその目途 第二章 健全な生活 第三章 幽明間の交渉 第四章 各種の霊媒能力 第五章 幽明交通と環境 第六章 夫婦関係 第七章 真の宗教 第八章 神霊主義 第九章 啓示の真意義 第十章 進歩的啓示 第十一章 審神の要訣 [#改ページ] 解説 近代の霊媒中、 嶄然 ( ざんぜん ) 一頭地を 抽 ( ぬ ) いて居るのは、何と言ってもステーントン・モーゼスで、その手に 成 ( な ) れる自動書記の産物『 霊訓 ( スピリットティチングス ) 』は、たしかに後世に残るべき、 斯界 ( しかい ) のクラシックである。日本の学会に、その真価が 殆 ( ほとん ) ど認められていないのは、 甚 ( はなは ) だ 遺憾 ( いかん ) である。が、原本はなかなか 大部 ( たいぶ ) のものであるから、 爰 ( ここ ) には単に要所 丈 ( だけ ) を紹介するに止める。 若 ( も ) しも読者にして、ゆっくり 味読 ( みどく ) さるるならば、 其 ( そ ) の分量の少なきを憂えず、得るところ 寧 ( むし ) ろ 甚 ( はなは ) だ多かるべきを信ずるものである。 近代の霊媒の中で、モーゼスの 如 ( ごと ) き学者的経歴を有する者は、 殆 ( ほとん ) ど一人もない。彼は一八三九年に生れ、十六歳の時に、ベッドフォードの中学に学んだが、その非凡の学才と勤勉とは、早くも学校当局の間に認められ、幾度か名誉賞を与えられた。一八五八年 牛津 ( オックスフォード ) 大学に移るに及びて、 其 ( その ) 英才はいよいよ 鋒鋩 ( ほうぼう ) を現したが、過度の勉強の為めにいたく心身を損ね、 病臥 ( びょうが ) 数月の後、保養のために大陸を遍歴すること約一年に及んだ。その中六ヶ月はマウント・アソスの 希臘 ( ギリシア ) 僧院で暮らし、 専 ( もっぱ ) ら 静思 ( せいし ) 休養 ( きゅうよう ) につとめた。 後 ( のち ) その司配霊イムペレエタアの告ぐる所によれば、同僧院にモーゼスを連れて行ったのは、霊達の仕業で、後年霊媒としての素地を作らしむる為めであったとの事である。 二十三歳の時帰国して学位を受け、やがて 牛津 ( オックスフォード ) を離れたが、健康が尚お全くすぐれない為めに、医師の勧めに従って、田舎牧師たるべく決心し、アイル・オブ・マンのモーグフォルド教会に赴任した。在職中たまたま 疱瘡 ( ほうそう ) が流行して、死者続出の有様であったが、モーゼスは敢然として病者の介抱救護に当り、一身にして、牧師と、医者と、埋葬夫とを兼ぬる有様であった。その勇気と忠実と親切とは、当然教区民の絶大の敬慕を 贏 ( か ) ち得たが、健康が許さないので、一八六八年他の教区に転任した。彼は何所へ行っても、すぐれた人格者として愛慕されたのであるが、たまたま咽喉を病み、演説や説教を医師から厳禁されたので、止むなく永久に教職を 擲 ( なげう ) つこととなった。彼のロンドン生活はそれから始まったのである。 彼がロンドン大学予備科の教授に就任したのは、一八七〇年の暮で、 爰 ( ここ ) でも彼の人格と、学力とは、彼をして学生達の 輿望 ( よぼう ) の中心たらしめた。モーゼスが心霊上の諸問題に、興味を持つことになったのもその前後で、医師のスピーア博士と共に、 頻 ( しき ) りに死後の生命の有無、その他人生諸問題につきて討究を重ねた。彼の宗教心は飽くまで強いのであるが、しかし在来の神学的ドグマは、到底彼の 鋭利 ( えいり ) 直截 ( ちょくさい ) なる研究的良心を充たすに足りなくなったのであった。彼は自身霊媒たる前に、片端から知名の霊媒の実験に臨んだ。 即 ( すなわ ) ち一八七二年、ロッテイ・ファウラアの実験を行い、つづいて名霊媒ウィリアムスの交霊会にのぞみ、次第に心霊事実の正確なることを認むるに至った。その中 不図 ( ふと ) したことで、彼自身霊媒能力を発揮した。 モーゼスの本領は自動書記であるが、しかし彼は、稀に見る多方面の霊媒であった。彼を通じて起った、主なる心霊の現象を挙ぐれば、(一)大小の敲音、(二)種々の光、(三)種々の香気、(四)種々の楽声、(五)直接書記、(六) 卓子 ( テーブル ) 、椅子其他物品の浮揚、(七)物品引寄、(八)直接談話、(九)霊言、等を数えることができる。 かかる霊媒現象が起りつつある間に、彼は幾多の学界の創立に関与し、 殊 ( こと ) に一八八二年、『英国心霊協会』の創立に際しては大いに奔走の労を取り、又一八八四年、『ロンドン神霊協会』が組織された時には、直ちにその最初の会長に推された。