The Tale of the Heike — 第七巻 (Modern Translation) — 信濃前司行長(伝) / 武田友宏 訳
北国下向 寿永 ( じゅえい ) 二年三月上旬、同じ源氏同志の 木曽義仲 ( きそのよしなか ) と 兵衛佐頼朝 ( ひょうえのすけよりとも ) との仲にひびが入った。頼朝は、義仲を討つために十万余騎を引き連れて、信濃国へ乗込んでいった。驚いた義仲は、 依田城 ( よだのじょう ) を出ると、信越の境にある熊坂山に陣をとり、信濃国善光寺に着いた頼朝のところへ、乳母の子で、腹臣の家来でもある今井四郎 兼平 ( かねひら ) を使者として送った。 「どういうおつもりで、義仲を討とうとおっしゃるのですか。貴方は、東八カ国を従え東海道から、私は、東山、北陸道よりと、目的は同じ、一日も早く平家を滅したいということである筈、それを、ここで、貴方と私が仲違いし、同志討ちしたとあっては、今までの苦心も水の泡です、平家の者どもから嘲笑を買うことも目に見えております。確かに、貴方と仲の悪い十郎 蔵人 ( くらんど ) 殿は私のところに来ました。しかしわざわざ、義仲の許に来たものを、すげなく帰すのも、気の毒で、今はいっしょにくらしておりますが、そうかといって、この義仲が、貴方に恨みがあるとは、余りに突飛ないいがかりでしょう」 これに対する頼朝の返事は、 「今はそう申しているが、確かに貴殿が、この頼朝を討とうという 謀叛 ( むほん ) の企てがあると申した者がいるのです。今更、何をいわれても無駄ではありませんか?」 といって取り合わなかった。その上、 土肥 ( どひ ) 、 梶原 ( かじわら ) などを先陣に、既に討手さえ差し向ける気配であった。慌てた義仲は、謀叛心のないことを証明するため、嫡子 清水冠者 ( しみずのかんじゃ ) 義重という当年十一歳の息子に、 海野 ( うみの ) 、 望月 ( もちづき ) 、 諏訪 ( すわ ) などといった一騎当千の侍達を付けて、人質にさし出したので、頼朝も始めて義仲の本意を覚り、まだ子のないところから、義仲の子を引きとって育てようと、一緒に鎌倉に連れて帰った。 義仲は、東山道、北陸道をあらかた従え、旭日昇天の勢いで、都を目指して攻めのぼる気配であった。 平家の方でも、去年から、今年は戦があるからと予告しておいたので、山陰、山陽、南海、西海から雲霞のごとき軍勢が集ってきた。東山道からは、近江、美濃、 飛騨 ( ひだ ) のものが来たが、東海道では、 遠江 ( とおとうみ ) から東の者は源氏に味方し、それが北陸道となると、 若狭 ( わかさ ) 以北は一兵も集らなかった。 義仲を討った後、頼朝を平げようと、北陸に向けて平家の諸将が下向することになった。 大将軍に、小松 三位 ( さんみの ) 中将 維盛 ( これもり ) 、越前三位 通盛 ( みちもり ) 、 但馬守経正 ( たじまのかみつねまさ ) 、 薩摩守忠度 ( さつまのかみただのり ) 、三河守 知度 ( とものり ) 、 淡路守清房 ( あわじのかみきよふさ ) 、侍大将には、越中 前司盛俊 ( のぜんじもりとし ) 、 上総大夫判官 ( かずさのたいふのはんがん ) 忠綱、 飛騨大夫 ( ひだのたいふ ) 判官景高、 高橋判官 ( たかはしのはんがん ) 長綱、河内判官秀国、 武蔵 ( むさしの ) 三郎佐衛門有国、越中次郎兵衛 盛次 ( もりつぐ ) 、上総五郎兵衛忠光、 悪七兵衛景清 ( あくしちびょうえかげきよ ) の面々、合わせて十万余騎の大軍が、寿永二年四月十七日、都を出発したのである。