大菩薩峠 女子と小人の巻 — 中里介山
一 伊勢から帰った後の道庵先生は別に変ったこともなく、道庵流に暮らしておりました。 医術にかけてはそれを施すことも親切であるが、それを研究することも 根 ( こん ) がよく、ひまがあれば古今の医書を 繙 ( ひもと ) いて、細かに調べているのだが、どうしたものか先生の病で、「医者なんという者は 当 ( あて ) にならねえ、人の病気なんぞは 人間業 ( にんげんわざ ) で 癒 ( なお ) せるもので 無 ( ね ) え」と言って、自分で自分を 軽蔑 ( けいべつ ) したようなことを言うから変り者にされてしまいます。そうかと思うと、「人の命を取ることにかけては新撰組の近藤勇よりも、おれの方がズット 上手 ( うわて ) だ、今まで、おれの手にかけて殺した人間が二千人からある」なんというようなことを言い出すから穏かでなくなってしまうのです。どこから手に入れたか、この日は 舶来 ( はくらい ) の 解剖図 ( かいぼうず ) を拡げて、それと一緒に一 挺 ( ちょう ) のナイフを 弄 ( いじ ) りながら 独言 ( ひとりごと ) を言っています。 「 毛唐 ( けとう ) は面白いものを作る、こうすれば鎌になる」 ナイフの刃を 角 ( かく ) に折り曲げて鎌の形にし、 「それからまた、こうすれば 燧 ( ひうち ) に使える、こうして引き出せば 庖丁 ( ほうちょう ) にもなり 剃刀 ( かみそり ) にもなる」 たあいないことを言って、ナイフをおもちゃにして解剖図を研究しているところへ、 「先生」 「何だ」 「お客でございます」 「お客? いま勉強しているところだから、 大概 ( たいがい ) のお客なら追払っちまえ」 「与八さんが来ました」 「与八が?」 「与八さんが馬を 曳 ( ひ ) いて来ました」 「与八が馬を曳いて来た? そいつは面白い、こっちへ通せ」 与八が沢井から久しぶりで道庵先生を訪れて来ました。 「与八、お前が来たから今日は、おれも久しぶりで江戸見物をやる、どうだ、両国へでも行ってみようか」 「お 伴 ( とも ) をしましょう」 その翌日、道庵は与八をつれて両国へ出かけました。与八の背には 郁太郎 ( いくたろう ) が 温和 ( おとな ) しく眠っています。 道庵先生は両国へ行く途中も、例の道庵流を発揮して通りがかりの人を笑わせました。 「あそこが両国だ、大きな川があるだろう、 間 ( あい ) を流るる隅田川というのがあれだ。向うは 上総 ( かずさ ) の国で、こっちが武蔵の江戸だから、昔し両国橋と言ったものだが、今はあっちもこっちもお江戸のうちだ。どうだい、景気がいいだろう、 幟 ( のぼり ) があの通り立ってらあ、橋の向うとこっちに見世物小屋が並んでる、見物人がいつでもあの通り真黒だ、木戸番が声を 嗄 ( か ) らしていやがる。与八、うっかりあの前へ行ってポカンと立っていると 巾着切 ( きんちゃくきり ) に巾着を切られるから用心しろ、ぐずぐずしていると 迷児 ( まいご ) になるから、おれの袖をしっかり 捉 ( つか ) めえていろ、自分の足を踏まれぬように、背中の子供を押しつぶされねえように気をつけて」 こうして二人は両国の 人混 ( ひとご ) みへ入り込んで行きました。 「先生、こりゃ何だい」 与八はいちいち見世物の絵看板の前で立ち止まる。 「こりゃその 駱駝 ( らくだ ) の見世物だ」 「駱駝というのは何だろう、馬みたような変てこなものだな」 「そりゃ 南蛮 ( なんばん ) の馬だ」 「背中に 瘤 ( こぶ ) がある」 「あれが 鞍 ( くら ) の代りになる」 「おおきな瘤だな」 「はははは」 「先生、こりゃ何だ」 「これは 籠細工 ( かございく ) というものだ、今 はやり の籠細工というものだ」 「 綺麗 ( きれい ) だなあ」 「その次は竹細工、糸細工、 硝子細工 ( びいどろざいく ) 、紙細工」 「綺麗だなあ」 「それから 駒廻 ( こままわ ) し」 「やあ、駒から水が出ている」 「今度は 機関 ( からくり ) 」 「やあ、機関まである」 「女盗賊三島のお仙ときたな、こりゃ三座太夫だ、次が おででこ 芝居」 「芝居で歯磨を売るのはおかしい」 「はははは」 「それでも先生、『おあいきやう手踊り御歯磨調合人、岩井 管五郎 ( くだごろう ) 』と書いてある」 「いや、こいつらは、もと歯磨売りとしてその筋へ願ってあるのだ、芝居をすると言って始めたのではない、それだから今でも歯磨の看板を出しているのだ」 「ああ、 打掛 ( うちかけ ) を着たお姫様が向うを向いている、ありゃ何だ」 「与八、あんなものを見るものではない、ありゃ士君子の見るべからざるものだ」 「みんな中で笑っている」 「因果娘、蛇使い、こんなものの前は眼をつぶって通れ」 「そうですか」 「後ろから見ると、あの通り美しい女に見えるが、前に廻って見れば 言語道断 ( ごんごどうだん ) のものだ。