Around the World in Eighty Days — Jules Verne
ウィインで 頗 ( すこぶ ) る勢力のある一大銀行に、 先 ( ま ) ずいてもいなくても 差支 ( さしつかえ ) のない小役人があった。名をチルナウエルと 云 ( い ) う小男である。いてもいなくても 好 ( い ) いにしても、 兎 ( と ) に 角 ( かく ) あの大銀行の役をしているだけでも名誉には違いない。 この都に大勢いる銀行員と云うものの中で、この男には何の特色もない。 風采 ( ふうさい ) はかなりで、極力身なりに気を 附 ( つ ) けている。そして文士の 出入 ( しゅつにゅう ) する 珈琲店 ( コオフィイてん ) に 行 ( ゆ ) く。 そこへ 行 ( ゆ ) けば、精神上の修養を心掛けていると云う評を受ける。こう云う評は損にはならない。そこには最新の出来事を知っていて、それを 伝播 ( でんぱ ) させる新聞記者が大勢来るから、 噂 ( うわさ ) 評判の源にいるようなものである。その噂評判を知ることも、先ず益があって損のない事である。 この店に 這入 ( はい ) って据わると、 誰 ( たれ ) でも自分の前に、新聞を山のように積み上げられる。チルナウエルもその新聞の山の 蔭 ( かげ ) に座を占めていて、隣の 卓 ( たく ) でする話を、 一言 ( ひとこと ) も聞き漏さないように、気を附けている。中には内で十分腹案をして置いて、この席で「 洒落 ( しゃれ ) 」の広めをする人がある。それをも聞き漏さない。そんな時 心 ( しん ) から笑う。それで定連に 可哀 ( かわい ) がられている。こう云う社会では「話を受ける」人物もいなくてはならないのである。 こんな風で何年か立った。 そのうちある時、いつも話の受け手にばかりなっていた、このチルナウエルが 忽 ( たちま ) ち話題になった。多分当人も生涯この事件を唯一の話の種にすることであろう。それをなんだと云うと、この男は世界を一周した。そこで珍らしい人物ばかり来るこの店でさえ、珍らしい人物として扱われるようになったのである。この男がその壮遊をしたのは、 富籤 ( とみくじ ) に当ったのではない。また研究心に促されて 起 ( た ) ったのでもない。この店の給仕頭は多年文士に交際しているので、人物の鑑識が上手になって、まだ 鬚 ( ひげ ) の生えない高等学校の生徒を 相 ( そう ) して、「あなたはきっと晩年のギョオテのような 爛熟 ( らんじゅく ) した作をお出しになる」なんぞと云うのだが、この給仕頭の 炬 ( きょ ) の 如 ( ごと ) き眼光を 以 ( もっ ) て見ても、チルナウエルを研究家だとすることは出来なかったのである。それから銀行であるが、なるほどウィインの銀行は、いてもいなくても好い役人位は置く。しかしそれに世界を漫遊させる程、おうような評議会を持っている銀行は、 先 ( ま ) ずウィインにも無い。 * * * 文士珈琲店の客は 皆 ( みな ) 知り合いである。その中に折々来る貴族が二人あった。それが来るのを、定連は名誉としている。二人共陸軍騎兵中尉で、一人は竜騎兵、一人は 旆騎兵 ( はいきへい ) に属している。 中にもどこへ顔を出しても、人の注意を 惹 ( ひ ) くのは、竜騎兵中尉の方である。 画 ( え ) にあるような美男子である。人を 眩 ( げん ) するような、生々とした気力を持っている。 馬鹿 ( ばか ) ではない。ただ話し振りなどがひどくじだらくである。何をするにも、努力とか勉強とか云うことをしたことがない。そのくせ人に取り入ろうと思うと、きっと取り入る。決して失敗したことがない。 この二人は大抵 極 ( き ) まった隅の 卓 ( たく ) に据わる。そしてコニャックを飲む。往来を眺める。格別物を考えはしない。 用事があってこの店へ来ることはない。金貸しには交際があるが、それはこの店を禁物にしていて近寄らない。さて文士連と何の 触接点 ( しょくせってん ) があるかと云うと、当時流行のある女優を、文士連も崇拝しているし、中尉達も崇拝しているに過ぎない。中尉達の方では、それに金を掛けているだけが違う。それでも竜騎兵中尉は折々文士のいる 卓 ( たく ) に来て、余り気も附けずに話を聞いて、微笑して、コニャックをもう一杯 呑 ( の ) んで帰ることがある。 これが銀行員チルナウエルの大事件に 出逢 ( であ ) う因縁になったのである。チルナウエルはいつか文士 卓 ( たく ) の隅に据わることを許されていたのである。 * * * ある日の事であった。まだ時間は早い。