青い眼鏡 — 野村胡堂
一 「アラ、皆さんお揃い、よかったわねエ」 素晴らしい年増、 孔雀 ( くじゃく ) のように悠揚としてクラブの食堂に現われました。今は有名な美容術師で、派手な浮薄な、 如何 ( いかが ) わしい限りの生活をして居りますが、元は外交官の夫人だったという噂のある村岡 柳子 ( りゅうこ ) 、商売物の化粧品を、フンダンに使った厚化粧の 埃及 ( エジプト ) 眉毛、濃い紅を含んだ唇も、なんとなく 年齢 ( とし ) を超越して 仇 ( あだ ) めきます。 「イヨウ村岡夫人、相変らず大変な元気だね」 「まあ、宇佐美さん、断然久し振りねエ、何んという風の吹き廻しでしょう、近頃は 私 ( わたし ) 、 貴方 ( あなた ) の禿げ振りを夢に見て仕様が無いのよ」 「御挨拶だね、もう少し愛嬌のある口上は無いものかね」 成程 ( なるほど ) これは薄禿げた得体の知れない人物、本人は文士と名乗って居りますが、 何処 ( どこ ) の雑誌へも新聞へも、 曾 ( か ) つて名前の出たことの無い宇佐美六郎です。眉も目も鼻も口も、何んとなく のんびり して、頭の光る割には気の若い、 何処 ( どこ ) か間延のした男、村岡柳子のような 阿婆摺 ( あばず ) れには、丁度手頃の からかい 相手かも知れません。 「二人が寄るともう口喧嘩だ、始末の悪い人達だね」 これは会社員島 幾太郎 ( いくたろう ) 、年の頃三十二三、五分もすかさぬ当世風の男前です。 「相性が悪いんだワ、ちょいと柳子さん、今大変な問題があるのよ、 貴女 ( あなた ) の智慧も少し貸して下さらない……」 「ヘエ、私の智慧、――智慧や金で済むことならって言い 度 ( た ) いが、 生憎 ( あいにく ) 今晩は智慧の小出しをみんな家の 箪笥 ( たんす ) へしまい忘れて来ちゃったの、お金の方で我慢してくれない」 「そう、そんな景気なの、それでは何かおごって下さるでしょうね」 キネマ女優、芳野 絢子 ( あやこ ) 、 鬘 ( かつら ) 下に青い 眼鏡 ( めがね ) 、お振袖のような派手な 袷 ( あわせ ) の肩を、素晴らしい羽織が 兎 ( と ) もすれば滑ります。 「ちょいと、これは 如何 ( いかが ) 、今この入口で貰った芝居の ちらし よ、この芝居なら 私 ( わたし ) 此処 ( ここ ) に居るありったけの人達におごるわ」 「何んだ、国民劇場の広告じゃないか、入場料一人金五十銭也だろう、そんなものをおごられる方が迷惑だ」 これは金持の坊ちゃん、中島助丸、 「村岡夫人のおごるのは、お断り申し上げた方がいいぜ、 此間 ( このあいだ ) 野球の勝負へ、一番好きなものを賭ける約束で、僕が勝つと、塩豆を買って来るじゃないか、そんなものは 嫌 ( きらい ) だって言うと、でもこれは私が一番好きですからと言うんだ、呆れ返った婆さんだ――」 これは若い技師の松井菊三郎、 「何んです婆さんとは、貴夫人に対して失礼じゃありませんか、第一、私は宇佐美さんのように禿げちゃ居ませんよ」 「ワアッハハハ、ハッハッハハ」 轟然として笑いが爆発します。 都銀行の地下室、クラブと食堂と 酒場 ( バー ) と三つに仕切った、その中の食堂へ陣取ったのは、 此処 ( ここ ) の長い常連で、身分は知らないが、互に顔も名も知り尽して居る十二三人の男女です。 「冗談は冗談として、その智慧が入用だという話はどんな筋なの、小出しの智慧は持って居ないが、大口の智慧なら持って居るわ、随分用立てて上げてもいいのよ」 「村岡夫人の大口の智慧と来た日には 尚 ( な ) お凄い――」 「誰れ? そんな隅っこから人をくさすのは?」 