Is It Wrong to Believe Beyond the Evidence? — Evidentialism and the Will to Believe — Epoche C2
場面設定: 信仰と理性をめぐるコロキウムの後の、教員談話室。確信を証拠に比例させる厳格な義務として信念の倫理を教えるエリソン教授と、ジェイムズはクリフォードに答えきったと確信する宗教哲学者ヴァルガ博士とが、聴衆の去ったいまこの一点を論じ合う。 導入: 証拠を越えて信じることが許される場合はあるのか。証拠主義は不十分な証拠に基づいて何かを信じることはいかなる場合も間違っていると説く。信じる意志の立場はこれに対し、証拠が事柄を決しえず選択肢が生きた・強いられた・重大なものであるとき信じることは正当でありうると説く。鍵となるのは誤りを避ける義務と真理を求める義務との緊張、信念がみずから事実を作り出す自己成就的予言、そして意のままには信じえないというウィリアムズの論証である。中心の試金石は不健全な船を信頼するよう自らを言いくるめそれを乗員もろとも沈めるクリフォードの船主であり、誠実な確信が彼の罪を免じうるかが問われる。背後には証拠に応答する認知状態としての信念と、不確実性のもとで行為するために引き受ける態度としてのコミットメントとの区別があり、宗教的信仰がそのいずれであるかが問われている。 信じることには義務があり、しかも大半の人はそれが存在しないかのように振る舞っています。クリフォードはひるむことなくこう述べました。いついかなる場合も、誰であれ、不十分な証拠に基づいて何かを信じることは間違っている、と。彼の挙げる事例は移民船を海へ送り出す船主です。船の堅牢さに疑いを抱きながらも彼はそれを押し殺し、摂理への心地よい信頼へと自らを言いくるめ、安らかな心持ちで出航を見送る。船は乗員もろとも沈みます。さて、彼は心から安全だと信じていた。その誠実さは彼を免責するでしょうか。否です。誰もがそう感じます。彼にはその信念を抱く権利がなかった。誠実な探究によってではなく、自らの疑いを窒息させることでそれを得たのですから。信念は盗まれたものであり、その盗みが一隻の船を沈めたのです。信念は決して私的な耽溺ではありません。それは公的な行為です。私たちは信じるところに従って行為するのですから。 クリフォードの船主には敬意を表します。彼は罪あるものであり、しかもまさにあなたの言うとおりに罪あるものでした。けれどもあなたが彼から引き出す原則は、その事例が支えうる範囲をはるかに越えています。ジェイムズはそこを捉えました。「不十分な証拠に基づいて何も信じるな」は純粋な論理のように響きますが、実のところは論理を装った情念的選択なのです。それは一つの選好を表しています。誤りを冒すよりは真理を失うほうがましだという選好を。そしてその選好はどこにも証拠によって証明されてはいない。命令は二つあって別々です。誤りを避けよ、そして真理を求めよ。両者は同じではなく、対立しうる。証明されるまで何も信じまいとする者は、虚偽から手を清く保つ代わりに、その証明に先んじて到来するあらゆる真理を取り逃がします。多くの問いにとってその代償は無に等しい。けれども他の問い——生きた・強いられた・重大な問い——にとっては、それが勝負のすべてなのです。 しかし「勝負のすべて」となる問いは、ジェイムズが必要とするよりはるかに稀であり、彼自身の例はごまかしています。船を取りましょう。船体は堅牢であるか否かであって、それは船主の望みとはまったく無関係に定まる。そしてそこでは規則は絶対です。行って見よ、と。大半の信念はそのたぐいです。ジェイムズはひと握りの奇妙な事例を当てにして、それから、たまたま真であってほしいと願うあらゆるものへとその許可を広げる。そして危険の向きに注意してください。船主が苦しんだのは疑いの過剰ゆえではなく、信じたいと願ったゆえでした。欲望が信念を生んだのです。それこそ証拠主義が治療する当の病です。あらゆる扇動者、あらゆるいかさま師、あらゆる自己欺瞞者は、ジェイムズの許可のうえに駆動している。「証拠は出そろっていないのだから、自分に都合のよいものを信じてよい」と。証拠を越えて信じる権利とは、軽信する者が常に主張してきた権利にほかなりません。 ではあなたが私の曖昧にしていると言う線を引きましょう。それは実在する線ですから。事実が私たちとまったく無関係に立つ事柄があります。船体、気候、薬の用量です。そこでは唯一誠実な道は証拠であり、信じたいと願うことは毒だと私も認めます。けれども第二のたぐいの事例があって、そこでは信念が事実を作るものの一部をなしています。あなたは私を信頼しますか。このチームは結束を保つでしょうか。この裂け目を跳び越える勇気が私にあるか。