The Traveller and the Tourist — Authenticity as a Souvenir — Epoche C2
場面設定: 国際空港の出発ラウンジ、夜。電光掲示板の便名が、軒並み『遅延』の橙色に染まっている。免税店の同じ香水の棚、同じ間接照明、四か国語で繰り返される搭乗案内。窓の外の滑走路では、雨が滲んでいる。旅行作家のダニエル(三十代、よれたリネンのジャケット、肩から提げた使い込んだカメラ、膝の上で開いたままの取材ノート)は、隣の席の女性が、自分の本棚にある一冊の著者——観光人類学者のメンサ教授(七十代、鮮やかな織りのショールを巻き、杖の柄に両手をのせ、騒がしい空間をどこか面白がるように眺めている)だと気づく。出発まで、まだ四時間。二人のあいだのテーブルには、紙コップのコーヒーが二つ。 四時間遅延ですって。……失礼、メンサ教授でいらっしゃいますよね。著作を拝読しました——お恥ずかしながら、私は旅行作家でして。ええ、まさにあなたの本が、こてんぱんにした商売です。それでも私は、まだ信じているんです。旅人と、観光客のあいだには、違いがあると。私は、絵葉書の裏側にある本当の土地を、いつも探そうとしている。ただ消費するだけの人たちとは、違うつもりなんですが。 旅人と観光客、ね。ブーアスティンが六十年前にその区別を葬ったのに、旅行作家ときたら、自分を慰めるために、決まってそれを墓から掘り起こす。『旅人』とは、要するに、他の観光客を見下す観光客のことですよ。あなたも切符を買った。あなたも、その土地に演じてもらいたがっている。ただあなたは、『観光地ずれしていない』ふりを演じてほしいだけ。違いは、その軽蔑の一点きり。そして、あまり見栄えのいい違いではありませんね。 それは、いくらなんでも皮肉が過ぎます。名所で写真の順番待ちをするのと、英語の品書きが一枚もない路地裏の台所に三時間座り込んで、料理人とのあいだに何か本物が通い合うのとでは——やはり違うでしょう。一方は消費で、もう一方は出会いだ。私は後者を経験しました。ものの見方が、変わったんです。 ああ——その『路地裏の台所』。一九七六年に、マッカネルが見抜いたものを教えましょう。あなたは裏舞台を、観光客向けの表の奥にある本物の暮らしを、探し求めた。だから、馬鹿ではない土地の人々は、あなたが見つけられるように、裏舞台のほうを拵えてみせる——演出された真正性、本物の台所を『演じる』台所を、演技を蔑む当の旅人のために、わざわざね。あなたが本物を狩り立てれば狩り立てるほど、それは念入りに捏造される。あなたの一番奥深い土産物が、一番入念に作り込まれた品かもしれないのです。 何もかもを演出できはしないでしょう。遅延、見知らぬ親切、私の話せない言語での行き違い——そんなものは、どんな旅程表にも載っていない。一度きりの偶然だけは、その仕掛けの網をすり抜けるはずです。 ときには、ね。けれど、私たちがこの会話を交わしている、まさにこの場所にお気づきなさい。(と、ラウンジを身振りで示す)この空港。オジェがこれを『非-場所』と呼びました。同じ店、同じ照明、同じ四か国語の同じ案内放送が、ラゴスでも、フランクフルトでも、リマでも流れる。超近代は、誰のものでも、どこのものでもない、この回廊で世界を舗装してしまった。あなたは『旅』の半分を、同一になるよう設計された場所で過ごす——まさに、どこにも到着せずに済むようにね。非-場所こそ、近代の旅人の、真の生息地なのですよ。 それこそ、私が抗っているものなんです——私は、人々を非-場所から連れ出して、本物の場所へ、注意を向けさせるために書いている。注意を払うこと、それ自体が、一種の敬意ではないんですか。 そうなりうる。けれど、誰の注意で、誰の犠牲において? ここで私は、人類学者であることをやめて、あなたのような人々に『発見』された土地の娘として話しましょう。ジャメイカ・キンケイドが一九八八年、刃のような筆で書きました——観光客にとって、私の故郷は絵になる背景にすぎない。私の貧しさは『風情がある』、崩れかけた道は『趣がある』。あなたは眺める。私たちは眺められる。あなたの視野が広がること——あなたの麗しい変容——は、私の故郷があなたの書き割りへと平板化される代償として、購われている。観光客とは、たとえどんなに心優しくとも、醜いものだと、彼女は言いました。 (気圧されて)……それは、厳しい鏡だ。けれど、では代わりに何を? 誰一人として故郷を離れず、あらゆる文化を互いに壁で隔てよ、と? 悪いまなざしへの答えは、より善いまなざしであるはずで、盲目ではないでしょう。 おそらくは。ですがまず、二つの慰めを手放しなさい。一つ目——目の肥えた者に消費されるのを待つ、手つかずで本物の『どこか』がある、という慰め。そんなものはありません。あるのはただ、他人たちの、ありふれた、込み入った、絵にならない人生だけ。それは、あなたに何の演技も負ってはいない。二つ目の慰めは、もっと古い。セネカがルキリウスに書きました——変えるべきは魂であって、空ではない、と。自分自身から癒されようとギリシアへ船出した落ち着かぬ男は、ただギリシアに、自分自身を抱えたまま、上陸するだけ。