三尺角 — 泉鏡花
一 「…………」 山 ( やま ) には 木樵唄 ( きこりうた ) 、 水 ( みづ ) には 船唄 ( ふなうた ) 、 驛路 ( うまやぢ ) には 馬子 ( まご ) の 唄 ( うた ) 、 渠等 ( かれら ) はこれを 以 ( もつ ) て 心 ( こゝろ ) を 慰 ( なぐさ ) め、 勞 ( らう ) を 休 ( やす ) め、 我 ( おの ) が 身 ( み ) を 忘 ( わす ) れて 屈託 ( くつたく ) なく 其 ( その ) 業 ( げふ ) に 服 ( ふく ) するので、 恰 ( あたか ) も 時計 ( とけい ) が 動 ( うご ) く 毎 ( ごと ) にセコンドが 鳴 ( な ) るやうなものであらう。また 其 ( それ ) がために 勢 ( いきほひ ) を 増 ( ま ) し、 力 ( ちから ) を 得 ( う ) ることは、 戰 ( たゝかひ ) に 鯨波 ( とき ) を 擧 ( あ ) げるに 齊 ( ひと ) しい、 曳々 ( えい/\ ) !と 一齊 ( いつせい ) に 聲 ( こゑ ) を 合 ( あ ) はせるトタンに、 故郷 ( ふるさと ) も、 妻子 ( つまこ ) も、 死 ( し ) も、 時間 ( じかん ) も、 慾 ( よく ) も、 未練 ( みれん ) も 忘 ( わす ) れるのである。 同 ( おな ) じ 道理 ( だうり ) で、 坂 ( さか ) は 照 ( て ) る/\ 鈴鹿 ( すゞか ) は 曇 ( くも ) る=といひ、 袷 ( あはせ ) 遣 ( や ) りたや 足袋 ( たび ) 添 ( そ ) へて=と 唱 ( とな ) へる 場合 ( ばあひ ) には、いづれも 疲 ( つかれ ) を 休 ( やす ) めるのである、 無益 ( むえき ) なものおもひを 消 ( け ) すのである、 寧 ( むし ) ろ 苦勞 ( くらう ) を 紛 ( まぎ ) らさうとするのである、 憂 ( うさ ) を 散 ( さん ) じよう、 戀 ( こひ ) を 忘 ( わす ) れよう、 泣音 ( なくね ) を 忍 ( しの ) ばうとするのである。 それだから 追分 ( おひわけ ) が 何時 ( いつ ) でもあはれに 感 ( かん ) じらるゝ。つまる 處 ( ところ ) 、 卑怯 ( ひけふ ) な、 臆病 ( おくびやう ) な 老人 ( らうじん ) が 念佛 ( ねんぶつ ) を 唱 ( とな ) へるのと 大差 ( たいさ ) はないので、 語 ( ご ) を 換 ( か ) へて 言 ( い ) へば、 不殘 ( のこらず ) 、 節 ( ふし ) をつけた 不平 ( ふへい ) の 獨言 ( つぶやき ) である。 船頭 ( せんどう ) 、 馬方 ( うまかた ) 、 木樵 ( きこり ) 、 機業場 ( はたおりば ) の 女工 ( ぢよこう ) など、あるが 中 ( なか ) に、 此 ( こ ) の 木挽 ( こびき ) は 唄 ( うた ) を 謠 ( うた ) はなかつた。 其 ( そ ) の 木挽 ( こびき ) の 與吉 ( よきち ) は、 朝 ( あさ ) から 晩 ( ばん ) まで、 同 ( おな ) じことをして 木 ( き ) を 挽 ( ひ ) いて 居 ( ゐ ) る、 默 ( だま ) つて 大鋸 ( おほのこぎり ) を 以 ( もつ ) て 巨材 ( きよざい ) の 許 ( もと ) に 跪 ( ひざまづ ) いて、そして 仰 ( あふ ) いで 禮拜 ( らいはい ) する 如 ( ごと ) く、 上 ( うへ ) から 挽 ( ひ ) きおろし、 挽 ( ひ ) きおろす。 此 ( この ) 度 ( たび ) のは、 一昨日 ( をとゝひ ) の 朝 ( あさ ) から 懸 ( かゝ ) つた 仕事 ( しごと ) で、ハヤ 其 ( その ) 半 ( なかば ) を 挽 ( ひ ) いた。 丈 ( たけ ) 四 間半 ( けんはん ) 、 小口 ( こぐち ) 三 尺 ( じやく ) まはり 四角 ( しかく ) な 樟 ( くすのき ) を 眞二 ( まつぷた ) つに 割 ( わ ) らうとするので、 與吉 ( よきち ) は十七の 小腕 ( こうで ) だけれども、 此 ( この ) 業 ( わざ ) には 長 ( た ) けて 居 ( ゐ ) た。 