いずれにおいても、結果への信仰がその結果を到来させる助けとなり、先に証明を要求することは、恐れていた失敗をかえって保証する。マートンはこれを自己成就的予言と名づけました。それは神秘主義ではなく、立証された社会的事実です。誰もが破綻すると信じる銀行は破綻する。ここで証明を待つ証拠主義者は中立にとどまるのではありません。彼はより悪い結果を選び、その選択を厳密さと呼ぶのです。 自己成就の事例はそっくり認めましょう。そしてそれがあなたにどれほど少ししか与えないかを見てください。たしかに、信念が自らの真理の原因となるとき、希望のうちに行為することは合理的でありえます。けれども三つのことに注意してください。第一に、そこでさえ私は橋が保つと信じる必要はない。保つかのように行為すればよいのであって、行為することは信じることではありません。第二に、それらの事例は、あなたが外へ持ち出せない一つの特徴によって厳しく限られている。私の信念が現に因果連鎖のうちに位置を占めているという特徴です。第三に、そして決定的なことに、あなたが舵を切ろうとしている宗教的仮説にはそのような特徴がない。宇宙がその源に神を持つかどうかは、私の一票とはまったく無関係に真または偽です。私の信頼が友情を作る助けとなるようには、それを信じることがそれを真ならしめる助けとはならない。ですから裂け目で信仰を許す当のメカニズムは、祭壇の前では沈黙するのです。 あなたは反論を最も強い形で述べました。それでもなお縫い目が残っています。神の存在が私の一票を待たないことは認めましょう。形而上学はどちらにせよ動かない。けれども宗教的仮説は何かが存在するという主張であるだけではない。それは一つの関係の差し出しであり、関係こそ、あなたがいま認めたばかりの構成的事例にほかなりません。もし諸伝統が意味するたぐいの神が存在するなら、その神に出会うことは、証明が先取りして閉ざしてしまう当の信頼を要するかもしれない。友情を検分して存在させることができないのと同じです。ですから問いは「私の信念が神を作るか」ではなく、「これは証明に先んじてそこへ赴くことによってのみ到達しうる善か」なのです。そしてジェイムズの三つの徴が食い込んできます。その選択肢は多くの人にとって生きており、強いられており——中立とは生きられた不信仰にすぎない——そして重大です。待つことで賭けられているのは、ありうる善のすべてなのですから。 それは巧妙ですが、証明しすぎています。その論法でいけば、私が真であってほしいと願ういかなる信念も「赴くことによってのみ到達しうる善」となり、教団の指導者はまさにあなたがいま言ったことを口にする。来たれ、信頼せよ、さらば信頼のうちに証明を見いだすであろう、と。聖者を容れる構造は詐欺師をも容れます。両者を見分ける唯一の試験——共有された証拠——を手放してしまったのですから。そしてより深い難点があります。あなたは「信じる」と言い続けますが、ウィリアムズは、私たちが意のままに信じることはできないことを示しました。閉まっていると見えている窓を、いま開いていると信じてみてください。できはしない。ですから「信じる意志」とはおよそ信念ではない。非証拠的な手段——自己暗示、選択的注意、自らの疑いの回避——によって信念へと自らを追い込む企てなのです。そしてそれこそ、より穏やかな名のもとにある船主の罪なのです。 閉まった窓を開いていると私が信じることはできない。ウィリアムズはその点では正しい。けれどもそれで決着するとあなたが考えるなら、それは誤りです。信念は単一のものではないからです。明白な知覚に逆らって注文どおりに信じることは私にはできない。けれども証拠が真に尽き、事柄が決定不能であるところでは、心は固く閉ざされてはいない。それは傾くのです。私はいずれの仮説に向かって生きるかを、いずれにコミットして試すかを選びうる。それは閉じた窓を開いていると信じることではありません。希望のうえに行為することに、より近い。そしてあなたの詐欺師の反論はあなた自身の綱をも切ります。あなたの信頼する共有された証拠それ自体が、根底においては信仰のうえに受け容れられている。感覚が実在の世界を報告すること、未来が過去に似ること、理性が体系的に欺いていないこと。これらのいずれも、すでにそれを用いることなしには証明できない。証拠主義者は、まさにその底において、証拠によって決して獲得しなかったコミットメントのうえに立っているのです。 基礎づけの論点はあなたの最善のものです。それを避けるのではなく受けて立ちましょう。たしかに帰納、外的世界、理性の信頼性は、いかなる非循環的な証明のうえにも立ってはいない。けれどもそこから何が帰結するかを見てください。それはあなたの望むものではありません。それらは私が願望によって選んだ自由な信念ではない。