旅の大半は、高度を上げた、自己からの、自己の逃走なのですよ。 『自己からの、自己の逃走』。ええ——その空しさは、身に覚えがあります。ひと月で四つ目の国、そして、何ひとつ見ていないという奇妙な確信。けれど、移動が私を変えないのなら、そして真正性が買えないのなら、あなたは、私がこれをやる理由のすべてを取り去ってしまった。いったい何が、やる値打ちのあるものとして、残るんです? あなたに何かを支払わせる出会いです。違いは、旅人か観光客か、ではないと、私は思う。それは、客人か、観客か、です。観客は、土地が演じるのを眺め、何ひとつ変わらぬまま立ち去る——払ったのは、金だけ。客人は、変えられうる者として到着する——そして、何より、義務を負わされうる者として。観光客は、写真を手に入れる。客人は、負い目を手に入れるのです。 負い目。もっと聞かせてください——それは、旅行案内が決して使わない言葉だ。 一つの土地に、誰かに負い目を負うほど長く留まりなさい。隣人の世話になり、来週その食卓に期待され、自分のものでもない諍いに巻き込まれ、きれいさっぱりとは去れなくなるほどに。それこそ、あなたの台所の話がまさに手を伸ばしかけ、あなたの商売が決して越えさせまいとする、その一線です——なぜなら義務には時間が要り、観光とは、義務を結ばずに経験だけを手にする技術だからです。キンケイドのまなざしは、その土地があなたに『請求』できるようになった瞬間、向きを変える。見返させなさい。何かを、あなたに求めさせなさい。 では、正直な旅とは、より本物の『どこか』へ行くことではない——私が責任を負わされうる『どこか』へ行くことなんですね。カメラを、いつでも来ていいという誘いと、引き換えにする。その場所が、もはや一枚の眺めであることをやめ、私が応えねばならぬ名前の連なりになるくらい、ゆっくりと旅をする。 とうとう搭乗案内ですよ——あなたも私も、また非-場所へ逆戻り。キャスター付きの鞄と、免税の袋を提げてね。(と、意地悪くはなく微笑む)誤解なさらないで——私は、行くこと自体に反対しているのではない。行きさえすれば、それだけで私たちが大きくなる、というあの嘘に、反対しているのです。お行きなさい。ただし、留まるよう乞われるかもしれぬ者として、行きなさい。そして記事を書くときには、お若いの、キンケイドが要求し、絵葉書が決してしないことを、一つだけなさい——その土地に、あなたが着く前から既にそこにあり、あなたの便が飛び去ったあとも、あなたの変容にはまるきり無関心なまま、ずっとそこにありつづける魂を、与えておやりなさい。 解説: 夜の国際空港ラウンジ——オジェの言う『非-場所』そのもの——を舞台にした C2 級・十六ターンの弁証法。場所が同時に論証の証拠になっている。正:旅行作家ダニエルの立場——旅人と観光客には違いがあり、絵葉書の裏の本物の土地・路地裏の台所での真の出会いは人を変える、注意を払うことは敬意だ。反:観光人類学者メンサ教授の立場——ブーアスティンが旅人/観光客の区別を葬ったように、それは他の観光客を見下す観光客の自己慰撫にすぎない。マッカネルの『演出された真正性』により、探し求めた裏舞台こそ拵えられた表舞台であり、オジェの『非-場所』が世界を覆う。そして人類学者である前に『発見された土地の娘』として、キンケイドの刃——あなたの視野の拡大は、私の故郷が書き割りへ平板化される代償だ——を突きつける。セネカいわく、変わるのは空であって魂ではない。合:手放すべき二つの慰め(手つかずの真正な『どこか』/移動それ自体が人を大きくする)を捨て、対立軸を『旅人 vs 観光客』から『客人 vs 観客』へ組み替える。客人とは変えられ・義務を負わされうる者であり、一つの土地に負い目を負うほど留まること——まなざしに見返させ、場所に何かを請求させること——こそが観光と旅を分かつ。最後は『あなたが着く前から在り、去ったあとも無関心に在りつづける魂を、その土地に与えよ』に収束する。 参考文献 Boorstin, D. J. (1962). 『The Image: A Guide to Pseudo-Events in America』. New York: Harper & Row. MacCannell, D. (1976). 『The Tourist: A New Theory of the Leisure Class』. New York: Schocken Books. Augé, M. (1992). 『Non-Lieux: Introduction à une anthropologie de la surmodernité』. Paris: Seuil. Kincaid, J. (1988). 『A Small Place』. New York: Farrar, Straus and Giroux. Seneca, L. A. 『Epistulae Morales ad Lucilium』, 書簡28(R. M. Gummere 訳). Loeb Classical Library.