さあ与八、ここに 軽業 ( かるわざ ) がある」 「なるほど、こりゃあ軽業だ、軽業、足芸、力持。やあ、大した看板だ、この小屋が今までのうちでいちばん大きいね、これなら一万五千人ぐらい、人が入れべえ」 「そんなに入れるものか、千人は入れるだろうな」 「やあ、あんな高いところで、よくあんな芸当ができるものだなあ。あんな綺麗な 面 ( かお ) をした娘が 逆 ( さか ) さになって、足で 盥 ( たらい ) を組み上げて、その上で三味線を弾いてらあ、エライものだなあ。こっちの方は綱渡りか」 与八は余念なくこの立看板を 仰向 ( あおむ ) いて見て行くうちに、 「大評判、印度人槍使い」 ちょうどまん中のところに掲げられた、わけて大きくした絵看板の前まで来ました。 「先生、この槍使いの 面 ( かお ) は、こりゃ何という面だ」 「はははは」 「面も身体も真黒で、眼を光らかして、 裸体 ( はだか ) で槍を持って立っているが」 「こりゃ印度人だよ、印度といって 天竺 ( てんじく ) のことだ」 「へえ」 「印度から来た槍使いと書いてある」 「なるほど、印度にも槍があるのかねえ、印度の槍というのは、あんなものかねえ」 「そうだ」 「印度の人というのは、みんなあんなに面も身体も黒いのかねえ」 「黒ん坊とさえ言うからな」 「どうしてあんなに黒くなるんだろうな、染めたわけじゃあるまいねえ」 「染めたわけじゃない、印度は熱い国だから日に焼ける、日に焼けると色があんなに黒くなる」 「へえ」 「なんしろ冬というものがなくって、夏ばかりある国だ、その夏がまた日本よりも十層倍も暑いのだから、そこに住むやつらは照りつけられて、あんなに黒くなる」 「ずいぶん黒いなあ」 「さあ評判評判、印度の国はガンジス河の河岸で生れました 稀代 ( きだい ) の槍使いはこれでござい、ごらんの通り、身の丈わずか四尺一寸なれども、槍を使うては神妙不可思議、これまでこの男の槍先に 斃 ( たお ) されましたところの虎が三十八頭、 豹 ( ひょう ) が二十五頭、そのほか猛獣毒蛇をこの一本の槍先で仕留めましたること数知れず、或る時ヒマラヤ山の麓におきまして不意に一頭の猛虎に襲われましたる折に、右の 股 ( もも ) を 牙 ( きば ) にかけられ、すでにこうよと見えたるところを、取り直して、グサと突込みました一槍で、猛虎の口から尻まで突き通して仕留めましたその働きが、国王殿下のお耳に入り、この通り首にかけたる金銀のメタル、これが印度国王殿下からの賜わり物にござりまあす。それより 以来 ( このかた ) 、当人は右足の自由を失いまして片足の芸当、高いところは十丈の 梁 ( はり ) の上を走り、低いところは水の底をくぐる、馬に乗りましてこの槍を使いますれば馬上の槍、我が朝におきましては宝蔵院の入道、高田又兵衛といえどもこれには及ばず。 嘘偽 ( うそいつわ ) りと思召すなら御見物の方々、 御持合 ( おんもちあわ ) せの 手裏剣 ( しゅりけん ) なり鉄扇なり、または備え置きましたる半弓、石、瓦の 類 ( たぐい ) をもって、御遠慮なく当人の四肢五体いずれへなりともお 覘 ( ねら ) いをつけ下し置かれ、まんいち当人の身に一つでも当りましょうならば、その場において、ここにござりまする虎の皮三枚、豹の皮二枚、これをお 土産 ( みやげ ) までにどなた様にも差上げまする。長い浮世に短い命、こういうものが二度とふたたび、日本の土地へ参りましょうならお目にかかりまする、 孫子 ( まごこ ) に至るまでのお話の種、評判の印度人、ガンジス河の槍使いはこれでござい!」 「ははあ、これがこのごろ評判の槍使いだな」 「先生、本当だんべえかね、本当に印度からこんなエライ槍使いが来ているのかね」 「口上言いの言うことは 当 ( あて ) にならねえが、それでもこのごろは、この見世物がばかに評判だ、まるっきり嘘を言って評判を立てるわけにもゆくめえから本当かも知れねえよ」 「そうかなあ」 与八はしきりにその印度人槍使いの大看板をながめていますから道庵が、 「与八、これがそんなに気に入ったか。それでは、こいつをひとつ見せてやろう」 「そうしておくんなさい」 「俺もこいつをひとつ見たいと思っていたのだ」 二十四文ずつの木戸銭を払って、道庵と与八はこの小屋の中へ入りました。 小屋の中は 摺鉢 ( すりばち ) のようになって、真中のところが興行場になっていて、見物は相撲を見ると同じように、四方から囲んで見ることになっています。 