Forgiveness Is Not Forgetting — Setting Down the Grip, Keeping the Truth — Epoche C2
場面設定: 夜更けの緩和ケア病棟、家族用の小さな談話室。蛍光灯は半分落とされ、自動販売機の紙コップのお茶が二つ、低いテーブルで、とうに湯気を失っている。廊下の先の個室では、父親が、もう何日も意識を取り戻さぬまま、浅い呼吸をくり返している。窓辺に立つのは、哲学を教える妹のカミラ(三十代後半、黒いコートを着たまま、腕を組み、その腕で自分を抱きしめるように)。長椅子に腰かけ、両手で冷えた紙コップを包んでいるのは、この病棟で長年働いてきたホスピス看護師の姉のローザ(四十代後半、勤務明けの皺の寄った白衣、目の下に疲れ、けれど声はどこまでも穏やか)。二人のあいだに、四十年分の、口にされなかった事柄が、静かに積もっている。 お医者さまは、もって二日だろうと。私、さっきまであの人のそばに座っていてね、カミラ——気づいたら、あの人を赦していたの。だからあなたにも、その場所まで辿り着いてほしい。手遅れになる前に。あの人のためじゃない——あなたのために。 『あなたのために』。皆が使う、まさにその台詞ね。そして私は、それを信用しないの。お姉さんは私に、一度として赦しを乞うたことのない男を——その言葉に、きょとんとするだけの男を、赦せと言っている。しかもそれを、自分への思いやりという装いで差し出すから、私は、自分を傷つける薄情者に見えずには、断れない。ローザ、私は哲学が飯の種なの。優しさが同時に強要でもある瞬間を、目ざとく見つけるのが、仕事なのよ。 私は、あなたに強要してなんかいない。私はあの病棟で、二百人が死んでいくのを看取ってきた。その枕元で、子どもたちを見てきた。そして、本当に見てきたことを、あなたに言うわ——手放せなかった人は、それを、その後三十年、抱えて生きるの。怨みは、死んだ人を罰しはしない。それはただ、生きている人の、形になる。私はね、あなたに、そんな形になってほしくないだけなのよ。 でも、怨みは、ただの傷ではないの——それは、一つの『判決』なのよ。バトラー主教が、三百年前に、それを擁護した。怨みとは、道徳的な存在が、不正を目にしたときに抱く感情であって、何も感じないことのほうが、美徳ではなく、欠陥なのだ、と。私が、あの人のお母さんへの仕打ち、私たちへの仕打ちを怨むとき、私は毒を呑んでいるんじゃない。あれが許容範囲だった、と言うことを、拒んでいるの。ストローソンは、それを『反応的態度』と呼んだ——私たちが互いを、そもそも責任ある存在として扱う、その扱い方そのものなのよ。怨みを捨てよと私に言うのは、あの人を、『何かをした』誰かとして、真剣に受け止めるのをやめよ、と言うことなの。 私は、あれが許容範囲だった、なんて言えとは頼んでいない。それこそが、あなたがずっと聞き取ってしまう、けれど私が言っていない部分なの。あの人を赦すことは、あれが大したことではなかったと、世界に告げることじゃない。大したことでなかったのなら、そもそも、赦すべき『何か』なんて、ありはしないでしょう。あなたは哲学者だもの——『大目に見ること』と『赦すこと』の違いは、知っているはず。私たちが誰かを大目に見るのは、その人に本当は責任がなかった、と判断したとき。赦しは、その正反対なの。あの人に責任が『あった』と認め、それをしっかり抱えていてこそ、はじめて意味をなす——それでもなお、握りしめた手を、ゆるめると選ぶことなのよ。 (間をおいて)……その区別は、認めましょう。大目に見ることは不正を消し、赦しは不正を前提にする。でもそれなら、加害者の悔いを欠いた赦しは、奇妙で、ひどく一方的なものになる。あの人は変わっていない。変わりはしない。ハンプトンとマーフィーは、悔いない者を赦すことは、自尊心の失敗になりうると論じた——まだあなたの尊厳を踏みつけたまま立っている相手に、交わりの手を差し伸べることになる、と。なぜ、傷つけられた側が道徳の労苦をすべて引き受け、傷つけた側は、廊下の先で、それを眠って忘れているの? なぜなら、そうしない限りの代わりは、あの人が、あなたの『これからの人生』ずっと、あなたの尊厳を踏みつけたまま立ちつづける、ということだから——しかも今度は、あの人の手ではなく、あなた自身の手によってよ。