大菩薩峠 京の夢おう坂の夢の巻 — 中里介山
一 同じその 宵 ( よい ) のこと、大津の浜から八十石の丸船をよそおいして、こっそりと湖中へ向って船出をした甲板の上に、 毛氈 ( もうせん ) を敷いて酒肴を置き、上座に構えているその人は、有野村の藤原の伊太夫で、その傍に寄り添うようにして、 「 御前様 ( ごぜんさま ) 、光悦屋敷とやらのことは、もう一ぺんよくお考えあそばしませ、大谷風呂の方は、どちらへ転びましても結構でございますがねえ」 それは女軽業の親方のお角でした。 女軽業の親方お角さんは、今では伊太夫第一のお気に入りになっている。お角が伊太夫を御前様と称えてみたところで、あえてへつらうわけではない。伊太夫は伊太夫としての貫禄から言っても、その系統から言っても、大名以上の実力はあるのだから、おかしいことにはならないのだし、お角もまた、この人を御前様以上の御前様として心からの尊敬を以て言うのだから、それもおかしいことにはならない。伊太夫は軽く 頷 ( うなず ) いて、 「それは、どちらでもいい」 と答えました。そうすると、同じ取巻の町人 体 ( てい ) なのが引きついで、 「いや、 山科 ( やましな ) の光悦屋敷の方も、ぜひお引取りなさいませ、今の御時世でございませんと、寝かして置きましても、持主がちょと手放す気にはなれません、あれだけの由緒あるお屋敷は、さがし求めた日には、なかなか出物があるわけのものではございませぬ、万一、売主がございましても、買切れる主がございません、買いたいと申しましても、二度と売主は出ますまいかと存じまする、お大尽のお耳に入りましたのが、全く以て千載一遇――売主のためにも、お買取りの方にも、また 古 ( いにし ) えの光悦様のためにも、三方への 功徳 ( くどく ) になるかと心得ておりまする」 おたいこを叩いている言葉尻から察すると、この辺に地所の買入れの周旋が相当進んでいるらしい。しかし、今晩は、そういうことの取引を熟談するために、この船をよそおうて湖へ出たのではないらしい。そうかといって、今晩に限って、湖上の月を眺めようとの風流のための一座でないこともわかっている。地所家屋のことが口に上ったのは、当座の口合いだけのもので、この船は別に何か目的あって沖に向って進むものらしい。 宿へは、月も見がてら、夜をこめて竹生島まで行きつき、泊りの参詣をして帰ると言って出たのですが、その竹生島参詣にしてからが、なにも今晩、この船路を選ばなければならない必要も、理由もないようなものですが、それを伊太夫の発意によって、急にこの船よそおいをさせたというものは、一つは湖中へ向って、陸上から避難の意味でありました。 避難といえば、今の伊太夫の身辺に、何か急に迫る危険が予想されたのかというに、急にそうあるべき事情もないことはわかっている。そもそも伊太夫、今日の旅路というものが、極めて 微行 ( しのび ) の形式で、関西の名所めぐりということになっているが、その実は、やっぱりあの 胆吹山 ( いぶきやま ) の麓に根を張っている、やんちゃ娘の女王様の動静が、さすがに親心で気にかかる、それを見届けんがための旅立ちということが、内心の主力を占めているのですから、まだ当分は、胆吹と相望むところのこちらの湖岸を離れることにはなるまいと思われる。お角親方にしたところが、このお大尽に附添うていることの限りに於ては、あえて、そう京阪地方に一日を争わなければならぬ兼合いはないものと見なければならぬ。 悠揚として迫ることの必要のない伊太夫が、今晩避難の意味を兼ねて湖中に出でたということは、どうも表面見ただけでは、その内情を察するに難い。さては、あの がんりき の百とやらの 小盗人 ( こぬすっと ) めに 覘 ( ねら ) われて、つき 纏 ( まと ) われる煩わしさからのがれようためか。まさか、藤原の伊太夫ともあるものが、タカの知れたゴマの蠅一匹のために、陸上に身の置きどころがないという解釈も、あまりに浅ましい。実のところ、伊太夫の怖れを成したのは、この前から度々隠見する、湖上湖岸の物騒なる空気の動揺が 然 ( しか ) あらしめたもので、これが伊太夫の心持をも少なからず動揺させてしまいました。湖南湖北を通じて、すさまじい百姓一揆勃発の気運が、今やハチ切れんばかりに胎動している、いや胎動ではない、もはや、宿々領々によっては爆発の暴動をあげてしまっている。それが伊太夫の心を常ならず不安にしました。 持てる人としての伊太夫は、他の何事にも驚かぬことの代りに、持たぬ者共の動静に神経が過敏となる。