The Lonely Way—Intermezzo—Countess Mizzie Three Plays — Arthur Schnitzler
一 黄昏時 ( たそがれどき ) がもう近くなった。マリイはろは台に腰を掛てから 彼此 ( かれこれ ) 半時 ( はんとき ) ばかりになる。最初の内は本を読んでいたが、しまいにはフェリックスの来るはずの方角に向いて、並木の外れを見ていたのである。それが今立ち上がった。こんなに長く待たせられた事はない、陽気が少し冷たくなった。そのくせ空気にはまだなんとなく五月の末の和かみがある。 アウガルテンの公園には、もうたんと人がいない。散歩をしている 群 ( むれ ) は、今少しで締められるはずの門の方へ足を向けている。マリイが出口の近所まで来た時、やっとフェリックスが見えた。約束の時間より後れたくせに男はゆっくり歩いている。女と目と目を見合せてから、少しばかり足を早めたばかりである。女は立ち留まって、男の来るのを待っていた。女の不性気に差し伸べた手を男は 微笑 ( ほほえ ) みながら握った。 「まあ、あなたこんなに遅くなるまでお 為事 ( しごと ) をなさらなくてはならないの。」こう 云 ( い ) った女の声は穏かな不平の調子であった。男は女の手先を右の 肘 ( ひじ ) に掛けさせて歩き出したが別に返事はしなかった。 女が「どうなすったの」と問い返した時、男はやっと返事をした。「そうだよ。それに 己 ( おれ ) は忘れて時計を見ないでいた。」 女は横から男の顔を 覗 ( のぞ ) き込んだ。どうもいつもより顔の色が 蒼 ( あお ) いようである。そう思ったので、女は優しい声をして云った。 「どうでしょう。あなたも少しわたくしに構って下さるようになすった方が 好 ( よ ) くはないでしょうか。お為事なんぞは、少しの間 廃 ( よ ) しておしまいになってね。御一しょに散歩でもしようじゃございませんか。ねえ。内から御一しょに出る事にして。」 「そうさなあ。」 「わたくしこれからあなたを手放さないようにしようかと思いますの。」 男はびっくりした様子で、急に女の顔を見た。 「どうなすったの」と女は問うた。 「なんでもないよ。」 二人は公園の出口に来た。 日 ( ひ ) の 暮方 ( くれがた ) の町の 賑 ( にぎわ ) いが、晴れやかに二人の 周囲 ( まわり ) を取り巻いた。市中一般に、春の 齎 ( もたら ) した喜びが 拡 ( ひろが ) っていて、それが無意識に人々に感ぜられると見える。 「今から一しょに行くと丁度 好 ( よ ) い 処 ( ところ ) があるが、知っているか。」 「どこでしょう。」 「プラアテルへ行くのだよ。」 「わたくし 厭 ( いや ) 。こないだもあんなに寒かったじゃありませんか。」 「でもこうして町を歩いていると、蒸暑いといっても 好 ( い ) い位だ。行って 直 ( す ) ぐ帰ったって好い。一しょに行こうじゃないか。」男は何か外の事を考えている様子で、切れ切れにこう云った。 「変な物の言いようをなさるのね。」 「変なって、どう変なのだい。」 「何を考えているの。あなたと並んで歩いているのはわたくしよ。」 男は気抜けのしたような 目附 ( めつ ) きで女をじっと見た。 「どうしたの」と、女は心配そうに云って男の肘をしっかり握った。 「うんうん。蒸暑いなあ。本当だ。己は外の事なんぞを考えてはいないよ。もし少し位外の事を考えたって、おこるのじゃないよ。」男は気の散るのを強いて直そうとする様子でこう云った。 二人は横町を抜けてプラアテルの方へ歩いている。どうもフェリックスはいつもより 詞 ( ことば ) 少なである。もう方々に明りが 点 ( つ ) き始めた。 二 女は突然問うた。「あなたきょうアルフレットさんのとこへいらっしゃったの。」 「なぜ。」 「だって行くといっていたじゃありませんか。」 「そうだっけな。」 「ゆうべなんだか力抜けがしたようだから行って見て 貰 ( もら ) おうか知らと 云 ( い ) ったでしょう。」 「それはそう云ったよ。」 「それなのにおいでなさらなかったの。」 「いいや。行かなかった。」 「あの、きのうは工合が悪いと云っていたのでしょう。それなのにきょうプラアテルのような湿っぽい 処 ( ところ ) へ行くのはあんまり不養生じゃなくて。」 「なに構うもんか。」 「そんな事を言っちゃあ 厭 ( いや ) 。それではまるで体を悪くしておしまいなさるわ。」 男は泣き出しそうな声で返事をした。「そんな事を言わないで、一しょに行くのだよ。どうも 己 ( おれ ) はプラアテルが見たいのだから。こないだ一しょに行って愉快に思った処へ、もう一遍行って見たいのだ。