目鼻立 ( めはなだち ) の 愛 ( あい ) くるしい、 罪 ( つみ ) の 無 ( な ) い 丸顏 ( まるがほ ) 、 五分刈 ( ごぶがり ) に 向顱卷 ( むかうはちまき ) 、 三尺帶 ( さんじやくおび ) を 前 ( まへ ) で 結 ( むす ) んで、 南 ( なん ) の 字 ( じ ) を 大 ( おほき ) く 染拔 ( そめぬ ) いた 半被 ( はつぴ ) を 着 ( き ) て 居 ( ゐ ) る、これは 此處 ( こゝ ) の 大家 ( たいけ ) の 仕着 ( しきせ ) で、 挽 ( ひ ) いてる 樟 ( くすのき ) も 其 ( そ ) の 持分 ( もちぶん ) 。 未 ( ま ) だ 暑 ( あつ ) いから 股引 ( もゝひき ) は 穿 ( は ) かず、 跣足 ( はだし ) で 木屑 ( きくづ ) の 中 ( なか ) についた 膝 ( ひざ ) 、 股 ( もゝ ) 、 胸 ( むね ) のあたりは 色 ( いろ ) が 白 ( しろ ) い。 大柄 ( おほがら ) だけれども 肥 ( ふと ) つては 居 ( を ) らぬ、ならば 袴 ( はかま ) でも 穿 ( は ) かして 見 ( み ) たい。 與吉 ( よきち ) が 身體 ( からだ ) を 入 ( い ) れようといふ 家 ( いへ ) は、 直 ( すぐ ) 間近 ( まぢか ) で、一 町 ( ちやう ) ばかり 行 ( ゆ ) くと、 袂 ( たもと ) に一 本 ( ぽん ) 暴風雨 ( あらし ) で 根返 ( ねがへ ) して 横樣 ( よこざま ) になつたまゝ、 半 ( なか ) ば 枯 ( か ) れて、 半 ( なか ) ば 青々 ( あを/\ ) とした、あはれな 銀杏 ( いてふ ) の 矮樹 ( わいじゆ ) がある、 橋 ( はし ) が 一個 ( ひとつ ) 。 其 ( そ ) の 澁色 ( しぶいろ ) の 橋 ( はし ) を 渡 ( わた ) ると、 岸 ( きし ) から 板 ( いた ) を 渡 ( わた ) した 船 ( ふね ) がある、 板 ( いた ) を 渡 ( わた ) つて、 苫 ( とま ) の 中 ( なか ) へ 出入 ( でいり ) をするので、 此 ( この ) 船 ( ふね ) が 與吉 ( よきち ) の 住居 ( すまひ ) 。で 干潮 ( かんてう ) の 時 ( とき ) は 見 ( み ) るも 哀 ( あはれ ) で、 宛然 ( さながら ) 洪水 ( でみづ ) のあとの 如 ( ごと ) く、 何時 ( いつ ) 棄 ( す ) てた 世帶道具 ( しよたいだうぐ ) やら、 缺擂鉢 ( かけすりばち ) が 黒 ( くろ ) く 沈 ( しづ ) むで、 蓬 ( おどろ ) のやうな 水草 ( みづくさ ) は 波 ( なみ ) の 隨意 ( まに/\ ) 靡 ( なび ) いて 居 ( ゐ ) る。この 水草 ( みづくさ ) はまた 年 ( とし ) 久 ( ひさ ) しく、 船 ( ふね ) の 底 ( そこ ) 、 舷 ( ふなばた ) に 搦 ( から ) み 附 ( つ ) いて、 恰 ( あたか ) も 巖 ( いはほ ) に 苔蒸 ( こけむ ) したかのやう、 與吉 ( よきち ) の 家 ( いへ ) をしつかりと 結 ( ゆは ) へて 放 ( はな ) しさうにもしないが、 大川 ( おほかは ) から 汐 ( しほ ) がさして 來 ( く ) れば、 岸 ( きし ) に 茂 ( しげ ) つた 柳 ( やなぎ ) の 枝 ( えだ ) が 水 ( みづ ) に 潛 ( くゞ ) り、 泥 ( どろ ) だらけな 笹 ( さゝ ) の 葉 ( は ) がぴた/\と 洗 ( あら ) はれて、 底 ( そこ ) が 見 ( み ) えなくなり、 水草 ( みづくさ ) の 隱 ( かく ) れるに 從 ( したが ) うて、 船 ( ふね ) が 浮上 ( うきあが ) ると、 堤防 ( ていばう ) の 遠方 ( をちかた ) にすく/\ 立 ( た ) つて 白 ( しろ ) い 煙 ( けむり ) を 吐 ( は ) く 此處彼處 ( こゝかしこ ) の 富家 ( ふか ) の 煙突 ( えんとつ ) が 低 ( ひく ) くなつて、 水底 ( みづそこ ) の 其 ( そ ) の 缺擂鉢 ( かけすりばち ) 、 塵芥 ( ちりあくた ) 、 襤褸切 ( ぼろぎれ ) 、 釘 ( くぎ ) の 折 ( をれ ) などは 不殘 ( のこらず ) 形 ( かたち ) を 消 ( け ) して、 蒼 ( あを ) い 潮 ( しほ ) を 滿々 ( まん/\ ) と 湛 ( たゝ ) へた 溜池 ( ためいけ ) の 小波 ( さゝなみ ) の 上 ( うへ ) なる 家 ( いへ ) は、 掃除 ( さうぢ ) をするでもなしに 美 ( うつく ) しい。 