伊太夫はしかるべき家に生れてしかるべきように今日まで来ているから、あえて力を以て、暴圧と搾取とを、持たぬ者共に加えた覚えはないのだから、モッブの恨みを買うべき事情は少しも備えていないとは言いながら、持たぬ者共が動揺をはじめた時は、その波動が、いつどこにいようとも、誰人にも増して身にこたえるのは、持てる人の身にならなければわからない。 湖岸暴動の風聞を聞くにつけて、伊太夫はいやな気になって、それで急に、船よそおいをさせて、竹生島詣でを口実の水上避難という次第でありました。 二 「おやおや、何か変なものが流れて来ますねえ」 ややあって、お角さんが湖上をながめてこう言いました。 「あれごらんなさい、あれはまだ新しい盃とはんだい――まあ、こちらの方から、女の帯が流れて来ますよう」 盃とはんだいと言っていた間はまだいいが、女の帯と言われて、一座がゾッとしました。 杯盤の流れたということは、いささか風流の響きもあるが、女の帯が流れたということに、何か一座の身の毛をよだてるような暗示があったらしい。そうして湖面を見て、その言う通りの酒器が浮び 来 ( きた ) ることは誰もそれを見たが、女の帯が流れているということを、舟の上の誰もがまだ気がつかない。酒器は水に浮ぶものだが、女の帯は必ずしも水に浮いて流れるとは限らない。帯によっては水に沈み勝ちでなければならないのをめざとくその一端を見つけて、帯、しかも女の帯と認定してしまったそれは、お角さんの勘と言わなければならない。 そこで、一座は、お角さんの勘を基調として一同に身の毛をよだてたのですが、帯を帯として認め得た者は、お角さんのほかには一人もありませんでした。 だが、そう言われて見ると、一筋の女の帯が 暢揚 ( ちょうよう ) として 丈 ( たけ ) を延ばして、眼前に腹ばって、のして行く。さきに流れた、誰にも認められるべきところの酒器台盤がそれに先行して行く。見ようによると、一匹の大蛇が、その酒器台盤を追うて、これを呑まんとして呑み得ざるままに、追走してのして行く形に見えて、いっそう物すごくなったのです。 一座は無言で、ゾッとしたままで、その酒器を追う平面毒竜の形を見入ったまま、水を打ったように静寂に返りました。 そうすると、暫くあって、その毒竜の尾について、間隔は二三間を隔てて 濫觴 ( らんしょう ) のような形のものが二つ、あとになり、先になり、前なるは振向いて後ろなるを誘うが如く、後ろなるが先んじて前なるものに戯るるが如く、流れ流れて行くものを認めないわけにはゆきません。 「あれはポックリです――女物の、 二十歳 ( はたち ) 前の女の子でなければ 穿 ( は ) きません」 噛 ( か ) んで吐き出すようにお角さんが言う。それが一層のまた凄味を物言わぬ一座の上に漂わせたと見えて、ちょっと目をそらす者さえあったが、 憑 ( つ ) かれたように、その行手を見据えているものも多かったのです。 湖上はと見れば、その時、立てこめた一面の霧です。 行手も霧、返るさも霧、ただその霧が明るいことだけは、霧の上に月がある余徳なのであって、この霧の中を迷わずに進み得るのは、船頭そのものの手練である。ところが、その多年の船頭そのものの手腕が怪しくなったと見えて、 「な、な、なんてだらしのねえ船扱いだ、おいおい、何とかしなければ正面衝突だよ、舟と舟とが、まともにぶっつかるよ、おい、その舟にゃ 舟夫 ( せんどう ) がいねえのか」 こちらの船頭が舟の 舳先 ( へさき ) で、あわただしくこう叫んだのが、また一座の沈黙の空気を 脅 ( おびやか ) しました。 今までは静かに漂うものの無気味さに打たれていたのですが、今度は、さし当りこちらにのしかかって来るものがあるらしい。その警戒のためにとて、こちらの船の舟夫が、あわただしいこの警告です。見ればなるほど、一隻の舟がこちらに向って、正面衝突の形で、前面より突き進んで来つつある。こちらの船頭が叫ぶのも無理はない、あのままで来ればまさしく正面衝突です。しかし、正面衝突とすれば、その危険性は我になくして 寧 ( むし ) ろ彼にあるのです。何となれば、かの舟はこの船に比べてはるかに小さいから、正面衝突の場合の損傷を論ずるという日になると、まるで比較にならない。そこで、こちらの船頭の警告というものは、むしろ我の危険のためにあらずして、彼の危険のための忠告の好意ある叫喚に過ぎないのだが、その好意を好意と受取らないのが、先方の舟の行き方であって、そういう危険状態が 目睫 ( もくしょう ) に迫っているにかかわらず、あえて警告に応じて、舟の針路を転向しようとも、変換させようとも試みないで、霧の中を出て、霧の中を平気で漂うがままに、あえて正面衝突も、 木端微塵 ( こっぱみじん ) も辞することなき、無謀千万の行き方でやって来るものですから、こちらの船頭が、火のついたように地団太を踏んで、 「あ、あ、いけねえ、何とか 楫 ( かじ ) を取れねえのか――」 先方は小舟だけに操縦が容易である、こちらは大船だけに運用が自由にならぬ、避けようとすれば先方は、ほんの一挙手の労で済むのだが、それをそうしないために、こちらの船頭は倍級の狼狽をしなければならない。