又晩年には、今日尚お刊行しつつある『ライト誌』の最初の主筆でもあった。 彼の晩年には、物理的心霊現象は全然止んだが、しかし自動書記現象は、その最後までつづいた。その中元来あまり健康でなかった彼の体力は、数回のインフルエンザの為めに、回復し難き迄に衰弱し、かくて一八九二年、(明治二十五年)九月五日を 以 ( もっ ) て帰幽した。 右の如く、彼の経歴には、さして非凡というほどの事もないが、しかし彼のすぐれた人格と、又その行くとして可ならざるなき抜群の才識とは、まことに驚嘆に値するものがあった。彼は 如何 ( いか ) なる問題でも、 之 ( これ ) を吸収消化せずという事なく、常に渾身の努力を挙げて、その研究にかかった。 就中 ( なかんずく ) 彼が 畢生 ( ひっせい ) の心血を 濺 ( そそ ) いだのは心霊問題で、 之 ( これ ) が為めには、 如何 ( いか ) なる犠牲をも払うことを辞せなかった。彼が多忙な生活中に、閑を割いて面会を遂げた政治界、貴族社会、学会、文学界、芸術界等の大立物のみでも幾百千というを知らなかった。要するに彼は一切の心霊問題に関して、当時の全英国民の顧問であり、又相談相手であった。 一個の人格者としてのモーゼスも、又 間然 ( かんぜん ) する所がなかった。公平で、正直で、謙遜で、判断力に富んでいると同時に、又絶大の同情心にも 富 ( と ) んでいた。彼はいかなる懐疑者、 煩悶者 ( はんもんしゃ ) をも、 諄々 ( じゅんじゅん ) として教え導くにつとめた。当時一般世人から軽蔑されたスピリチュアリズムが、 漸 ( ようや ) く堅実なる地歩を、天下に 占 ( し ) むるに至ったことにつきてはモーゼスの功労が、どれ 丈 ( だ ) け 与 ( よ ) って力あるか測り知れないものがある。彼は正しく 斯界 ( しかい ) の権威であると同時に、大恩人でもあった。 さてこの『霊訓』であるが、これにつきては、モーゼス自身が、その序文の中で 細大 ( さいだい ) を物語っているから、参考の為めに、その要所を 抄出 ( しょうしゅつ ) することにする。―― 『本書の大部分を構成するものは、所謂自動書記と称する方法で受信したものである。これは直接書記と区別せねばならない。前者にありては、霊媒はペン又は鉛筆を 執 ( と ) るか、若くは片手をプランセットに載せるかすると、通信が本人の意識的介在なしに書き綴られるのである。後者にありては霊媒の手を使わず、時とすれば、ペン又は鉛筆も使わずに、文字が直接紙面に現れるのである……。 『 此等 ( これら ) の通信は今から約十年前、一八七三年の三月三十日を 以 ( もっ ) て、私の手を通じて現れ始めた。私がスピリチュアリズムに親しんでから約一年後である。私はその以前から、いろいろの通信を受けたが、この自動書記が便利であり、又保存の為めにも都合がよいので、特に 之 ( これ ) を選んだ次第である。 敲音 ( ラップ ) を 以 ( もっ ) て一字ずつ書き綴るのは 煩 ( わずら ) わしきに過ぎ、又 入神状態 ( にゅうしんじょうたい ) に 於 ( おい ) て口で 喋 ( しゃべ ) るのは、その全部を保存し難く、又潜在意識の 闖入 ( ちんにゅう ) を、充分に防止し得るとは保証し難い所がある。 『私は一冊の手帳を求め、 平生 ( へいせい ) これを 懐中 ( かいちゅう ) して居るようにした。そうすると霊気が 浸潤 ( しんじゅん ) して、筆の運びが 迅 ( はや ) いからである。敲音なども、 平生 ( へいせい ) 使い慣れた 卓子 ( テーブル ) には早く起り、又諸種の心霊現象も、霊媒自身の居室でやるのが、最も容易に起り易いものである……。 『最初自動書記の文字は小さくて不規則であったので、ゆるゆると気をつけて書く必要があり、肉眼で手元と、行間を注意して居るのであった。さもないと、すべてが混乱して、まとまりがつかないものになった。 『が、しばらく過ぎると、そんな必要は 漸 ( ようや ) く消滅した。文字は一層小さくなったが同時に一層規則正しく、又綺麗になった。私はいつも、頁頭に質問事項を書いて置くと、 之 ( これ ) に対する解答が自動的に現れ、それには段落までつけてあるので、直ちに印刷に 附 ( ふ ) しても差支えないのであった。 神 ( ゴッド ) という字は、いつも頭文字で現れ、いかにも敬意を表するかの 如 ( ごと ) く、それに限りて、ゆっくり書くのであった。取扱わるる 題目 ( だいもく ) は、 悉 ( ことごと ) く 高尚 ( こうしょう ) 純潔 ( じゅんけつ ) なものばかり、そして他人に示すよりも、私自身の 指南車 ( しなんしゃ ) としてよいものばかりであった。