あの人は、もう何年も前から、あなたを傷つける力を失っているの、カミラ。いまもその傷を、あなたが反芻するたびに、与えつづけている唯一の人は——あなた自身。それは正義じゃない。死者には、償わせようがない。請求書はただ、あなたの口座で、ふくらみつづけるだけなのよ。 それは、また例の治療的な論法ね。強力ではあるけれど、それが何をこっそり持ち込んでいるか、よく見て。それは赦しを、私の平穏、私の口座、私の健康の話にしてしまう——そして、現実の不正そのものと、あの人を、そっと『問題ではないもの』に変えてしまうの。それこそが、いたるところで権力者を免責にする、まさにその手口でしょう。『赦して、前へ進め』——それは、あらゆる組織が、自分の傷つけた人々に向かって言う台詞よ。私は、現実の不正を、ウェルネスの実践へと、洗浄してしまうことを、拒むわ。 いいわ——私だって拒む。あなたは今、私の憎んでいるものを、ちょうど名指してくれた。だから、安手の二つとも、私たちで拒みましょう。標語みたいな『手放しなさい』——あれは、ただの忘却を、照明だけ良くしたもの。それから、高潔さを名乗りながら、その実、傷が家を取り仕切っているだけの、あの苦々しい凍りつき。第三のものが、あるの。そして、それはどちらよりも難しい。アレントは、それを、『元に戻せないものを、元に戻すことのできる、ただ一つの人間の力』と呼んだ。 アレント——ええ、私が昔あげた本を、読んだのね。(と、ふいに、小さな驚きと温かさがよぎる)彼女は言う。行為は不可逆だ、と。ひとたび為されれば、行いは取り消せない。そして、私たちは、自分と他人のあらゆる害に、永遠に囚われたままになる——もし、二つの能力がなかったなら。一つは『約束すること』、予測しえぬ未来を、縛る力。もう一つは『赦すこと』、変えられぬ過去から、私たちを解き放つ力。過去を消し去ることによってではない。過去が、その後に来る何もかもを、決定してしまうのを、止めることによって。 それが、ことの全てよ。そして、だからこそ、それは弱さではないの。赦しは、『あれは起きなかった』とは言わない。それはこう言うの——『あれは起きた。あれは不正だった。それが何を奪ったか、私は寸分たがわず知っている——そして私はもう、それに、私の物語の残りを、あるいはあの人の最期を、書かせはしない』と。それは、あの人への贈り物じゃない。あなたの健康のため、というのが主でさえない。それは、あなたが、あの人に決して持つ資格のなかった、ただ一つのものを——あなたの未来の、著作権を——取り返すことなのよ。 でも、ローザ——赦しえないものも、ある。デリダは言った。赦しは、赦しえないものにおいてこそ、本当に始まるのだ、と。たやすく大目に見られるものを赦すのは、赦しでも何でもない、と。もし私がこれをするなら、私は、ある種のことは決して滑らかに均してはならない、と知っていた私自身を——私たちを——裏切ることになるの? いいえ——あなたはむしろ、デリダ自身の論点に、答えていることになるの。もしあなたが、歳月があれを小さくしてくれたから赦すのなら、それはただの忘却。何の代償も払わず、何の意味も持たない。本物の赦しは、ただ一種類だけ。不正がいまだ、原寸のまま、大目にも見られず、悔いられもせず、かつてと寸分たがわず赦しえないままに、そこに立っているあいだに、あなたが差し出す赦し——それだけが本物なの。それは、あれが不正だと知っていたあの少女を、裏切ることじゃない。それは、その同じ少女が、大人になって、いまや、その真実を片方の手にしっかり握りしめながら、もう片方の手で、それが自分に食い込む力を、そっと置けるほど、強くなった、ということ。不正は、その名を保ったまま。あなたはただ、それを、自分の名として、背負うのをやめるの。 (静かに)……真実を握りしめたまま、その締めつけを、置く。それは、世間が『赦し』として売っているものとは、違うのね。世間が売っているのは、抱擁つきの健忘症。これはむしろ……判決のあとに来る、釈放のようなもの。有罪、まったくもって有罪——そして私は、この一度きりの人生を、あなたの牢番として、費やしはしない。