「我輩」 「何んだ、禿ちゃびんの宇佐美さんか、あんまり変な事を言うと、これからいくら拝んでも 交際 ( つきあ ) ってやらないからいい」 「ワッ――、ハッハッハッ」 又も轟然たる笑い、 「いやはや、呆れた婆さんだ、此間も私の胸倉を捉まえて、いくらノラクラ文士でも、住所位は人に知らせて置くもんだ、そうでもなければ、毎日都銀行の地下室へ、一度ずつ顔を出しなさいッ――って言ったのは誰だっけ?」 「畜生畜生、あんな 出鱈目 ( でたらめ ) を言う、いけ好かない 爺 ( じじい ) っちゃ無い、お前さんこそ、この間私の家へやって来て、多勢居る前で、村岡さん 貴方 ( あなた ) は 何時 ( いつ ) までもそうして後家を立て通す気か、それとも後添を探す気でもあるのか、――って、 執拗 ( しつこ ) く聞いた癖に、そして、万一再縁してもいいようなら、私にも少し考があるって――」 「ワアッ、ハッハッハハ、これは良い」 「とても気に入っちゃった、ワッハハハ」 いや大変な騒ぎです。 「実はね村岡さん」 少し一座の落付くのを見計らって、女優の芳野絢子は口を切りました。 「近頃評判になっている、大谷 千尋 ( せんじん ) を御存じだわねエ」 「エ、エ、あの多勢の部下を持って、大銀行を片っ端から襲撃する恐ろしい泥棒の?」 「その大谷千尋は、きっと捕まるに相違ないという意見と、いやどうしたって捕まらないという説と、二つに分れちゃったの。島さんはその捕まらないって方の代表者で、宇佐美さんは捕まるって方の代表なの。島さんに言わせると、……大谷千尋という兇賊は、どうしても百人以上の部下を持って、それを手足のように働かして居る、銀行を一つ襲撃するにも、二ヶ月、三ヶ月も準備をして、万全を期した上でなければ手を下さないらしい、とてもあれは捕えられない……って、 斯 ( こ ) う言うんです。すると宇佐美さんは、……大谷千尋はどんなにエライと言ったところで高が泥棒だ、天網 恢々 ( かいかい ) 疎にしてもらさずと言うじゃないか、時期が来ればきっと捕まるに相違ない……って、斯う言うんです。それに警視庁には 花房 ( はなぶさ ) 一郎という者がある、花房一郎は、命にかけても大谷千尋を捕えずには置かないって、斯うも言うんです。 此処 ( ここ ) に居る人達はみんな島さんに賛成しちゃって、宇佐美さんはたった一人ぼっちなの、 貴方 ( あなた ) はどちらに賛成なさるお積り?」 「面白いわね、芳野さんは一体 何方 ( どちら ) の組なの、それを聞いてから私の態度もきめるワ」 「あら、ずるいわ――私には何が何んだか判らないけれども、平気で人を殺したり、お金を取ったりする、泥棒の肩は持てないような気がするワ」 「そりゃ泥棒が悪いに極って居るが、善い悪いは別として、捕まるか捕まらないかって事になれば、私は島さんの方に賛成するわ、警視庁にも花房一郎なんて、名探偵とか何んとか言われる人もいるにはいるけれども、近頃はタガが緩んで、すっかり駄目になっちゃった様ね、島さん」 「花房一郎? あんな者はもう時世遅れだよ、岡っ引に背広を着せたような探偵に、最新式の知識を応用する、大谷千尋は捕まる筈は無い」 島幾太郎は我が意を得たりとばかり、美容術師の方を振り向いて 莞爾 ( にっこり ) します。 「あら、島さんはなかなか話せるわね、その点で握手しましょう」 「よかろう」 向い合って、両方から差し延べた手が、丁度食卓の真ん中でピタリと合います。 