三国志 孔明の巻 — 吉川英治
関羽千里行 ( かんうせんりこう ) 一 時刻ごとに見廻りにくる 巡邏 ( じゅんら ) の一隊であろう。 明け方、まだ白い残月がある頃、いつものように府城、 官衙 ( かんが ) の辻々をめぐって、やがて大きな 溝渠 ( こうきょ ) に沿い、内院の前までかかってくると、ふいに巡邏のひとりが大声でいった。 「ひどく早いなあ。もう内院の門が開いとるが」 すると、ほかの一名がまた、 「はて。今朝はまた、 いや にくまなく 箒目 ( ほうきめ ) 立てて、きれいに掃ききよめてあるじゃないか」 「いぶかしいぞ」 「なにが」 「奥の中門も開いている。番小屋には誰もいない。どこにもまるで 人気 ( ひとけ ) がない」 つかつか門内へ入っていったのが、手を振って呶鳴った。 「これやあ変だ! まるで空家だよ!」 それから騒ぎだして、巡邏たちは奥まった苑内まで立ち入ってみた。 するとそこに、十人の美人が 唖 ( おし ) のように立っていた。 「どうしたのだ? ここの二夫人や召使いたちは」 巡邏がたずねると、美姫のひとりが、黙って北のほうを指さした。 この十美人は、いつか 曹操 ( そうそう ) から関羽へ贈り、関羽はそれをすぐ二夫人の 側仕 ( そばづか ) えに献上してしまい、以来、そのまま内院に召使われていた者たちであった。 関羽は曹操から贈られた珍貴財宝は、一物も手に触れなかったが、この十美人もまたほかの金銀 緞匹 ( だんひつ ) と同視して、置き残して去ったものである。 ――その朝、曹操は、虫が知らせたか、常より早目に起きて、諸将を閣へ招き、何事か凝議していた。 そこへ、巡邏からの注進が聞えたのである。 「――寿亭侯の印をはじめ、金銀緞匹の類、すべてを庫内に封じて留めおき、内室には十美人をのこし、その余の召使い二十余人、すべて関羽と共に、二夫人を車へのせて、夜明け前に、北門より立退いた由でございます」 こう聞いて、満座、早朝から興をさました。 猿臂将軍 ( えんぴしょうぐん ) 蔡陽 ( さいよう ) はいった。 「追手の役、それがしが承らん。関羽とて、何ほどのことやあろう。兵三千を賜らば、即刻、召捕えて参りまする」 曹操は、侍臣のさし出した関羽の遺書をひらいて、黙然と読んでいたが、 「いや待て。――われにこそ 無情 ( つれな ) いが、やはり関羽は真の大丈夫である。来ること明白、去ることも明白。まことに天下の義士らしい進退だ。――其方どもも、良い手本にせよ」 蔡陽 ( さいよう ) は、赤面して、列後に沈黙した。 すると 程 ( ていいく ) は、彼に代って、 「関羽には三つの罪があります。 丞相 ( じょうしょう ) のご寛大は、却って味方の諸将に不平をいだかせましょう」 と、面を 冒 ( おか ) して云った。 「程 。なぜ、関羽の罪とは何をさすか」 「一、 忘恩 ( ぼうおん ) の罪。二、無断退去の罪。三、河北の使いとひそかに密書を交わせる罪――」 「いやいや、関羽は初めから予に、三ヵ条の約束を求めておる。それを約しながら 強 ( し ) いて履行を避けたのは、かくいう曹操であって、彼ではない」 「でも今――みすみす彼が河北へ走るのを見のがしては、後日の大患、虎を野へ放つも同様ではありませぬか」 「さりとて、追討ちかけて、彼を殺せば、天下の人みな曹操の不信を鳴らすであろう。―― 如 ( し ) かず! 如かず! 人おのおのその主ありだ。このうえは彼の心のおもむくまま故主のもとへ帰らせてやろう……。追うな、追うな。