それあの 四阿屋 ( あずまや ) だな。あそこなら冷たくはないよ。」 「ええええ。」 「なに冷たいものか。きょうは一体に暖かいのだ。内へ帰るにはまだ早過ぎる。それだといって、町で晩飯を食うのは厭だ。己はきょうは町の料理屋の窮屈な部屋に 坐 ( すわ ) りたくないのだ。煙の中にいるのは己には毒だ。それに人の大勢いる処も厭だ。やかましい人の声を聞くのがつらい。」最初は口早に、いつもより 声高 ( こわだか ) に言っていたのが、段々末の方になると声が 幽 ( かすか ) になってしまった。 マリイは前より堅く男の肘を握った。なんだか心細くなったのである。それに今物を言ったら、涙声になりそうなので黙っている。 プラアテルの静かな四阿屋で、緑の木立の中の春の 夜 ( よ ) を味いたいという男の 憧憬 ( あこがれ ) が女にも伝わった。そして 暫 ( しばら ) く一しょに黙って歩いている内に、男の唇の上に、 寛 ( ゆるや ) かな、鈍い 微笑 ( ほほえ ) みの浮かんだのを、女が 見附 ( みつ ) けた。男は女の方へ顔を向けて、そのとたんに偶然出た微笑を、楽しさの微笑みにして見せようとした。しかし男の性質を底まで知り抜いている女には、その微笑みのわざとらしいのが、 容易 ( たやす ) く悟られた。 二人はプラアテルに着いた。本通りから曲って初めての並木道は、向うを見ればほとんど真っ暗である。それを通り抜けた処にちょいとした料理屋がある。その 周囲 ( まわり ) の広い庭には、ほとんど 明 ( あかり ) も 点 ( つ ) けて無い。 巾 ( きれ ) を覆わない 卓 ( つくえ ) が並べてある。 椅子 ( いす ) がそれに寄せ掛けてある。その 傍 ( そば ) に、緑色に塗った、ひょろ長い柱の上に、円い 硝子 ( がらす ) の明りが 点 ( とも ) してある。濁った 紅 ( くれない ) の 焔 ( ほのお ) がちらちらとして動いている。客が二三人坐っている。その中にこの料理屋の亭主も 交 ( まじ ) っている。 マリイとフェリックスがその前を通る時、亭主は立って、鳥打帽を脱いで礼をした。二人は四阿屋の戸を開けた。中には 活栓 ( コック ) で細めた 瓦斯 ( がす ) の火が明るくなったり暗くなったりしている。片隅の方に給仕の少年が坐って居眠りをしていたが、慌ただしく立って、火を明るくして、客の 外套 ( がいとう ) を脱ぐ手伝いをした。 二人は部屋の隅の薄暗い、静かな処に場所を取って、二つの椅子を近く寄せて腰を掛けた。それから余り 選 ( え ) り嫌いをせずに、飲物と 食物 ( くいもの ) とを 註文 ( ちゅうもん ) した。 給仕の行ってしまった跡は、二人きりになった。ただ入口の方から濁った赤色の火が見えているばかりである。部屋の隅は薄暗くなっている。 三 二人はまだ強情に黙っていた。とうとうマリイが 堪 ( こら ) え兼て、 顫声 ( ふるいごえ ) をして言い出した。「あなたどうしたのだか、そう 云 ( い ) って下さいよ。」 男の唇の上にはまたさっきの 微笑 ( ほほえ ) みが現われた。「なんでもないよ。そんな事を聞くものじゃない。 己 ( おれ ) の 機嫌買 ( きげんかい ) な事は、お前知っているはずじゃないか。それともまだ知らないのかい。」 「それは知っていますわ。でも、今のあなたの様子は、いつも機嫌を悪くした時とは違うわ。何か別に 厭 ( いや ) な事があるのだわ。何かわけが無くてはならないと思うの。それをなんだか云って下さいよ。お願いだから。」 男はじれったそうな顔をした。丁度そこへ給仕が 註文 ( ちゅうもん ) したものを持って来た。男はそれを 好 ( い ) い事にして、女が「 仰 ( おっ ) しゃいよ、仰しゃいよ」と云っても、給仕の方を目で見て、じれったそうな身振をするばかりである。給仕は出て行った。 「さあ二人きりになりました」と、マリイは云って、 椅子 ( いす ) をぴったり 傍 ( そば ) へ寄せて男の両手を取った。「何かあるのでしょう。わたくしどうしても聞かずに置くわけには行きませんわ。まさかもうわたくしが厭になったのじゃないでしょうね。」 男は黙っている。女は男の手に 接吻 ( せっぷん ) した。男はその手を 徐 ( しず ) かに引いた。「どうなすったの。」 男は助けを求めるようにあたりを 見廻 ( みまわ ) した。「 廃 ( よ ) してくれ。そんな事を聞かないでくれ。そんなに人をいじめるものじゃない。」 女は男の手を放して、顔をじっと見た。「わたくしどうしても聞かないで置くわけには行きませんわ。」 男は立ち上がって、深い息をした。それから両手で 頭 ( あたま ) を押えて云った。