文士卓にはもう大勢 団欒 ( まとい ) をしていて、隅の方には銀行員チルナウエルもいた。そこへ竜騎兵中尉が這入って来て、平生の無頓着な、 傲慢 ( ごうまん ) な調子でこう云った。 「諸君のうちで誰か世界を一周して来る気はありませんか。」 ただこれだけで、跡はなんにも言わない。青天の 霹靂 ( へきれき ) である。一同 暫 ( しばら ) くは 茫然 ( ぼうぜん ) としていた。 笑談 ( じょうだん ) だろうか。この貴族先生の顔色を見るに、そうは受け取れない。世界を一周する。誰一人それを望まないものはない。しかしどんな条件があるのだろうと、誰も猶予する。 「僕がしましょう。」興奮の余りに、 上 ( う ) わ調子になった声で、チルナウエルが叫んだ。 「その日数だけ休暇が 貰 ( もら ) えるかね。半年は掛かるよ。」中尉はこう云って、小さい銀行員を、頭から足まで見卸した。 「ええ。僕がいないと、銀行で差支えるのですが、どうにかして貰えないことはなかろうと思います。」実はこれ程容易な事はない。自分がいなくても好いことは、自分が一番好く知っているのである。 「 宜 ( よろ ) しい。それじゃあ、 明日 ( みょうにち ) 邸 ( やしき ) へ来てくれ 給 ( たま ) え。何もかも話して聞せるから。」中尉はくるりと背中を向けて、同僚と一しょに店を出て行った。 門口 ( かどぐち ) に出ると、旆騎兵中尉が云った。 「あれは誰だい。君に、君だの僕だのという、あの小男は。」 「僕と話をする時、君僕と云う男を一々覚えていられるものか。」 尤 ( もっと ) もである。竜騎兵中尉と君僕の交換をしている人はむやみに多いのだから。殊に少し酒が 廻 ( まわ ) っていると、君僕の交際範囲が広くなる。そこで 一旦 ( いったん ) 君僕で話をした人に、跡で改まった口上も使いにくい。とうとう 誰彼 ( たれかれ ) となく君僕で話す。先方がそれに応ずると否とは、勝手である。竜騎兵中尉はこの返事をして間もなく、「そんなら」と云って、別れそうにした。 「どこへ行く。」 「内へ帰る。書きものがある。」 「書きもの。」旆騎兵中尉は、「気が違ったかい」と附け加えたかったのを、我慢して呑み込んだ。 「うん。書きものだ。」こう云うとたんに、丁度美しい小娘がジュポンの 裾 ( すそ ) を 撮 ( つま ) んで、ぬかるみを 跨 ( また ) ごうとしているのを見附けた竜騎兵中尉は、左の手に ( つか ) を握っていた軍刀を高く持ち上げて、極めて熱心にその娘の足附きを見ていたが、跨いでしまったのを見届けて、長い脚を 大股 ( おおまた ) に踏んで、その場を立ち去った。 * * * 陸軍竜騎兵中尉伯爵ポルジイ・キルヒネツゲルは実際邸へ帰った。そして夜の更けるまで書きものをしていた。友達の旆騎兵中尉は、「なに、 色文 ( いろぶみ ) だろう」と、 自 ( みずか ) ら慰めるように、跡で 独言 ( ひとりごと ) を言っていたが、色文なんぞではなかった。 ポルジイは非常な決心と抑えた 怒 ( いかり ) とを以て、書きものに従事している。夕食にはいつも外へ出るのだが、今日は従卒に内へ持って来させた。食事の時は、赤 葡萄酒 ( ぶどうしゅ ) を大ぶ飲んで、しまいにコニャックを一杯飲んだ。 翌日まだ書いている。前日より一層 劇 ( はげ ) しい怒を以て、書いている。いやな事と云うものは、する時間が長引くだけいやになるからである。 午頃 ( ひるごろ ) になって、 一寸 ( ちょっと ) 町へ出た。何か少し食って、黒ビイルを一杯引っ掛けて帰って、また書いている。 ようよう銀行員の来る前に書いてしまった。右の腕を、虚空を 斫 ( き ) るように、猛烈に二三度振って、自分の力量と弾力との衰えないのを試めして見て、独り 自 ( みずか ) ら喜んだ。それから書いたものをざっと読んで見た。かなりの出来である。格別読みづらくはない。いよいよ 遣 ( や ) らなくてはならないとなると、遣れるものだと、自分で満足した。 そう思うと同時に、平生の傲慢が 萌 ( きざ ) す。 幸 ( さいわい ) な事には、いつまでもこんな事をする必要がない。出来たからって、えらがるのは、 沙汰 ( さた ) の限りだ。こう思うと、頗る愉快になって来た。 その時銀行員は戸を 叩 ( たた ) いた。ポルジイは這入らせはしたが、ちょっと 誰 ( たれ ) だったか、何の用で来させたかと云うことを忘れて、ようよう思い出した。それからは頗る 慇懃 ( いんぎん ) に待遇した。 さて一切の用件を話して聞せた。 それを聞いたチルナウエルには、なぜそんな事をさせられるのだかは、分からないが、どんな事をすれば好いと云うことだけは、すっかり飲み込めた。