追討ちかけてはならんぞ」 最後のことばは、曹操が曹操自身へ 戒 ( いまし ) めているように聞えた。彼のひとみは、そういうあいだも、北面したままじっと北の空を見つめていた。 二 ついに関羽は去った! 自分をすてて玄徳のもとへ帰った! 辛いかな大丈夫の恋。――恋ならぬ男と男との義恋。 「……ああ、生涯もう二度と、ああいう真の義士と語れないかもしれない」 憎悪。そんなものは今、曹操の胸には、 みじん もなかった。 来るも明白、去ることも明白な関羽のきれいな行動にたいして、そんな 小人 ( しょうじん ) の怒りは抱こうとしても抱けなかったのである。 「…………」 けれど彼の淋しげな眸は、北の空を見まもったまま、 如何 ( いかん ) ともなし難かった。涙々、頬に白いすじを描いた。 睫毛 ( まつげ ) は、胸中の苦悶を しばだた いた。 諸臣みな、彼の面を仰ぎ得なかった。しかし 程 ( ていいく ) 、 蔡陽 ( さいよう ) の輩は、 「いま関羽を無事に国外へ出しては、後日、かならず悔い悩むことが起るに相違ない。殺すのは今のうちだ。今の一刻を逸しては……」 と、ひそかに腕を 扼 ( やく ) し、足ずりして、曹操の寛大をもどかしがっていた。 曹操はやがて立ち上がった。 そして、あたりの諸大将に云った。 「関羽の 出奔 ( しゅっぽん ) は、あくまで義にそむいてはいない。彼は 七度 ( ななたび ) も暇を乞いに府門を訪れているが、予が 避客牌 ( ひかくはい ) をかけて門を閉じていたため、ついに書をのこして立ち去ったのだ。大方の非礼はかえって曹操にある。生涯、彼の心底に、曹操は気心の小さいものよと 嗤 ( わら ) われているのは心苦しい。……まだ、途も遠くへはへだたるまい。追いついて、彼にも我にも、後々までの思い出のよい信義の別れを告げよう。―― 張遼 ( ちょうりょう ) 供をせい!」 やにわに彼は閣を降り、駒をよび寄せて、府門から馳けだした。 張遼は、曹操から早口にいいつけられて路用の金銀と、 一襲 ( ひとかさね ) の 袍衣 ( ひたたれ ) とを、あわただしく持って、すぐ後から鞭を打った。 「……わからん。……実にあのお方の心理はわからん」 閣上にとり残された諸臣はみな呆っ気にとられていたが、程 、蔡陽の輩はわけても茫然、つぶやいていた。 × × × 山はところどころ紅葉して、郊外の水や道には、 翻々 ( へんぺん ) 、枯葉が舞っていた。 赤兎馬 ( せきとば ) はよく肥えていた。秋はまさに 更 ( ふ ) けている。 「……はて。呼ぶものは誰か?」 関羽は、駒をとめた。 「……おおういっ」 という声――。秋風のあいだに。 「さては! 追手の勢」 関羽は、かねて期したることと、あわてもせず、すぐ二夫人の車のそばへ行った。 「 扈従 ( こじゅう ) の人々。おのおのは御車をおして先へ落ちよ。関羽一人はここにあって路傍の妨げを取り除いたうえ、悠々と、後から参れば――」 と、二夫人を 愕 ( おどろ ) かさぬように、 わざ とことば柔らかにいって駒を返した。 遠くから彼を呼びながら馳けてきたのは、張遼であった。張遼はひっ返してくる関羽の姿を見ると、 「雲長。待ちたまえ」と、さらに駒を寄せた。 関羽は にこ と笑って、 「わが 字 ( あざな ) を呼ぶ人は、 其許 ( そこもと ) のほかにないと思っていたが、やはり其許であった。待つことかくの如く神妙であるが、いかにご辺を向けられても、関羽はまだご辺の手にかかって生捕られるわけには参らん。