青髯二百八十三人の妻 — 久生十蘭
一 前大戦が終った翌年、まだ冬のままの二月のはじめ、パリの山手のレストランで働いているジャンヌ・ラコストという娘が、この十カ月以来、消息不明になっている姉のマダム・ビュイッソンの所在をたずねていた。スペインの国境に近いビアリッツにいる姉の一人息子が失明したという通知があったので、大急ぎで知らせなければならないと思ったのである。 心あたりというほどのものはなかったが、前年の夏、休戦の二カ月ほど前、偶然、あるキャフェで姉と落ちあったとき、アンリ四世のような見事な 顎髯 ( あごひげ ) をはやした五十二三の紳士に紹介されたことがあったので、もしやと思って、そのほうをさがして見る気になった。その紳士はたしかアンドレ・シャルクロァといい、ヴェルサィユ市の南のガムベェという村に別荘があるというようなことを聞いた記憶がある。 それで、とりあえずガムベェの村長に宛てて照会の手紙を出すと、折返して返事があった。そういう名の人物は居住していないが、手紙の趣にある 風采 ( ふうさい ) と 齢 ( とし ) 恰好からおすと、三年前からトゥリック氏所有の別荘「エルミタージュ」を借りているラウール・デュポンのまちがいではないか。猶、ラウール・デュポンは去年の暮に来たきり、その後、一度もやって来ないと書いてあった。 姉の消息を聞きだせるかと思っていたその当のひとまでが所在不明になっている。ジャンヌは考えにあまって、ガムベェの村長の手紙をもって警視庁の人事部へ姉の捜査をねがいに行った。 前年の十月、馬鈴薯袋や防水紙の遮閉幕の蔭で息をひそめていた巴里が、やっとのことで四年という長い暗黒生活から解放されたが、治安状態はまだ闇のままであった。 敏腕な部課員はすべて前線に駆りだされ、捜査局は防諜事務に専念し、各区の自警団とわずかばかりの老年の臨時警官の手で辛うじて治安の最後の線を保持していた状態だったので、捜査局の文書箱には三百件に及ぶ家出人、失踪者の捜索願が積みあげられたままになっていた。 捜査局長は、名探偵といわれたゴロンやギュスターヴ・マセェの弟子のガッファロだったが、三年来、フリードマンという男の捜査請求に手を焼いていた。フリードマン氏の細君の妹にあたるアンヌ・クゥシェという未亡人と当時十七歳になっていたクゥシェ夫人の息子のアンドレェが四年前に消息不明になっている。失踪すべき理由がないのだから、ぜひとも捜査してもらいたいというのである。 戦前でも、人間の片脚や胴体が、一と月に一つや二つはセーヌ河に浮きあがるのはめずらしいことではなかったが、治安のゆるんだ戦中だといっても、四年の間に三百人の失踪者はなんとしても多すぎる。どうも異常だとガッファロも考えていた。 ジャンヌの捜査願が人事部から捜査局にまわってきた。ガッファロが眼をとおしてみると、クゥシェ夫人の失踪になにかの関係があったと思われているレーモンド・デァールという男の人相にそっくりである。レーモンド・デァールとラウール・デュポンとアンドレ・シャルクロァは、ひょっとすると同一人物かもしれないと考えられるので、ガムベェへ部員をやって、三月の末まで「エルミタージュ」を見張らせたが、ラウール・デュポンなる人物はとうとう現われて来なかった。 復活祭も近づいた四月一日のよく晴れた午後、ジャンヌ・ラコストが宝石商や婦人服屋が並んでいるリュウ・ド・ヴォリの歩道を歩いていると、ついそばの店から二十七八の美しい婦人を連れたアンドレ・シャルクロァが出てきて、ゆっくりとコンコルドの広場のほうへ行った。 「たしかにこのひとだった」 と、ジャンヌはつぶやき、ひと時、 呆然 ( ぼうぜん ) と二人のあとを見送っていた。 顎髯はなかったが、青とも灰色ともつかぬうるんだような一種独得な深い瞳の色は、まぎれもなくいつかの紳士のものであった。 ジャンヌは二人を追いかけようとしたが、自分などの手に負えそうもなかったので、追うのはやめて、町角に立っていた警官にそういった。 「たいへんなひとを見つけた。捜査局のガッファロが幾月も前から探しているひと……いま、あそこの店から出てきた。行って聞いてごらんなさい。アドレスがわかるかもしれない」 シャルクロァはその店で八百 法 ( フラン ) の銀の食器を買い、百法の手付を置いて、今日中に届けるようにといってアドレスを書いて行った。ルシァン・ルルゥ……ロワイエ・コラール街八番地。ロワイエ・コラールというのは、セェヌ河の左岸、リュクサンブゥル公園の東口につづく、ものしずかな通りである。 捜査局の刑事がすぐアドレスの家へ出かけて行った。ルシァン・ルルゥはフェルナンド・セグレェという娘と二人で、二月のはじめから通りにむいた四階に住んでいる。玄関番に聞くと、娘はいるが、ルルゥはまだ帰らないといった。 