途中、沿道よりの徴発を許された彼らは、行く道々で、租税といわず、物具、食料、ありとあらゆるものを奪いとったので、しまいに、沿道に当る家の者は、家財道具を持って逃げ出す始末であった。 竹生島 ( ちくぶしま ) 詣 ( もうで ) 北国へ向けて進軍を開始した平家の一門のうち、経正、忠度、知度らはひと足遅れ、近江国 塩津 ( しおつ ) 、 貝津 ( かいづ ) のあたりで、暫く止まっていた。経正は、詩歌管絃にひときわすぐれた技倆の持主で、こういう戦乱の最中にあっても、決してみやび心を忘れなかった。琵琶湖のほとりで、何心なくあたりの景色を観賞していると、不図、湖の中にある島が目に入った。供の 藤兵衛有教 ( とうひょうえありのり ) を召して聞いた。 「あれは何という島か?」 「あれこそ、名高い 竹生島 ( ちくぶしま ) でござります」 「ほう、あれがそうだったのか、それならば事のついでだ、参詣いたそう」 経正は、有教ほか五、六人の供を連れて、島に渡った。丁度四月も半ばすぎて、春もようやく、盛りを過ぎようとしている頃である。 鶯 ( うぐいす ) の声は絶えだえに、今や、ほととぎすの初声も聞えようといった気配であり、島に降りたってみると、その趣きの面白さは、しばらく言葉も出ないほどであった。かの秦の始皇帝、漢の武帝が、尋ねあぐんだ 蓬莱洞 ( ほうらいどう ) も、丁度こういうところではないかと思われるくらいであった。古いお経の文句にある。「 閻浮提 ( えんぶだい ) の内に湖あり、その中に金輪際より生い出でたる水晶の山あり、天女の住む所なり」というのはこの島のことであろうか。 経正は、竹生島明神の前にひざまずくと、しばらく心をこめて祈念をこめた。そのうちにいつしか、あたりに夕闇がたちこめてきた。折しも昇ってきた陰暦十八夜の月が湖上を昼間のように照し出した。月の光に 社壇 ( しゃだん ) 始め、あたりの景色は、昼間とは趣きを変えて、神秘的な美しさを漂わしている。 「よい折でござります、かねてよりご名声の高い琵琶を是非お聞かせ下さい」 住持が寺にあった琵琶を差し出したので、元々好きな道でもあり、興ものっていたので、経正は喜んで弾き始めた。秘曲といわれる 上玄 ( じょうげん ) 、 石上 ( せきじょう ) の秘曲にまでくると、いつしか、あたりの空気も、草も木も人も一体になって、唯、澄みきった琵琶の音だけが、静かな湖水の夜を流れてゆくのである。明神も、経正の神技に感じ入ったらしい。経正の袖の上に、 白竜 ( びゃくりゅう ) となって姿を現した。 経正は、あまりのうれしさに、感激の涙を流しながら一首の歌を詠んだ。 ちはやぶる神に祈のかなえばや しるくも色の現われにけり 幸先 ( さいさき ) 良しと勇みたった経正は、喜び勇んで湖岸の陣所に戻っていった。 火打 ( ひうち ) 合戦 信濃国にあって、全軍の指揮をしている木曽義仲は、越前国に 火打城 ( ひうちがじょう ) という城を築かせた。ここは天然の要害で、四方を険しい峰に囲まれ、直ぐ後には山を控え、あたり一面は、 巍峨 ( ぎが ) たる岩石の山であった。城の前には、 能美河 ( のうみがわ ) 、 新道 ( しんどう ) 河が流れ、この二つの川の落ち合うところは、大木を 伐 ( き ) って 逆茂木 ( さかもぎ ) とし、水流をせき止めるために杭を打ち渡した。そのために、せきとめられた水が山のふもとにあふれて、時ならぬ湖ができあがった。