「ほんとにお前は己を気違いにしてしまう。もう問わずに置いてくれ。」こう云って、そのまま立っていて、何かじっと見詰めている。女は心配そうに男の見ている方角を見たが、男は 空 ( くう ) を見ているのである。 男は腰を掛けた。息使いが前より静かになって、顔には疲れたような優しみが 拡 ( ひろ ) がった。それから数秒時間立つと、今まで自分を襲っていた恐怖が全く消えてしまった様子で、小声に優しく、「飲まないか、食べる物も来ているぜ」と、女に言った。 女は男の云うなりに、ナイフとフォオクとを手に持ったが、心配気に「あなたは」と云った。 「己も 遣 ( や ) るよ」とは云ったが、男はやはり動かずにいて、飲物にも、 食物 ( くいもの ) にも手を触れない。 「それではわたくしも食べられないわ」と、女が云った。 四 男はようようの事で飲み食いをし始めた。しかし一口食ったかと思うと、黙ってナイフもフォオクも置いてしまって、手で額を支えて、女の方を見ないでいる。女は 上唇 ( うわくちびる ) と 下唇 ( したくちびる ) とを堅く結んで、 暫 ( しばら ) く男の様子を見ていたが、その額を押さえている手を引き 退 ( の ) けて、隠していた顔を 覗 ( のぞ ) き込んだ。 男の目には涙が一ぱいになっている。女がそれを見て、「あら、フェリックスさん」と声を立てるや否や、男は泣き出した。さも思い迫ったような 歔欷 ( すすりなき ) をするのである。女は男の頭を自分の胸のところへ引き寄せて、髪の上を 撫 ( な ) でて、額に 接吻 ( せっぷん ) して 遣 ( や ) った。それから涙を口で吸い取って遣ろうとした。続いて「フェリックスさん」と呼んで見た。男は次第に泣き 止 ( や ) んだ。「どうしたのか 仰 ( おっし ) ゃいよ。」 男は女の胸に顔を 埋 ( うず ) めている。そして鈍い、重くろしい声で、切れ切れに 云 ( い ) った。「 己 ( おれ ) はどうしても言わずに置こうと思ったのだ。マリイ。聞いてくれ。もう跡たった一年だそうだ。それでおしまいだというのだ。」言い 畢 ( おわ ) って男はまた声を立てて 劇 ( はげ ) しく泣き出した。 女は 死人 ( しにん ) のような 顔色 ( かおいろ ) になって、口を 開 ( あ ) いたままで聞いている。男の言う事が分らない。分らせたくない。冷やかな、恐しいある物が 吭 ( のど ) を締め 付 ( つけ ) ているようである。 それから突然女が「フェリックスさん」と叫んで、男の前に身を倒して、その時力無く 俯向 ( うつむ ) いた男の泣顔を見た。男は女が自分の前に 跪 ( ひざまず ) いたのを見て、「お立ちよ」と 囁 ( ささや ) いた。女は器械的に、言うなりに立ち上がって、向いに腰を掛けた。もうなんにも問う事も言う事も出来ない。 およそ二三秒時間二人とも黙っていたが男が突然 空 ( くう ) を 睨 ( にら ) んで、何か不思議な重い物が自分を押付けるように感じたと見えて、 声 ( こえ ) 高 ( たか ) く「ああ、 溜 ( たま ) らん、溜らん」と云った。 女はやっと声が出て、「行きましょうね」と云ったが、それより上の事は言われなかった。 「うん行こう」と、男は何か体から振落すような身振をして云った。それから給仕を呼んで勘定をして、二人は足早に 四阿屋 ( あずまや ) を出た。 外では春の 夜 ( よ ) の沈黙が二人を包んだ。暗い並木を通る時マリイは立ち留まって、男の手を握って云った。「わけを話して下さいな。」 男はすっかり落ち着いた。そして今女に言うことは簡単で、さっぱりしていて、ほとんど何も変った事ではないらしく聞えた。男は女に取られていた手を引き放して、女の 頬 ( ほお ) をさすった。そこは真っ暗で互に顔が 好 ( よ ) く見えない位である。 「ミッチェルや。びっくりしてはいけないよ。なにしろ一年というものは随分長いものだからね。実は己はもう一年しか生きていないのだ。」 「あなたそれは気が変になってそんな事を仰しゃるのでしょう。」女の声は叫ぶようであった。 「一体己がこんな事をお前にいうのは 吝 ( けち ) なのだ。 馬鹿 ( ばか ) だと云っても 好 ( い ) いかも知れない。しかし考えて見てくれ。そういう事を自分一人だけが知っていて、絶えずその事を思いながら、心寂しく歩き 廻 ( まわ ) っているという事は、事に 依 ( よ ) ったら己にはどうせ久しくは出来なかったのかも知れない。事に依ったらまたお前の方でも己というものが一年先にはいないのだという考えに段々慣れてくれる事が出来るかも知れない。 兎 ( と ) に 角 ( かく ) こうしてぼんやり立ってい