さてさてつらき御命をうけて来られたもの 哉 ( かな ) ――」 と、はや小脇の 偃月刀 ( えんげつとう ) を持ち直して身がまえた。 「否、否、疑うをやめ給え」と、張遼はあわてて弁明した。 「身に 甲 ( よろい ) を着ず、手に武具をたずさえず――拙者のこれへ参ったのは、決して、あなたを召捕らんがためではない。やがて後より丞相がご自身でこれに来られるゆえ、その前触れにきたのでござる。 曹丞相 ( そうじょうしょう ) の見えられるまで、しばしこれにてお待ちねがいたい」 三 「なに。曹丞相みずからこれへ参るといわれるか」 「いかにも、追ッつけこれへお見えになろう」 「はて、 大仰 ( おおぎょう ) な」 関羽は、何思ったか、駒をひっ返して 覇陵橋 ( はりょうきょう ) の中ほどに突っ立った。 張遼は、それを見て、関羽が自分のことばを信じないのを知った。 彼が、狭い橋上のまン中に立ちふさがったのは、大勢を防ごうとする構えである。――道路では四面から囲まれるおそれがあるからだ。 「いや。やがて分ろう」 張遼は、あえて、彼の誤解に弁明をつとめなかった。まもなく、すぐあとから曹操はわずか六、七騎の腹心のみを従えて馳けてきた。 それは、 許 ( きょちょ ) 、 徐晃 ( じょこう ) 、 于禁 ( うきん ) 、 李典 ( りてん ) なんどの 錚々 ( そうそう ) たる将星ばかりだったが、すべて甲冑をつけず、 佩剣 ( はいけん ) のほかは、ものものしい武器をたずさえず、きわめて、平和な装いを揃えていた。 関羽は、覇陵橋のうえからそれをながめて、 「――さては、われを召捕らんためではなかったか。張遼の言は、真実だったか」 と、やや面の色をやわらげたが、それにしても、曹操自身が、何故にこれへ来たのか、なお怪しみは解けない 容子 ( ようす ) であった。 ――と、曹操は。 はやくも駒を橋畔まで馳け寄せてきて、しずかに声をかけた。 「オオ羽将軍。――あわただしい、ご出立ではないか。さりとは余りに名残り惜しい。何とてそう路を急ぎ給うのか」 関羽は、聞くと、馬上のまま 慇懃 ( いんぎん ) に一礼して、 「その以前、それがしと丞相との間には三つのご誓約を交わしてある。いま、故主玄徳こと、河北にありと伝え聞く。――幸いに許容し給わらんことを」 「惜しいかな。君と予との交わりの日の余りにも短かりしことよ。――予も、天下の宰相たり、決して 昔日 ( せきじつ ) の約束を 違 ( たが ) えんなどとは考えていない。……しかし、しかし、余りにもご滞留が短かかったような心地がする」 「 鴻恩 ( こうおん ) 、いつの日か忘れましょう。さりながら今、故主の所在を知りつつ、安閑と無為の日を過して、丞相の温情にあまえているのも心ぐるしく……ついに去らんの意を決して、七度まで府門をお訪ねしましたが、つねに門は各 とざされていて、むなしく立ち帰るしかありませんでした。お暇も乞わずに、早々旅へ急いだ罪はどうかご寛容ねがいたい」 「いやいや、あらかじめ君の訪れを知って、 牌 ( はい ) をかけおいたのは予の 科 ( とが ) である。――否、自分の小心のなせる 業 ( わざ ) と明らかに告白する。いま自身でこれへ追ってきたのは、その小心をみずから恥じたからである」 「なんの、なんの、丞相の 寛濶 ( かんかつ ) な度量は、何ものにも、 較 ( くら ) べるものはありません。誰よりも、それがしが深く知っておるつもりです」 「本望である。将軍がそう感じてくれれば、それで本望というもの。