これでは、舟でもなければとても渡ることは不可能であったから平家の軍勢は、対岸に陣を敷いて、手をこまねいて見ているばかりであった。 火打城を守っていたのは、 平泉寺 ( へいせんじ ) の 斎明威儀師 ( さいめいいぎし ) 、 稲津新介 ( いなづのしんすけ ) 、 斎藤太 ( さいとうだ ) 、林六郎光明、 富樫入道仏誓 ( とがしのにゅうどうぶっせい ) といった面々六千余騎であったが、その中の一人、斎明威儀師は、かねて平家には並々ならぬ恩顧を蒙っていたので、内通の決心をすると、そっと密書を矢尻に入れて、平家方に矢を放った。 平家の兵がこれを取って早速、大将軍の前に持ってきた。 「かの湖は天然の湖水ではなく、山の川をせきとめて人工的につくったものです。夜に入ってから、そっと水をせきとめている柵を切って落せば、たちまちの内に水の引くことは確かです。さすれば、馬の足場も良いところ故、急いでお渡り下さい。城内よりご加勢いたしましょう、かく申す私は、平泉寺の長吏斎明威儀師にございます」 平家方は、その夜のうちに、ひそかに足軽に命じて柵を切らせた。たちまちのうちに水の引いたところで、平家の軍勢は、どっとばかりに、ときの声をあげて、城に殺到した。多勢に無勢の木曽勢は、奮戦むなしく一刻ごとに、敗色深くなるところへ、更に斎明の裏切りも手伝って総崩れとなった。大将格の稲津、斎藤、富樫らの面々は、加賀国を目ざして退却した。 平家は、なおもこれら残党を追って加賀国に追撃、林、富樫、両人の城を焼き払って気勢をあげた。 勝利の知らせは、直ぐ都に伝わったが、一門の喜びようは大変なものであった。 続いて、加賀国 篠原 ( しのはら ) で勢揃いした平家の軍勢は、そこで二手に分れた。大手に向ったのは、小松三位中将を大将軍とする七万余騎、 搦手 ( からめて ) には、薩摩守忠度、三河守知度を頭とする三万余騎で、能登、越中の国境、志保山に向った。 越後の 国府 ( こう ) でこの知らせを聞いた義仲は、五万余騎の手勢をひきいて駆けつけてきた。義仲は軍を七手に分ち、叔父蔵人 行家 ( ゆきいえ ) は一万余騎で志保山へ、 仁科 ( にしな ) 、 高梨 ( たかなし ) 、山田次郎らで 北黒坂 ( きたくろさか ) へ七千余騎、南黒坂には 樋口次郎兼光 ( ひぐちのじろうかねみつ ) らが七千余騎、又一万余騎は伏兵として、 礪並 ( となみ ) 山の口、黒坂の裾、松長の柳原、 茱萸 ( ぐみ ) の 木 ( き ) 林 ( ばやし ) に、今井四郎兼平のひきいる六千余騎は、 鷲 ( わし ) の 瀬 ( せ ) を渡って 日宮 ( ひのみや ) 林に陣を構え、大将義仲は、一万余騎を引き連れ、 埴生 ( はにゅう ) に陣を敷いた。 願書 平家の軍勢の様子をうち眺めた義仲は、おもむろに口を開いた。 「平家は大軍じゃから、恐らくは礪並山を越え、広い場所で正面から戦を挑むつもりであろう。しかし、そうなっては、無勢の我が方の不利、それよりも、旗差し物を何十本かつくり、源氏の白旗を一時にさしあげよ。すると、平家方は、源氏方は定めて大勢の様子、のこのこと広い場所に出ていってとりこめられては敵わない、それよりもこの山は、要害堅固の地だから、暫く休息していても大丈夫であろう、と思ってきっと山中で一時の休息をいたすであろう。その間、こちらは、ほどほどにあしらっておき、夜に入ってから、平家方を一挙に、 倶利迦羅峠 ( くりからとうげ ) へ追い落すのじゃ」 義仲の予想はうまく的中した。平家は案の定、礪並山の山中、 猿 ( さる ) の 馬場 ( ばば ) というところで腰を据え、馬に水をやって暫く休息することになった。 