爾時 ( そのとき ) は 船 ( ふね ) から 陸 ( りく ) へ 渡 ( わた ) した 板 ( いた ) が 眞直 ( まつすぐ ) になる。これを 渡 ( わた ) つて、 今朝 ( けさ ) は 殆 ( ほとん ) ど 滿潮 ( まんてう ) だつたから、 與吉 ( よきち ) は 柳 ( やなぎ ) の 中 ( なか ) で ※ ( ぱつ ) [#「火+發」、692-5] と 旭 ( あさひ ) がさす、 黄金 ( こがね ) のやうな 光線 ( くわうせん ) に、 其 ( その ) 罪 ( つみ ) のない 顏 ( かほ ) を 照 ( て ) らされて 仕事 ( しごと ) に 出 ( で ) た。 二 其 ( それ ) から 日 ( ひ ) 一 日 ( にち ) おなじことをして 働 ( はたら ) いて、 黄昏 ( たそがれ ) かゝると 日 ( ひ ) が 舂 ( うすづ ) き、 柳 ( やなぎ ) の 葉 ( は ) が 力 ( ちから ) なく 低 ( た ) れて 水 ( みづ ) が 暗 ( くら ) うなると 汐 ( しほ ) が 退 ( ひ ) く、 船 ( ふね ) が 沈 ( しづ ) むで、 板 ( いた ) が 斜 ( なゝ ) めになるのを 渡 ( わた ) つて 家 ( いへ ) に 歸 ( かへ ) るので。 留守 ( るす ) には、 年寄 ( としよ ) つた 腰 ( こし ) の 立 ( た ) たない 與吉 ( よきち ) の 爺々 ( ちやん ) が 一人 ( ひとり ) で 寢 ( ね ) て 居 ( ゐ ) るが、 老後 ( らうご ) の 病 ( やまひ ) で 次第 ( しだい ) に 弱 ( よわ ) るのであるから、 急 ( きふ ) に 容體 ( ようだい ) の 變 ( かは ) るといふ 憂慮 ( きづかひ ) はないけれども、 與吉 ( よきち ) は 雇 ( やと ) はれ 先 ( さき ) で 晝飯 ( ひるめし ) をまかなはれては、 小休 ( こやすみ ) の 間 ( あひだ ) に 毎日 ( まいにち ) 一 度 ( ど ) づつ、 見舞 ( みまひ ) に 歸 ( かへ ) るのが 例 ( れい ) であつた。 「ぢやあ 行 ( い ) つて 來 ( く ) るぜ、 父爺 ( ちやん ) 。」 與平 ( よへい ) といふ 親仁 ( おやぢ ) は、 涅槃 ( ねはん ) に 入 ( い ) つたやうな 形 ( かたち ) で、 胴 ( どう ) の 間 ( ま ) に 寢 ( ね ) ながら、 佛造 ( ほとけづく ) つた 額 ( ひたひ ) を 上 ( あ ) げて、 汗 ( あせ ) だらけだけれども 目 ( め ) の 涼 ( すゞ ) しい、 息子 ( せがれ ) が 地藏眉 ( ぢざうまゆ ) の、 愛 ( あい ) くるしい、 若 ( わか ) い 顏 ( かほ ) を 見 ( み ) て、 嬉 ( うれ ) しさうに 頷 ( うなづ ) いて、 「 晩 ( ばん ) にや 又 ( また ) 柳屋 ( やなぎや ) の 豆腐 ( とうふ ) にしてくんねえよ。」 「あい、」といつて 苫 ( とま ) を 潛 ( くゞ ) つて 這 ( は ) ふやうにして 船 ( ふね ) から 出 ( で ) た、 與吉 ( よきち ) はづツと 立 ( た ) つて 板 ( いた ) を 渡 ( わた ) つた。 向 ( むか ) うて 筋違 ( すぢつかひ ) 、 角 ( かど ) から二 軒目 ( けんめ ) に 小 ( ちひ ) さな 柳 ( やなぎ ) の 樹 ( き ) が一 本 ( ぽん ) 、 其 ( そ ) の 低 ( ひく ) い 枝 ( えだ ) のしなやかに 垂 ( た ) れた 葉隱 ( はがく ) れに、一 間口 ( けんぐち ) 二 枚 ( まい ) の 腰障子 ( こししやうじ ) があつて、一 枚 ( まい ) には 假名 ( かな ) 、一 枚 ( まい ) には 眞名 ( まな ) で 豆腐 ( とうふ ) と 書 ( か ) いてある。 柳 ( やなぎ ) の 葉 ( は ) の 翠 ( みどり ) を 透 ( す ) かして、 障子 ( しやうじ ) の 紙 ( かみ ) は 新 ( あた ) らしく 白 ( しろ ) いが、 秋 ( あき ) が 近 ( ちか ) いから、 破 ( やぶ ) れて 煤 ( すゝ ) けたのを 貼替 ( はりか ) へたので、 新規 ( しんき ) に 出來 ( でき ) た 店