探究そのものの逃れがたい前提条件であり、信仰者にも懐疑論者にもひとしくあらゆる思考者に強いられ、日々その働きのうちに正当化されている。神の仮説はそれとは似ても似つかない。それは他の主張に並ぶ論争の的たる一つの主張であって、思考に前提されてもいなければ、通りを渡るのに必要でもない。ですから「あなたもまた信仰によって生きている」が真であるのは、私たちすべてが立たねばならぬ床についてだけであり、その上に特定の大聖堂を建てるべきか否かについては何も語らない。証拠主義は何も信じるなとは決して言わなかった。目の前の事案が許す以上に決して信じるな、と言ったのです。 では私たちは標語が示唆するよりも近い。あなたの区別を受け取って、それを転じましょう。私たちすべてが立つ床が強いられたものであり、大聖堂が任意のものであることを認めます。それでもなお、任意であることは禁じられていることと同じではない。そしてクリフォードが述べたとおりのあなたの原則は禁じている——「いついかなる場合も間違っている」と。証拠を越える冒険が必然によって床において許されるのなら、床を許したのと同じ本性によって、それより高いところでも少なくとも許されている。そもそも思考するために証明に先んじてコミットせねばならぬ存在者が、生きるために証明に先んじてコミットするからといって罪人になりはしない。船主が罪あるのは、証拠が手に入り、しかも命がそれに懸かっていたからです。証拠が手に入らず、誰も危険にさらされていない祭壇の前の人は、まったく別の法廷に立っている。あなたは両者を同じ条文のもとで有罪とする。それこそ行きすぎなのです。 では条文を狭めましょう。あなたはその真の縁を見いだしたのですから。クリフォードの「いついかなる場合も」は、船主の世界——手を動かし、他者を害し、しかも検証しえた信念——のために枠づけられていました。そこでは義務は絶対であり、私はそれを和らげはしません。気候変動の否定者、ワクチン反対論者、偏見から信じる陪審員は、いずれも船主であって、誠実さは誰一人免責しない。私が動きうるのはあなたの描く密封された事例です。真に証拠を越えた仮説であって、信じる者のほかは誰にも触れず、他者に逆らって行為すべき何ごとも決しない仮説です。どうしてもというなら、そこでは信じなさい。けれどもその例外がいかに小さく、その壁がいかに厳しく守られねばならぬかに注意してください。なぜなら、他者を害する信念を誰も害さぬ信念と取り違え、船主の無謀を私的な信仰の跳躍として装うことこそ、まさに人間の得意とするところだからです。 その壁は喜んであなたとともに守りましょう。それが事柄の誠実な姿だからです。他者に逆らって動く信念、あるいは証拠が決しうる信念は、余すところなくあなたの義務のもとに入る。そして世界を破滅させる軽信の大半は、まさにそこに、礼拝堂の法廷ではなく船主の法廷に棲んでいる。ですから、私たちが終始その周りを巡ってきた区別に名を与えましょう。真理を目がけ証拠に応答する認知状態としての信念があり、不確実性のもとで行為するために引き受ける実践的態度——受容、信頼、希望——としてのコミットメントがあります。クリフォードは前者の法であり、ジェイムズは後者の自由です。船主は信じる者として誤った。跳ぶ登山者、信頼する友、すべてを賭ける探求者は、コミットする者として行為している。私たちは一つの事柄について意見を異にしていたのではない。二つを取り違えていたのです。 その区別は私たちのどちらが述べたうちでも最も有益なものです。それを受け取りましょう。ただし一つの頑なな留保つきで。もし信念とコミットメントをきれいに分けるなら、宗教の多くは私の側へ移ってきて、あなたの側ではなくなります。祭壇の前の信仰者は「私はその真偽を開いたままコミットする」とは言わない。「私は神が在ると信じる」と言うのです。彼女は真理主張を立てており、真理主張は、それを取り巻く心の温もりがいかなるものであれ、証拠の法廷に立つ。ですからあなたの救済が成り立つのは、信仰を信念から希望へとひそかに転じることによってだけであり、信仰者の多くは、それこそ自分たちの意味したものの核を抜き取るものだと言うでしょう。希望、信頼、冒険は喜んで許します。私がなお許せないのは、たとえ後光をまとっていようとも、その証拠よりも固く握りしめられた断言です。 そこに私たちのあいだの誠実な残余があります。大半の信仰者が希望だけを意味していると装うつもりはありません。多くは断言を意味しており、彼らにはあなたの規則が当てはまり、また当てはまるべきです。証拠よりも固く握りしめることこそ、後光があろうとなかろうと、まさにその過ちです。けれども自らを信念と呼ぶ冒険のためにこれだけは言いましょう。証拠が沈黙し、選択肢が強いられている真の極限において、コミットされた