二 「花房一郎をとがめるのは無理だよ、つい此間まで病気で寝こんで居たって言うじゃないか、それに」 宇佐美六郎は、その 長閑 ( のどか ) な顔をつるりと撫でて、花房一郎の為に弁じようとすると、 「弁解の余地はありません、大谷千尋は再三花房一郎へ挑戦状を出して居るというではありませんか、泥棒に挑戦状を突き付けられて、一指も下すことの出来ないような名探偵は、 何処 ( どこ ) の世界にあります」 島幾太郎は、その秀麗な顔を輝かして、猛烈に相手に言い捲ります。 「いやそれは無理だ、花房一郎にも準備というものがある」 「準備? それは一体何年かかるものです、もう昨年の夏から、銀行の襲撃されたのが三つ、命を失った人間は五人、それに、つい四五日前明かに大谷千尋に惨殺された、印刷屋の主人を加えると、丁度六人になります、これだけ犠牲者を出せば、花房一郎の準備にも不足は無いでしょう」 「相手は五十人とか百人とか言う話だ、一人や二人なら 直 ( す ) ぐにも捕えられるだろうが、五十人百人を一網打尽にして、 呑舟 ( どんしゅう ) の 魚 ( うお ) も 雑魚 ( ざこ ) も逃さないようにするには、相当に大きい網が必要さ、花房一郎は今その網を張って居るのだよ」 「鯨のもぐるような網だろう、でなければ、目高をすくうような網か、いずれにしても大谷千尋という魚は永久にかかるわけは無い」 「いや、きっと大谷千尋という悪魚は、花房一郎の網にかかるよ――今かかりかけて居る所だ」 「そんな馬鹿な」 「何が馬鹿だ」 「何?」 二人の瞳はカッチり合いました、が、 「ハッハッハハハ」 宇佐美六郎は、思わず相好を崩して笑ってしまいました。 「捕まるというのが二人、宇佐美君と芳野君だけ、あと十一人は花房一郎に大谷千尋は捕まらないという説だ、ところで、何んかを賭けちゃ 何 ( ど ) うだい」 中島助丸が口を出します。 「国民劇場の総見を賭けちゃどう? 入場料一つ金五十銭也、これなら安心でいいわ」 女優の芳野絢子、先刻食堂の入口で銘々が貰った ちらし を見て居りましたが、フトそれを裏返して、 「オヤオヤ 此処 ( ここ ) に変な事が書いてあるわ、何んですって―― 向う通るはスターじゃないか…… 青い 眼鏡 ( めがね ) が気にかかる…… ――まあ嫌ね、これは昔 流行 ( はや ) った『銀座節』じゃ無いの、 ちらし の裏にこんなものが刷ってあるんだわ」 「ようよう、芳野君自分の事を歌われて居るようなものじゃないか」 「あら、随分ね、私青い 眼鏡 ( めがね ) はかけて居るけれど――」 「ホイ、怒ったか」 「ワーッ、ハッハッハハハ」 轟然たる笑いが、 煙草 ( たばこ ) の煙と共に食堂に渦を巻きます。 「芳野さん、 貴方 ( あなた ) の読んだのは、そりゃア何?」 「あら。村岡さんも 先刻 ( さっき ) 入口で貰って 入 ( い ) らしったじゃないの、国民劇場の ちらし の裏よ」 「国民劇場の ちらし の裏? 何んにも書いてはしないわ、緑の地模様の上に、赤い線が滅茶滅茶にうねらしてあるだけよ」 「どれ拝見、――あら、村岡さんのにだって、ちゃんと同じ文句が刷ってあるじゃないの、最初は――銀座銀座と通う奴ア馬鹿よ、帯の巾ほどある道を――って」 「どれどれ芳野さんのを拝見」 二人の美人は、銘々のちらしを換えて読みましたが、結果は全く同じ事でした。