刑事が張込みをしていると、夜の十時ごろになってルルゥが帰って来た。刑事の一人がつぶやいた。 「なんだ、ランドリュじゃないか。自動車の直しをしたり、中古自動車のブローカァをやったりしていたやつだ。たしか、五つや六つは窃盗の前科があるはずだ」 失踪人の関係者というだけでは、令状が出ない。犯罪簿をしらべると、窃盗の古い前科が出てきたので、とりあえずそれを名目にして身柄をおさえることにした。 翌朝、十時頃、ランドリュが通りへ新聞を買いに出てきた。刑事は帰ったところを見すかしてランドリュの部屋の扉をノックした。ランドリュはソファで新聞を読み、愛人のセグレェは寝床の中にいた。 「アンリ・デシレェ・ランドリュ……せっかくのところを気の毒だが、ちょっといっしょに行ってもらうよ」 「おどろきましたね。どんなご用です」 「むかし勤め残した 口 ( くち ) があるだろう。たぶん、そのためだと思うがね。たいしたことではなさそうだ」 ランドリュは上着を着こむと、逆いもせずに刑事といっしょに部屋を出た。 リュクサンブゥル公園のわきから、セェヌ河の中洲にある警視庁までは歩いて二十分ほどの距離である。春めいたよく晴れた朝だった。三人は冗談を言いながらサン・ミッシェルの通りをセェヌ河のほうへブラブラ歩いて行った。誇張していえば、これは歴史的瞬間とでもいうようなものであった。凡庸な二人の中年の刑事は、これこそは、犯罪というものの歴史がはじまって以来の最大の捕物になろうとは、夢にも思っていなかったのである。 セェヌ河の左岸と中ノ島をつなぐサン・ミッシェルの橋がむこうに見えだしたとき、ランドリュは、なに気ないふうに上着の内かくしから出した手帳のようなものを車道へ捨て、 縁石 ( へりいし ) の裾にあいている排水溝の穴へそっと蹴込もうとした。 刑事の一人が、 「おっと」 といって穴に落ちかけている手帳を靴でふまえた。 「おかしな真似をするじゃないか。どうしようというんだ」 拾いあげて、頁をひらいてみると、年月日や、人の名や、金額などが、気質が察しられるような克明な文字でキチンと書きこまれてある。 「これはなんだい」 「むかし使った取引の手帳だ。要らないから捨てようと思っただけだ」 刑事は手帳を持ったまま、ふむ、といってランドリュの顔を見かえした。 ランドリュは苛立って舌打ちをした。 「 符牒 ( ふちょう ) で書いてあるから、見たってわかりゃしないよ」 「符牒ね……なるほど、そうらしい」 「ひねりまわしていないで、こっちへよこせ」 「要らないから捨てたんだろう。また欲しくなったのか」 「それは、おれのものだから返せというんだ。さもなかったら、その穴へ捨てろ」 刑事は手帳を返しかけたが、あまりしつっこくせがむので、なんだか妙だと思った。それで渡しかけていた手をひっこめ、 「ともかく、これは預っておく」 といって手帳をかくしにおさめた。 眼にもとまらぬこの一転機を、これこそ神の 摂理 ( せつり ) であったなど、尤もらしくこじつけているものもあるが、ほんの一分ほどのやりとりのなかに、たしかにそうもいえる微妙な意志の疎通といったようなものが感じられる。その刑事は後になって、ぞっと総毛立つのだが、手帳に書きつけてあった一連の符牒がなかったら、そのとき、なにげなく手帳を渡していたら、ランドリュの全犯行の十分の一ほどのものすら探りあてることはできずにすんでいたことだったろう。 二 ランドリュの手帳に書いてあった符牒とは、つぎのようなものであった。 1 マダム・クゥシェ ヴェルヌイユ駅行片道切符二枚 十スゥ 2 資産約六万フラン、有価証券二万フラン、家具一万フラン、宝石一万八千フラン(ブレジル) ブレジル――一九一五年六月十五日 ヴェルヌイユ駅片道切符 [#「ヴェルヌイユ駅片道切符」はママ] 一枚 五スゥ 3 クロザチェ 一九一五年八月十五日 ヴェルヌイユ駅片道切符 [#「ヴェルヌイユ駅片道切符」はママ] 一枚 五スゥ 4 マダム・エオン 5 マダム・コロム 一九一六年十二月二十七日 ヴィラ・ガムベェ午前四時――五千八十七フラン 6 バブレェ 四月 零時――午前四時 7 ビュイッソン未亡人 一九一七年九月一日――午前十時十五分 8 マダム・ジェローム 一九一七年十月二十六日――午前三時 9 マダム・パスカル ヴィラ・ガムベェ 10 テレーズ・マルシャンディユ ヴィラ・ガムベェ行自動車賃二十フラン貸――九百五十フラン ランドリュは取引の符牒だといった。符牒なら符牒で解く方法があるが、これではあまり簡単明瞭で、手のつけようがないといったところだ。 ヴェルヌイユは巴里の市門から南八キロほどのところにある村の名で、ヴェルサイユ行の軽便鉄道に同名の駅がある。