道庵と与八とは土間の程よいところに陣取って、与八は郁太郎を 卸 ( おろ ) して膝にかかえ、物珍らしそうに、この大きな小屋がけの天井から 板囲 ( いたがこい ) いっぱいになった見物人の方をながめて、 「たいへん人が入っている」 この時の前芸は駒廻しで、その次が足芸。 紋附を着て袴を 穿 ( は ) いて 襷 ( たすき ) をかけた娘が三人出て来て、台の上へ仰向きに寝て足でいろいろの芸をやる。それから力持、相撲のように太った女、 諸肌脱 ( もろはだぬ ) ぎで 和藤内 ( わとうない ) のような風をしているその女の腹の上へ 臼 ( うす ) を載せて、その上で餅を 搗 ( つ ) いたり、その臼をまた手玉に取ったりする。 道庵はそれを見ながら、与八を相手にあたりかまわず無茶を言っては、 鮨 ( すし ) と 饅頭 ( まんじゅう ) を山の如く取って与八に食わせ、自分も食いながら、 「今度は、例の印度人の槍使いだな」 問題の印度人、 書入 ( かきい ) れの芸当。長い浮世に短い命、二度とふたたびは日本の土地で見られないと口上が言った。前にも後にも初めての舶来、看板でおどかし、呼込みで景気をつけ、次に中入り前に、ワザワザ時間を置いて 勿体 ( もったい ) をつけて、また改めて口上言いが出て、 「さて皆々様、これよりお待兼ねの印度人槍使いの芸当……」 前のに 尾鰭 ( おひれ ) をつけて長々と、槍使い一代の履歴を述べ、さんざん 能書 ( のうがき ) を並べて見物に気を持たせておいて、口上が引込むと拍子木カチカチと、東口から現れたのがその印度人であります。 「なるほど、こりゃ黒ん坊だ、看板に 偽 ( いつわ ) りは 無 ( ね ) え」 見物はその異様な 風采 ( ふうさい ) でまず大満足の意を表します。なるほど背四尺一寸と看板に書いてあった通り。手に持った槍、柄は真赤に塗ってあって、 尖 ( さき ) が 菱 ( ひし ) のようになっている、それも看板と間違いはない。 身体 ( からだ ) は 漆 ( うるし ) のように黒く、眼ばかり光って、唇が 拵 ( こしら ) えたように厚く、唇の色が塗ったように 朱 ( あか ) い、頭の毛は 散切 ( ざんぎり ) で 縮 ( ちぢ ) れている、腰の 周囲 ( まわり ) には 更紗 ( さらさ ) のような 巾 ( きれ ) を巻いている、首には例の国王殿下から賜わったという金銀のメタルが輪になって輝いている、それもこれもみんな看板と同じこと。それが東口から 赤柄 ( あかえ ) の 菱槍 ( ひしやり ) を突いて出て来る 足許 ( あしもと ) は、一歩は高く一歩は低いものであります。 「なるほど……あの足だな、あれがヒマラヤ山で虎に食われた足なんだ」 その 跛足 ( びっこ ) がまた 大喝采 ( だいかっさい ) 。 「イヨー、舶来の加藤清正!」 「虎狩りの名人! 日本一! 世界一!」 見物は 喚 ( わめ ) く。 「先生」 「与八」 「看板の通りだね」 「看板の通りだよ」 やがて真中の土俵まで出て来た印度人、光る眼をギョロつかせて四方を見る。どんな心持でいるのだか、色が黒いから 面 ( かお ) の上へは情がうつりません。 「キーキーキー」 白い歯を 剥 ( む ) き出して、猿の 啼 ( な ) くような声を出して、左の手を高く挙げました。 「あれが向うの 挨拶 ( あいさつ ) なんだね、日本でこんにちはと言うのを、印度ではキーキーと言うんだろう」 「それに違えねえ」 印度人は、キーキーと言いながら、右の手には槍を持ち、左の手は高く挙げたまま、グルリと見物を 一週 ( ひとまわ ) り見廻して正面を切ると、一心に見ていた道庵先生と期せずして 面 ( かお ) がピタリ合いました。 道庵の面をしばらく見詰めていた印度人。 他目 ( よそめ ) には誰も何とも気がつかなかったが、印度人はブルブルと 慄 ( ふる ) えて、危なく槍を取落すところを、しっかりと持ち直して、わざとらしく横を向きました。 「はて、おかしいぞ」 道庵先生もまたこの時首を 捻 ( ひね ) りましたが、 「何だね、先生」 「どうも、おかしい、あの印度人は見たことのあるような印度人だ」 「先生は印度人にも友達があるのかね」 「どうも、あの時より肉は少し落ちているが、骨組に変りはなし、 跛足 ( びっこ ) に申し分もなし、こいつはいよいよおかしい」 道庵先生は、 慈姑 ( くわい ) 頭を振り立てて印度人の 恰好 ( かっこう ) を横から見、縦から見ていましたが、 「あはははは」 突然、大きな声で笑い出しました。