芳野絢子の眼には、明かに銀座節が読まれますが、村岡柳子の眼には、相変らず緑と赤の交錯した、唐草模様のような複雑な地模様しか見えなかったのです。 「不思議ねエ」 「全くだわ」 驚き呆れる二人の様子を見て、二三人の紳士達は、かくしの中へねじ込んだのを出して皺を延したり床の上に落したのを拾って、土を払ったり、銘々に覗いたりすかしたりしましたが、劇場の ちらし の裏には、 矢張 ( やは ) り得体の知れない唐草模様があるだけで、誰の眼にも銀座節などは見えません。 もう一つ不思議な事は、この小事件が起ったにもかかわらず、島幾太郎や、中島助丸や松井菊三郎はその疑問の ちらし に、眼をくれようともしなかった事です。 宇佐美六郎は、暫らくは黙ってそれを見て居りましたが、やがてニヤリニヤリと笑い乍ら、 「馬鹿だなア、そんなつまらない仕掛けがわからないかなア」 斯んな事を言います。 「 貴方 ( あなた ) にはこのわけが解って? まアえらいわねエ、頭の毛が少くなっただけの事はあるワ」 「私の頭の毛の事ばかり言うと、私もつい村岡夫人の顔の皺の事を言い度くなるよ」 「何んですって? 私の顔に皺があるんですって、これでもまだ二十七よ」 「ホイ、お腹立ちでは恐縮、皺で悪かったらヒダ、それでもいけなかったら皮膚の折目」 「まあ、何んという悪い口だろう、覚えて居るがいい」 「又噛み合って居るの、本当に仕様の無い人達ねエ、それより、この ちらし の裏の歌が私にだけ読めるわけを教えて頂戴よ」 芳野絢子は、宇佐美六郎の前に、問題の ちらし を裏返して突き付けます。 「私にだって読めるわけは無い、――島君達は、とうにこの仕掛に気が付いて居るらしいが、 極 ( ご ) く簡単だよ」 「どんな仕掛なの」 「まア急ぐな、これだけの人間が居るのに、芳野絢子君以外には、誰にもこの ちらし の裏の『銀座節』が読めないというのは、芳野君の眼が特別にいいと言うわけではなくて、芳野君の眼が外の人と違って居るからだと言うことになる――、芳野君の眼と我々の眼と 何処 ( どこ ) が変って居るか、それがわかれば何んでもない事だ」 「芳野さんの眼と私共の眼、――芳野さんだけ青い 眼鏡 ( めがね ) をかけて居るということなの」 「そうだよ村岡夫人、頭の禿げて居る人間は賢いだろう。この ちらし の裏には、青い唐草見たような地模様の上に、細い赤い字で銀座節の文句が刷ってあるのだよ。普通の眼、つまり普通の白い光線で見ると、 其 ( その ) 青い地模様と赤い文字が重なり合って紛れて居るから、どうしても読めないが、青い 眼鏡 ( めがね ) をかけて見ると、青い地模様の線が、 眼鏡 ( めがね ) の青い色に吸収されて、赤い地模様とその模様の中に書いた文字だけがはっきりと見えるのだよ。青い 眼鏡 ( めがね ) をかけて見る代りに、青電球の光で見てもいい、つまり青い光をあてると、青の地模様が消えて、赤い模様と、その模様に紛れるように書いた文字だけが浮いて来るのだ。こんな事は、小学校の生徒でも知って居るよ、馬鹿馬鹿しい」 「まあ、宇佐美さんは見掛けより余っ程智慧者ねエ、どれどれ芳野さん、 貴方 ( あなた ) の 眼鏡 ( めがね ) を 一寸 ( ちょっと ) 拝借――なるほど、これは面白い、『向う通るはスターじゃないか、青い 眼鏡 ( めがね ) が気にかかる』――はっきり読めるから不思議ね」 美しい美容術師は、夢中になって ちらし の裏を読み 耽 ( ふけ ) って居ります。 「宇佐美さん、私はすっかり 貴方 ( あなた ) を見損なって居たわ、そんな禿頭に、こんな特別上等の智慧が