二年ほど前、ランドリュはその村の「ロッジ」という名の別荘を借りて住んでいたことがある。五スゥとは二十五サンチーム(四分の一フラン)。セェヌ河の河岸にある始発駅(ケユ・ドルセェ駅)、ヴェルヌイユ間の運賃に相当する。 わずか二十五文の [#「二十五文の」はママ] 汽車賃を手帳に書きつけておくのはいささか 几帳面 ( きちょうめん ) にすぎるようだが、これは個人の趣味の問題で、他人がとやかくいう筋はないのである。名の下の日附はヴェルヌイユの「ロッジ」、もしくはガムベェの「エルミタージュ」へ行った日をしめしているのだと思われるが、「ビュイッソン未亡人、午前十時十五分」とあるもののほか、ほとんどが午前零時、午前三時、午前四時となっている。ヴェルサイユ行の軽便鉄道の始発時間は午前六時十五分で、それより早いのはないから、これは汽車の時間に関係のない、なにかほかのことなのだろう。 疑えば疑えるといったあやしげなことはどこにもない。他人に見られては困るというようなものとも思えないのに、ランドリュは軽率の危険をおかして手帳の 堙滅 ( いんめつ ) をはかった。その辺になにか曰くがあると捜査局では考えた。 試みに三百件を超える失踪者の名簿を繰ってみると、手帳にある名がたくさん出てきた。クゥシェ、エオン、コロム、バブレェ、ビュイッソン、ジェローム、パスカル、マルシャンディユ……ランドリュの手帳にある名に該当するものは、八人ともみな失踪中の女性の名だということになる。 「ブレジル」と「クロザチェ」はなにものを指しているのか。 ブレジルはブレジル、南米のブラジルのことで、クロザチェは、巴里の第十二区、フオブウル・サント・アントアンヌとヴゥルヴァル・ディドロォをつなぐ通りの名である。 八人の女性の名のなかに、国の名と町の名が唐突にまじりあっている。失踪者の名簿を調べてみると、ブラジルで遺産を相続して巴里へやってきたラボルト・リネェという富裕な未亡人がある。ラボルト・リネェは一九一五年の六月十五日に家を出たまま消息不明になっていて、「ブレジル」という斜体の文字の下にある手帳の日附と合っている。「ブレジル」とはラボルト・リネェという未亡人を指していることが、これでわかった。おなじく失踪者の中に、クロザチェの二十八番地に住んでいたマダム・ギランという未亡人の名が載っている。マダム・ギランは一九一五年の八月十五日に失踪していて、これも手帳の日附と合致する。 単純で、そのくせひどく神経を疲らせる謎解きのおかげで、八つの名の序列に、新たにラボルト・リネェとマダム・ギランという二つの名が加わることになったが、同時に、手帳にある日附は、それらの女性をヴェルヌイユかガムベェに連れだし、この世の生活から消しとってしまったその日附だということが推測できるようになった。従って、午前零時、三時、四時とあるのは、それぞれ謀殺を完了した時刻をしめしているので、「五千八十七フラン」または「九百五十フラン」という記載は、その日犠牲者が持っていた金――つまりは、ランドリュが殺害後に掠めとった金額をしるしたものだろうと判定された。 三百人の失踪者については、肉親や友人から捜索願が出ているが、失踪の状況がそれぞれちがうので、特定の概念のなかに 包摂 ( ほうせつ ) することができなかった。ひょっとすると、これは一人の人間の仕業かもしれないなどと思ったものはいなかったが、ランドリュの手帳に 啓発 ( けいはつ ) されて、そういうこともありえると考えるようになった。三百人のうち、少なくとも手帳に名を書かれた十人の女性は、どういう方法かで、ランドリュに殺されたのだろうということがすこしずつわかりかけ、間もなく誰も疑うものはなくなった。この間、ランドリュは徹底的に冷静だった。ガッファロが手帳の謎を解いたことを遠まわしにほのめかしてみたが、おだやかな微笑をうかべるだけで、受付けようともしなかった。 ランドリュの態度に関係なく、ガッファロは着々と捜査をすすめた。ヌイイのイヴリイという通りに、自動車の小さな修理工場とガレージのついたランドリュの本宅があって、細君と四人の子供が住んでいたが、そこでマダム・クゥシェの耳飾と腕輪を、発見した。腕輪は細君が腕にはめ、耳飾は長男の許婚者がつけていた。ガレージの屋根の衣裳 匣 ( ばこ ) にマダム・ギランの 仮髪 ( かつら ) とリンネルの下着が入っていた。 ガムベェの「エルミタージュ」の屋根部屋からもいろいろなものが出てきた。マダム・コロムの服、マドレェヌ・バブレェの戦時身分証明と絹の下着、金を 充填 ( じゅうてん ) したマダム・パスカルの義歯。これはランドリュが十五 法 ( フラン ) で歯科医に売りつけ、気が変ってまた買い返したという履歴がついている。庭の隅から臘引の紐で絞殺された