別れたあとの心地も 潔 ( いさぎよ ) い。……おお、張遼、あれを」 と、彼はうしろを顧みて、かねて用意させてきた路用の金銀を、 餞別 ( せんべつ ) として、関羽に贈った。が関羽は、容易にうけとらなかった。 「滞府中には、あなたから充分な、お 賄 ( まかな ) いをいただいておるし、この後といえども、 流寓落魄 ( りゅうぐうらくはく ) 貧しきには馴れています。どうかそれは諸軍の兵にわけてやってください」 しかし曹操も、また、 「それでは、折角の予の志もすべて空しい気がされる。今さら、わずかな路銀などが、君の節操を傷つけもしまい。君自身はどんな困窮にも耐えられようが、君の仕える二夫人に衣食の困苦をかけるのはいたましい。曹操の情として忍びがたいところである。君が受けるのを潔しとしないならば、二夫人へ路用の餞別として、献じてもらいたい」と 強 ( た ) って云った。 四 関羽は、ふと、眼をしばだたいた。二夫人の境遇に考え及ぶと、すぐ 断腸 ( だんちょう ) の思いがわくらしいのである。 「ご芳志のもの、二夫人へと仰せあるなら、ありがたく 収 ( おさ ) めて、お取次ぎいたそう。――長々お世話にあずかった上、些少の功労をのこして、いま流別の日に会う。……他日、 萍水 ( ひょうすい ) ふたたび巡りあう日くれば、べつにかならず、余恩をお報い申すでござろう」 彼のことばに、曹操も満足を面にあらわして、 「いや、いや、君のような純忠の士を、幾月か都へ留めておいただけでも、都の士風はたしかに良化された。また曹操も、どれほど君から学ぶところが多かったか知れぬ。――ただ君と予との 因縁 ( いんねん ) 薄 ( うす ) うして、いま人生の中道に 袂 ( たもと ) をわかつ。――これは淋しいことにちがいないが、考え方によっては、人生のおもしろさもまたこの 不如意 ( ふにょい ) のうちにある」 と、まず張遼の手から路銀を贈らせ、なお後の一将を顧みて、持たせてきた一領の錦の 袍衣 ( ひたたれ ) を取寄せ、それを関羽に 餞別 ( はなむけ ) せん――とこういった。 「秋も深いし、これからの山道や渡河の旅も、いとど寒く相成ろう。……これは曹操が、君の芳魂をつつんでもらいたいため、わざわざ携えてきた粗衣に過ぎんが、どうか旅衣として、雨露のしのぎに着てもらいたい。これくらいのことは君がうけても誰も君の節操を疑いもいたすまい」 錦の抱を持った大将は、直ちに馬を下りて、つかつかと 覇陵橋 ( はりょうきょう ) の中ほどへすすみ、関羽の駒のまえにひざまずいて、うやうやしく錦袍を捧げた。 「かたじけない」 関羽はそこから目礼を送ったが、その 眼 ( まな ) ざしには、もし何かの謀略でもありはしまいかとなお充分警戒しているふうが見えた。 「――せっかくのご 餞別 ( せんべつ ) 、さらば 賜袍 ( しほう ) の恩をこうむるでござろう」 そういうと、関羽は、小脇にしていた 偃月 ( えんげつ ) の青龍刀をさしのべてその 薙刀形 ( なぎなたなり ) の刃さきに、錦の袍を引っかけ、ひらりと肩に打ちかけると、 「おさらば」と、ただ一声のこして、たちまち北の方へ駿足 赤兎馬 ( せきとば ) を早めて立ち去ってしまった。 「見よ。あの武者ぶりの良さを――」 と、曹操は、ほれぼれと見送っていたが、つき従う 李典 ( りてん ) 、 于禁 ( うきん ) 、 許 ( きょちょ ) などは、口を極めて、怒りながら、 「なんたる 傲慢 ( ごうまん