なぜなら、その独房は、二人を閉じ込めるのだから。 そう。まさに、それよ。そして、ほら——あなたは、あの人が二度と目を覚まそうと覚ますまいと、あの人が解しようと解すまいと、あの人がそれに値しようとしまいと、それを為せるの。それは、はじめから、あの人の署名を要する取引なんかじゃなかった。だからこそ、赦しは、与えることしかできず、決して負わされはしない。だからこそ、誰一人——私も、牧師さまも、この死の床さえも——あなたに、それを要求することはできない。命じられた赦しは、赦しじゃない。それはただの、服従。私は、命じてなんかいない。私はただ、その扉に鍵はかかっていない、と告げているだけ。そして私は、その向こう側に、いるのよ。 なら、行って、あの人のそばに座らせて。あれは大丈夫だった、と告げるためじゃない——大丈夫ではなかったし、私は、死にゆく人にも、生きている人にと同じく、嘘はつかない。でも、たぶん、私にだけ聞こえるところで、こう言うために。『あなたが何をしたか、私は知っている。それが何を奪ったかも、知っている。そして私は、もう、あなたがこれ以上は台無しにできない歳月を、それに奪わせるのを、やめにする』と。(ひと息)おかしいわね——私は、自分の怨みを守るために、ここへ入ってきたのに。お姉さんは、それを私から取り上げなかった。ただ、それを置いても、自尊心は同じ手の中に保っていられる、と、見せてくれただけ。さあ、行きましょう。お茶は冷めてしまったし、私の人生の半分も、このことで正しくあろうと待つうちに、冷めてしまった。中へ、入りましょう。 解説: 夜更けの緩和ケア病棟を舞台にした C2 級・十六ターンの弁証法。死にゆく父をめぐり、二人の姉妹が『赦し』とは何かを問う。正:ホスピス看護師の姉ローザの立場——手放せぬ怨みは死者を罰せず、生者の形になる。手遅れになる前に、あなた自身のために赦してほしい。反:哲学者の妹カミラの立場——『あなたのために』は優しさを装った強要であり、怨みはバトラーやストローソンの言う通り、不正を不正と見なす道徳的判断=反応的態度であって、悔いなき者を赦すのはハンプトンとマーフィーの言う自尊心の失敗になりうる。安価な赦しは、いたるところで権力者を免責にする手口だ。合:赦しは『大目に見ること(免責)』でも『忘却』でも『和解』でも、加害者に負う義務でもない——不正を不正と名指したうえで(怨みを原料として前提しつつ)、傷つけられた側が自由に、その締めつけを手放すこと。アレントの言う、行為の不可逆性を解く唯一の人間の力であり、過去を消さずに、過去が未来を決定するのを止める。デリダの『赦しは赦しえないものにおいて始まる』を経て、『真実を握りしめたまま、締めつけを置く』『判決のあとの釈放——独房は二人を閉じ込める』に至る。赦しは命じられず、与えることしかできない自由な贈り物であり、被害者の自尊心を奪うどころか、未来の著作権を取り戻す行為である、へ収束する。 参考文献 Butler, J. (1726). 「Upon Resentment」 and 「Upon Forgiveness of Injuries」, 『Fifteen Sermons Preached at the Rolls Chapel』, Sermons VIII-IX. London. Arendt, H. (1958). 『The Human Condition』. Chicago: University of Chicago Press. Strawson, P. F. (1962). 「Freedom and Resentment」. Proceedings of the British Academy, 48, 1-25. Murphy, J. G., & Hampton, J. (1988). 『Forgiveness and Mercy』. Cambridge: Cambridge University Press. Derrida, J. (2001). 『On Cosmopolitanism and Forgiveness』 (M. Dooley & M. Hughes 訳). London: Routledge.