それでも多年の熟練でようやく方向転換ができて、正面衝突だけは避けられたが、その途端に、 棹 ( さお ) をやって 邪慳 ( じゃけん ) に相手方の小舟を突き放してみると、そこにも手ごたえがなく、すんなりとはなれる。 「なあんだ、空っ舟だ――」 相手がありさえすればこの場合、舟の衝突は免れても、舟夫同士に相当の口論、腕立てが起るべきところを、相手が人なし舟では喧嘩にならぬ。乗る人がなくて霧の中からさまよい出て来て、突き放さるればまた文句なしに突き放されて行く小舟を、船頭は腕のやり場もなく、しばらく見ていたが、それを見のがしにしなかったのがお角さんです。 「 舟夫 ( せんどう ) さん、ちょいと、その舟を留めてみて頂戴、こっちへ引き寄せて見せてもらうわけにはゆかないかねえ」 お角さんだけが、この人なし舟を、人なし舟として突放しにする気にならなかったのは、何かこの女の勘にさわるものがあったればでしょう。勘というのは、弁信法師に限ったわけではない、脳味噌の働きの利鈍によって、何人にも勘の能力の大小がある。弁信法師の如きは超人的で、それは何者にも比較にならないが、お角さんの如きは、女性として最も勘のすぐれた方の女性なのです。目から鼻へ抜ける勘持ちで、いわゆる、こらえぬ気象なのです。ただ、「勘」という字が、お角さんの場合に於ては、「疳」とか「癇」とかいう字を使った方が適切な場合が多かろうというものです。 癇走るお角さんの命令によって、船頭は二言ともなく、いったん突き放した小舟を、また自分たちの大船の船べり近く引き寄せて、生かそうと殺そうと御意のまま、という体で、お角さんの眼の前へ突きつけたものです。 三 いくつもの 提灯 ( ちょうちん ) をさげつつ、この引き寄せられた舟の中へ入り込んで見たのは、お角さんをはじめ、伊太夫周囲の取巻連でありました。お角さんが見ると、この小舟の中が 狼藉 ( ろうぜき ) を極めておりました。 ほかの者が見たのでは、何が何やら気ぜわしいばかりです。 そこで、お角さんが、 「ちぇッ」 と舌打ちをして、眉根に八の字を寄せながら、舟底をちょっと蹴立ててみたというのは、その狼藉ぶりが例の癇にさわったからでありましょう。 他の者が見ては特に目立たない場合に、ナゼお角さんだけが、その狼藉ぶりに癇を鳴らしたかと見れば、小舟の中が、あまりに見苦しい取散らかしぶりであったからです。 「なんて、たしなみのないザマなんでしょう」 お角さんは、小舟の中を見て眼をそむけてしまったが、改めて大船の上を見上げる。 燈籠 ( とうろう ) の下の座に席をくずさずに坐っている伊太夫も、なんとなく、こちらが気がかりのように見おろしている様子にぶっつかると、そのままにして置いて、 「さあ、上りましょう、これだけのものなんです、でも、船頭さん、この舟を 曳 ( ひ ) いて行ってあげてくださいよ――しかるべきところまでねえ」 狼藉は狼藉としてのままで、一応、引くところまで引いて行って調べてやろう、というお角さんのはらです。 その声に応じて、提灯片手の取巻連が、一応もとの席に戻りますと、右の小舟は無雑作に曳舟として扱われて、無意味従順にこの親船のあとに引かれて行く。 「何でした、別にあぶないこともなかったですかね」 伊太夫からたずねられて、お角さんが少し息をはずませ、 「ちょきが一ぱい流れついただけのことなんですがね、御前様、どうも、その中が穏かでないんでございますよ」 「どう、穏かでないのですか」 「なんぼなんでも、ああまで取乱さなくってもよかりそうなもの」 「ははあ、そんなに見苦しくなっていましたかな」 「見苦しいにもなんにも、いったい、心中でもしようという人間には、もう少し たしなみ というものがなくてはいけませんね」 「心中? 相対死 ( あいたいじに ) ですか」 「そうでございますよ、さっきのあの盃と、帯と、駒下駄の判じ物でもわかりますよね、あの舟で思いきり楽しんで、それから死出の旅という寸法なんでしょう、行き方は 洒落 ( しゃれ ) ていないではありませんけれど、ああ取乱したんじゃお話になりません」 「どうして、そういうことがわかります、ほんとうに心中者があったとすれば、このままでは済まされますまい、迷惑千万なことだが、一応、手を尽してやらなきゃあなるまいが」 と伊太夫が、そこに思いやりをはじめました。小舟の中が取乱してあるか、取乱してないかはこの際、論外なことで、お角さんの見込みの通り、程遠からぬ時間の間に、