一方義仲は、 埴生 ( はにゅう ) に陣をとり、あたりを眺めていると、赤い鳥居が目に入った。 義仲は、すぐ、地理に詳しい者を呼び、 「あれは何の宮じゃ、何の神を祭ってあるのか?」 と尋ねた。 「あれは八幡様でございます。このあたりは、八幡の御領なのでございます」 義仲はその返事をきくと直ぐに、書記として連れていた 大夫房覚明 ( だいふぼうかくめい ) を呼びだし、 「きくところによれば、八幡宮の側近いようじゃ。義仲は、唯今より合戦に臨むにあたり、後代のため、また勝利の祈祷のため、願書を書いて納めたいと思うがどうじゃ?」 「まことに結構なことでございます」 といって覚明は馬から下りたって願書を書く用意にかかった。覚明はその日、 黒皮縅 ( くろかわおどし ) の鎧を着て二十四差した 黒 ( くろほろ ) の矢を負い、 塗籠籐 ( ぬりごめとう ) の弓を脇にかいばさんだ勇ましい姿であったが、 兜 ( かぶと ) を脱いで背中にかけ、 箙 ( えびら ) から、 小硯 ( こすずり ) と 畳紙 ( たとうがみ ) を取りだすと、すぐ願書を書きはじめた。 覚明は、儒家の出身で、 蔵人道広 ( くらんどみちひろ ) と名乗って、一時、 勧学院 ( かんがくいん ) にいたことがあるが、出家して 最乗坊信救 ( さいじょうぼうしんぎゅう ) と名乗っていた。例の高倉宮の旗上げのとき、 園城寺 ( おんじょうじ ) の牒状に対する南都の牒状を書いたのが、この信救で、「 清盛 ( きよもり ) は、平氏のかす・ぬか、武家のごみ」という痛烈な文句で清盛をかんかんに怒らせ、南都から北国に逃げて来たのである。今では、義仲の書記として、名も大夫房覚明と改めていた。覚明は誠心こめて、戦勝の祈願文を書き綴った。それに義仲始め十三人の 上矢 ( うわや ) の 鏑 ( かぶら ) をぬいて、御宝殿に納めた。八幡大菩薩も、この誠心あふるる祈願には心を動かされたのであろう、折しも雲の中から飛んできた山鳩が三羽、源氏の白旗の上を飛び 翔 ( かけ ) ったという。 その昔、神功皇后の新羅征伐の時も、味方の勢が弱く今にも破れそうな時、皇后が天に祈りを捧げると、三羽の霊鳩がとんできて、戦はたちまち逆転、皇后の勝利となったことがある。又、義仲の祖先、源頼義が、 貞任 ( さだとう ) 、 宗任 ( むねとう ) を攻めたとき、味方の旗色が悪くなったので、頼義は敵陣に向い、「これは、神火なり」と火を放つと、風向きが変り、火は貞任の城を焼き払い、頼義の軍は大勝したのである。 義仲はこれらの先例を思いだすと、急いで馬から下り、兜を脱ぎ、うやうやしく鳩を伏し拝んだ。 倶利迦羅落し 礪並山 ( となみやま ) をはさんで向い合った源平両家の軍勢は、その間、僅か三町という近さに対陣しながら、一向に動き出す様子がなかった。源氏も進まず平家も進まず、源氏が、弓の精兵十五騎をくり出し、上矢の鏑を平家の軍に射こめば、平氏も又同じ十五騎で、十五の鏑を返すという有様である。源氏が三十騎出すと、平家方も三十騎、源氏が五十騎になると平家も五十騎、源氏方は、一時でも時をかせぐつもりだから、はやる将兵を戒めて、勝負をさせない。平家はこんな術策があろうとは夢にも知らず、便々と日の暮れるまで、このばかばかしい戦いを続けているのであった。 やがて、いつかあたりも暗くなり、人の姿も定かには見えなくなった頃、北南より廻った 搦手 ( からめて ) の一万余騎が、頃は良しと倶利迦羅堂前あたりで落ち合い、 箙 ( え