自動書記は一八八〇年まで連続的に現れたが、その中に気軽な冗談とか、 洒落 ( しゃれ ) とか、 野鄙 ( やひ ) な文句とか、 頓珍漢 ( とんちんかん ) な理窟とか、嘘や 出鱈目 ( でたらめ ) とかは、私の知れる限りに 於 ( おい ) て、全然痕跡もなく、何れも皆真面目な教訓、又は忠言のみであった。 『初期の通信は、前にも言った通り 皆 ( みな ) 細字 ( ほそじ ) で書かれ、 其 ( その ) 書体も均一で、Doctor, The Teacher, と署名してあった。この司配霊の 手蹟 ( しゅせき ) はいつも同一で、一見その人と知ることができた。彼は私にとりて一の実在であり、一の人格であり、その性情は、私が地上で接触する人間と同様に、顕著なる一つの輪廓を 有 ( も ) っていた。 『そうする中に、通信は他の人格からも送られるようになった。筆蹟、文体、語法等各々皆特色がある。で、私には筆蹟だけ 一瞥 ( いちべつ ) すれば、それが何者の通信であるかが、はっきり判るようになった。 『他界の居住者中には、直接私の手を使うことができず、レクタアと称する霊をして、代筆せしむるものも少くないのであった。 蓋 ( けだ ) しレクタアは通信の名手で、さまで私の体力を消耗することなしに、自由に通信を行うらしいのであった。不熟練の霊に使われると、通信もまとまりが悪く、又私の疲労も非常に強烈であった。従って多くの場合に、レクタアが代筆したが、ただ或る霊が初めて通信を試みるとか、又は特に通信を強調する必要を感じた場合とかには、当事者が 親 ( みずか ) ら筆を執るのであった。 『但し、本書に収録された通信は、全部がイムペレエタアから出発し、そしてレクタアがその写字生をつとめたものである。他の場合、 殊 ( こと ) に通信の後期五年間に 於 ( おい ) ては、一団の霊達が各自自分の書体で通信を 寄越 ( よこ ) した。 『通信を受取る時の状態は 種々雑多 ( しゅじゅざった ) であった。通則としては私が周囲と絶縁することが必要で、私の心が受身になればなるほど、通信が容易であった。最初は筆の運びが難渋であったが、間もなく器械的運動が勝を占め、一頁又一頁と、苦もなく書き綴られるようになった。 『最初 此等 ( これら ) の通信を、スピリチュアリスト紙に発表するに当り、通信者達は全部に修正を施したが、内容の実質には、少しの変化もなかった。 爰 ( ここ ) に発表したものには全部個人関係の通信が省かれて居る。従って、最も力強く印象の深い部分が、自然除外されたことになったが、これは 如何 ( いかん ) ともすることができない。活字に 附 ( ふ ) せられたものは、未発表の部分の単なる標本として 之 ( これ ) を取扱い、 他日 ( たじつ ) 全部公開の機会の到来を待つより外に 途 ( みち ) がない。 『私自身の観念が、果してこの通信に加味されているか否かは、興味ある研究課題である。私としては、その防止に全力を尽した。最初は筆記が遅く、肉眼で文字を見送る必要があったが、それでも、盛られた思想は、決して私の思想ではなかった。間もなく通信の内容は、全部私の思想と正反対の性質を帯びるに至った。が、私は 依然 ( いぜん ) 警戒を怠らず、書記中に他の問題に自分の考を占領させるべく努め、難解の書物を 繙 ( ひもと ) いて、推理を試みつつあったが、それでも通信は、何の障害なしに、規則正しく現れた。 斯 ( こ ) うして書いた通信の枚数は沢山だが、それで少しも修正の必要なく、文体も立派で、時に 気焔万丈 ( きえんばんじょう ) 、 行文 ( こうぶん ) の妙を極むるのであった。 『が、私は私の心が少しも利用されないとか、私の精神的素養が、少しもその文体の上に影響を与えないとか主張するものではない。私の観る所によれば、霊媒自身の性癖が、たしかに 此等 ( これら ) の通信の中に見出されると思うが、これに盛られた思想の大部分は、全然私自身の平生の持論、又は信念とは没交渉であるばかりでなく、幾多の場合に 於 ( おい ) て、私の全然知らない事実がその中に盛られ、後で調査して見ると、これ 等 ( ら ) は 悉 ( ことごと ) く正確であることが確かめられた……。 『私には、 此等 ( これら ) の書きものに対して、 何等 ( なんら ) の命令権もなかった。それは通例求めない時に現れ、強いて求めても、必ずしも現象が起らないのである。私は 出所不明 ( しゅっしょふめい ) の突然の衝動に駆られて