チルナウエルも気の利いた男でポルジイも物をはっきり言う男だからである。そのはっきり言うのは、軍隊で命令をしつけているからである。 チルナウエルは地図、旅行案内、紹介状、旅行券を受け取った。紹介状はどこで誰に渡せと云うことを、一々はっきり言い附けられた。そして少からぬ金額を旅費として受け取った。最後に 暇乞 ( いとまごい ) をしようとした時、名所記類を一山授けた。ポルジイは頭痛に病みながら、これを調べたのであった。 さてこの一切の物を受け取って、前に立っている銀行員を、ポルジイ中尉は批評眼で暫く見て、余り感心しない様子で云った。 「君も少し姿勢がどうかならんかねえ。気を附けて見給え。損の行かない話だ。」 これは少し 冤罪 ( えんざい ) であった。 勿論 ( もちろん ) この銀行員の風采は、伯爵中尉と比べることは出来ない。しかし 世間並 ( せけんなみ ) から言えば、かなりの男振りで、立派に通用するのである。 ポルジイは 暇 ( いとま ) を遣るとき握手して遣ることは出来なかった。それは自分の手が両方共 塞 ( ふさ ) がっていたからである。右には 紙巻烟草 ( シガレット ) を持っていた。左には 鞭 ( むち ) を持っていた。鞭を持っていたのは、慣れない 為事 ( しごと ) で 草臥 ( くたび ) れた跡で、 一鞍 ( ひとくら ) 乗って、それから身分相応の気晴らしをしようと思ったからである。 その晩のうちにチルナウエルは汽船に乗り込んで、南へ向けて立った。最初に着く土地はトリエストである。それから先きへ先きへと、東の方へ向けて、不思議の国へ 行 ( ゆ ) くのである。 さて 到 ( いた ) る 処 ( ところ ) で紹介状を出すと、どこでも非常に厚く待遇する。いかに自分の勤めている銀行が大銀行だとしても、その中のいてもいなくても好い役人の受くべき待遇ではない。そこでチルナウエルは次第に小さい銀行員たることを忘れて、次第に昔話の魔法で 化 ( ばか ) された王子になりすました。 珈琲店では新しい話の種がたっぷり出来た。伯爵中尉の気まぐれも非常であるが、小さい銀行員の 僥倖 ( ぎょうこう ) も非常である。あんな結構な旅行を、何もあのチルナウエルにさせないでも好さそうなものだ。誰だって同じ旅行が出来たら、あの男よりは有利にそれをし 遂 ( と ) げるだろうに。 チルナウエルの旅程が遠くなればなる程、跡に残っている連中の悪口はひどくなる。もう幾月か立ったので、なんに附けても悪く言う。葉書が来ない。そりゃ高慢になった。来た。そりゃ見せびらかす。チルナウエルの身になっては、どうして好いか分からない。 竜騎兵中尉も消え 失 ( う ) せたようにいなくなった。いつも盛んな事ばかりして、人に評判せられたものが、今はどこにいるか、誰も知らない。 * * * ポルジイは大した世襲財産のある伯爵家の未来の主人である。親類には大きい 尼寺 ( あまでら ) の長老になっている 尼君 ( あまぎみ ) が大勢あって、それがこの 活溌 ( かっぱつ ) な美少年を、やたらに甘やかすのである。 二三年勤める 積 ( つもり ) で、陸軍には出た。大尉になり次第 罷 ( や ) めるはずである。それを一段落として、身分相応に結婚して、ボヘミアにある広い田畑を受け取ることになっている。結婚の相手の令嬢も、 疾 ( と ) っくに内定してある。令嬢フィニイはキルヒネツグ領のキルヒネツゲル伯爵夫人になるのが本望である。この社会では結婚前は勿論、結婚してからも、さ程厳重に束縛せられないと云うことを、令嬢は好く知っているのである。 勿論ポルジイの品行は随分ひどい。しかし女達に追い廻されている男だと云う所を酌量して遣らなくてはならない。馬は 目醒 ( めざ ) ましい上手である。その外青年貴族のするような事には、何にも熟錬している。馬の体の事は、 毛櫛 ( けくし ) が知っているより好く知っている。女の容色の事も、外に真似手のない程 精 ( くわ ) しく心得ている。ポルジイが一度好いと云った女の周囲には、 耳食 ( じしょく ) の 徒 ( と ) が集まって来て、その女は 大幣 ( おおぬさ ) の 引手 ( ひくて ) あまたになる。それに学問というものを一切していないのが、最も及ぶべからざる処である。うぶで、無邪気で、何事に逢っても 挫折 ( ざせつ ) しない元気を持っている。物に 拘泥 ( こうでい ) しない、思索ということをしない、純血な人間に出来るだけの受用をする。いつも何か事あれかしと、 居合腰 ( いあいごし ) をしているのである。 それだから 金 ( かね ) のいること 夥 ( おびた ) だしい。定額では 所詮 ( しょせん )